孤《こ》宿《しゅく》の人  (上) 宮部みゆき 新人物往来社          海うさぎ    一  夜明けの海に、うさぎが飛んでいる。  井戸端で顔を洗うと、ほうはわざと手拭いを使わず、ぐん! と頭を振って水滴を跳ね飛ばした。心地よく澄んだ夏の朝、みるみるうちに額や頬が乾いてゆく。目が覚めてゆく。  気づいてみれば、この井上の家で日々を過ごすようになって、半年が過ぎた。ここに来たばかりのころは、井戸端からながめる景色のあまりの素晴らしさに、水を汲んだり洗い物をするたびに、やっぱりこうして手を止めては見とれたものだった。そんなところに来合わせると、琴江さまはいつも優しく、海を指さし、空を仰いでは、その日その日の海の色の違いや、季節ごとの潮の流れの道筋や、夕べの波の立ち具合で明日の天気を占えることや、あれこれの星の名前を教えてくださった。 「ほう、見てごらんなさい。風はこんなに静かなのに、海には白い小さな波が、たくさん立ち騒いでいるでしょう。ああいうとき、この土地の者は(うさぎが飛んでいる )というのよ。うさぎが飛ぶと、今はどんなにお天気が晴れていても、半日も経たないうちに大風が吹いて雨がくるものなの。だから、海にうさぎを見ると、漁師は早くに舟を返してしまうし、紅貝染めの塔《とう》屋《や》で は樽に覆いをかけてしまいます。横目で見ると、小さくてきれいなうさぎだけれど、それは、海と空が荒れる前触れなのですよ」  ここに根づいて暮らせば、そうした事どもも、すぐに覚えることができるだろう、覚えればまたこの土地に親しみがわくだろうと、琴江さまはおっしゃった。たった一人、見知らぬ土地に取り残されたほうにとっては、その言葉がどれほど有り難いものだったか、半年前より少しばかり知恵がつき、しっかりしてきた今となっても、とうてい言い表すことなどできはしない。  ほうは襷《たすき》を締め直すと、元気よくがらがらと釣《つる》瓶《べ》を引っ張って水を汲んだ。夏のあいだ、毎朝こうして、冷たい汲み上げの水をお屋敷の皆様の洗面にお持ちするのが、ほうの役目のひとつだからである。  朝の煮炊きも、洗面のお世話も、ほうのような者にはとうてい任せられないが、水を運ぶくらいなら力さえあればいいのだから用が足りるだろうと、しずさんはいつも言っている。自分の足りないところについては、今さら言われるまでもなく、ほうはよく承知している。なにしろ名前の「ほう」は阿《あ》呆《ほう》のほうだ。  十年前の大晦日 —— あとほんの半|刻《とき》で御来光がさしかけ、新しい年が始まるというその時に、難産の末にほうは生まれた。江戸市中、内神田の建具商「萬《よろず》屋」の、じめじめして陽の当たらない女中部屋で。  ほうのおっかさんという人は、煮くずれた芋のようにぐずぐずとだらしのない女で、怠け者で、そのくせ強欲で、男たらしであったそうである。もっともこれは、ほうが萬屋の人たちから聞かされた話だから、おっかさんにはおっかさんの言い分があったかもしれない。だが、それを聞く機会はなかった。ほうを産んだ後、間もなくおっかさんは死んだ。  ほうは、おっかさんが萬屋の若旦那と通じてこしらえた子供だった。最《は》初《な》から、萬屋にとっては仇《かたき》であった。 育たずに死ぬことを望まれた赤子であった。おっかさんが死んでしまったのだから、なおさらだ。だが、ほうは生き延びた。  萬屋としても、赤子の生きる力が足りずに死ぬならいいが、若旦那の胤《たね》だとわかっているのを、敢えて手にかけるのは後生に悪い。仕方なしに、半月、ひと月、ふた月とほうを生かしておいた。そして三月目に、諦めたように溜息混じりで名前をつけた。それが「ほう」だ。名付け親はそのころの萬屋の主人、若旦那の父親だ。本当は若旦那を「この阿呆めが」と叱りつけたい気持ちを、赤子の名前に込めたのだろう。  そうしてほうは萬屋を出され、お店《たな》の奉公人の誰かの縁戚だという家に預けられ、八つになるまで、そこで育った。金貸しの老夫婦二人の家で、ほうが曲がりなりにも物心ついたころには、二人とも神様より年寄りに見えた。ほうを引き取ったのも、老後の面倒を見させようという目的があったからだ。萬屋では、毎月いくばくかの金《きん》子《す》を、預かり料として包んでいたようだが、老夫婦はかねならそこそこ持っていた。ただ、元気に立ち働く手足を失いつつあっただけである。ほうは、いずれそれを助けるための人手であった。  しかしその割には、いや、それだからこそか、金貸し夫婦はほとんどほうにかまわなかった。食べ物も気まぐれに与えられるだけ、躾《しつけ》らしい躾もなく、犬の子のように放っておかれた。だからひっきりなしに病にかかったし、ひょろひょろに痩せて、三つぐらいになるまで一人で立つこともできず、言葉もろくにしゃべれなかった。老夫婦は、子供などはほったらかしにしておいても育つと思っていたのだろう。そして育ち上がったら、びしびし鍛えて顎《あご》で使えばいいのだ、と。  もしもあのままだったなら、今ごろどうなっていただろう。ほうは、こうして井上の家に落ち着いてから、たまに考えることがある。本当の野犬のような子供に育って、手に負えないと、金貸しの家からも追い出されていたかもしれない。身体がもたなくなって、おっかさんのいるところに逝《い》っていたかもしれない。  ほうが九つになった、正月明けのことである。金貸しのところに、萬屋から大番頭が遣いに来た。松は取れたとはいえ、まだおめでたい気分が残っているころなのに、煤《すす》けたような不機嫌な顔で、両の眉のあいだに雨水でも貯めようかというほどの深いしわを刻んでいた。  先年の秋口から、旦那さま、若旦那さまが立て続けに病みついて、最初はただの風邪かというぐらいの様子だったのが、次第次第に埃が溜まるように病が積み上がって重篤《じゅうとく》になり、今は二人とも枕のあがらない様子だと、大番頭は告げた。萬屋は、いくつかの譜代大名家にも出入りする格式のある商家だから、こんなことをうっかり表沙汰にするわけにはいかない。商《あきな》いのほうはお店の者と職人たちで何とかしているが、それにしても心配は募る。 「それでこのたび、さるところから名のある修験者をお呼びして、加《か》持《じ》祈《き》祷《とう》の上、ご託宣をいただいたのですが」  不遇に死んだ奉公人の魂が、萬屋を恨んでいる。それが障《さわり》りになっていると言われたという。 「そう言われて、思い当たるのは、ほうの母親ぐらいのものです。まったくあれは性悪女だ。死んでからもまだ祟《たた》りおる」  修験者は、この障りを取り除くためには、萬屋を恨んでいる死者の縁につながる者を、萬屋の深く信心している寺社へ送らねばならぬと言ったそうである。 「そうなると、それもまた、ほうしかいないことになります」  大番頭は、にがよもぎを噛むように言葉を噛んだ。 「ご託宣では、その子が男の子ならば寺子として差し出すのがいちばん良いということだったが、ほうは女の子だ。つくづく用が足りない。それでも、寺社へ送って拝ませるだけでも効き目はあるとおっしゃるので・・・・ここはひとつ曲げて、ほうを萬屋に返していただけませんか」  ほうがいなくて困ることがあるならば、代わりの女中でも探そう、寂しいというのならば貰い子も世話しようという申し出を、金貸しの夫婦はすぐに承知した。  こうしてほうは、萬屋に帰った。頑是《がんぜ》無いなりに、自分が何処《どこ》かに遣られることはわかっていたが、それが江戸から何百里も離れた見知らぬ遠い土地だとは、さすがに思いもよらなかった。   二  四国は讃岐国、丸海藩。  三万石というこぢんまりした所領ながら、れっきとした譜代大名である。北を瀬戸内海に面し、南を山に囲まれ、滋味豊かな自然に恵まれた郷《さと》だ。そも「丸海」とは、入り江の形のなだらかに円いことと、この海が穏和でそこに住まう者たちに優しく豊かであることから名付けられた、古い地名なのである。  藩主の畠山《はたけやま》氏は、元は関東に所領を持つ小大名だったが、二百年ほど前に移されて、この地を治めるようになった。所領増の国替えではあったが、当時は、領民たちとの文化・習慣の違いに苦心惨憺したことが、今も藩士たちのあいだに訓話の形で語り継がれている。  畠山氏は長門《ながとの》守《かみ》を名乗り、現在の藩主である畠山盛継は四十二歳、嫡子盛永は十七歳。太平の世のことではあるし、幕府の要職にあるわけでもないから、これという評判の立つこともない当主ではあるが、江戸藩邸の庭には、丸海の居城から見おろす入り江の美しい形をそのままなぞった池があり、「満月を映して満月を顔色なからしめる輝き」の意から「凌《りょう》月《 げつ》地《 ち》」と、そこに面して立つ茶屋は「凌月庵」と呼ばれ、文人墨客を集めて、少しばかり名を知られている。  が、そんなことのすべては、ほうのあずかり知らぬことである。  丸海藩の西方、城下町を出て山間《やまあい》を一日歩いたところに、海難除け・雨乞いの守護神として深く敬われている金比羅大権現さまのお社《やしろ》がある。古くからこの地の人々の信仰を集めてきたこの神様を、萬屋もまた拝んでいた。江戸では、金比羅詣では伊勢詣でと同じくらいに重んじられ、一生に一度はするべきものとされているが、萬屋の場合はその上に、遠く元をたどれば萬屋の創業の当主が、讃岐の出身であったことが、さらに重ねてこの神様を尊ぶべき理由となっていたものであるらしい。讃岐の海に育った者が、たかだか数代、八十年ほどの歳月のあいだに、どこをどう転がって江戸市中の建具商になったのか、そのあたりは出世話でもあり苦労話でもあるのだろう。また、萬屋が江戸屋敷の改修や修繕を承る(お出入り許し)の大名家の筆頭に、丸海藩主の畠山家もちゃんと入っている。江戸と讃岐の距離はあっても、萬屋の歴史のなかから、この地縁は消えていないのだろう。  が、それもまた、ほうには関わりのないことである。  問題は、萬屋がそういう信心をもっているが故に、ほうのような子供が、はるばる江戸から讃岐の金比羅さまを拝みに旅しなくてはならない——ということの方だった。  それまでにも萬屋では、数年に一度の割合で、主人が詣でるか奉公人の頭にある者が代参するかの違いはあっても、讃岐の金比羅さまを拝みに通っていた。だから長旅の段取りは知っていたし、手づるもあれば、馴れてもいた。それでも、九つの子を一人で西国の彼方へ遣るわけにはいかないと考えた。別にこれは、ほうの身を憐れんだからではない。ほうが金比羅さまに着く前に、行き倒れにでもなったら参拝がかなわず、祟りが解けないことを恐れたのである。  しかしながら、主人と跡継ぎが揃って寝付いている状況では、お店の者たちも手一杯で、誰もほうに同行して江戸と讃岐の往復旅をするような余裕は持ち合わせていない。大番頭があちこちに掛け合い、相談を持ちかけて奔走した結果、萬屋と同じように金比羅信仰の厚い日本橋の酒問屋が数軒寄り合い、讃岐へ旅しようとしているところに、ほうを混ぜてもらうことで話がまとまった。  無理を頼んで、足弱の子供を割り込ませていただくのだから、萬屋としても気をつかったのだろう。そのころはまだ、自分の身の回りのこともできるかどうか怪しいものだったほうに、年若い女中を一人つけてくれた。これはしかし、ほうにとっては災難だった。意地悪く、意地汚く、目下の者を虐《いじ》めることをはばからないこの女中のおかげで、ほうの旅はかえって過酷なものになった。むしろ、同行の酒問屋の寄り合いの人々の方が、ほうの身の上をそれなりに憐れんだのか、折節、親切にしてくれた。  金比羅詣でには、まず大阪へ出て、そこから乗合船に乗り、讃岐の丸海という港まで行く。しかし、それよりもずっと手前、東海道を西へ向かうあいだに、いくつかの宿場でほうは動けなくなった。ご飯をもらえなくて腹が減りすぎたり、突き飛ばされて怪我をしたり、わらじが切れたら裸足で歩けと急《せ》かされて足の裏が擦り剥けたり、とにかくさんざんの目にあった。それでもどうにかこうにか大阪の宿にたどり着き、乗合船に乗るところまでは辛抱できたのだけれど、今度は生まれて初めての舟に酔ってしまい、ふらふらヨロヨロと、起きあがることさえできなくなった。 「これでは金比羅さまに連れていっても、あの七百八十五段の石段を登ることなど、とうていできまいよ。船酔いは、地に足がつけば嘘のように治るものだ。この乗合船が丸海の港に着いたら、この子は数日、宿で休んで、元気を取り戻してから金比羅さまに向かうのがいいだろう」  酒問屋の寄り合いの人びとは、皆でそう勧めてくれた。船に弱い参拝客が、よくそうするものだという。だから丸海の旅籠《はた ご》町も——日本中から集まる参拝客によってたいそうなにぎわいを見せている金比羅宮の門前町とは比べものにならないけれど——こうした客たちの落とす金のおかげで、潤いを得ているということだった。  旅の道連れの誰よりも、ほうを厄介払いしたくて仕方がなかった萬屋の女中は、ほうだけを丸海に残して、自分は金比羅さまに行きたかったようである。が、そんな手前勝手な話が通るわけもなく、 「おまえとて、物見|遊山《ゆさん》に来たわけではないだろう」  強く叱られて、不承不承、ほうを連れて丸海港に降り立った。木賃宿を見つけて泊まり、ほうはようやく、ぐらぐらと揺れることのない寝床で身体を休めてほっとしたが、死んだようになってひと晩眠り、目を覚ましたら、連れの女中がいなくなっていた。  路銀もそっくり持って行かれた。  琴江さまはこんなふうにおっしゃっていた。「その女中は、どうにかしておまえを置き去りにして、お金を独り占めして、同行の方たちに咎《とが》められることもなしに、何処か好きなところへ立ち退くことができるならそうしたいと、ずっと思っていたのでしょう。だから、おまえの船酔いに、これは願ってもない折だと気づいたのでしょうね。何処へ行こうと、勝手のわからない他所の土地で若い女が一人、いずれ良い方に転ぶわけはないのだけれど、手近の欲に目がくらんでしまったのね」  置き去りにされたのは、ほうが悪いからではありませんよ —— と慰めてくださったのだった。  行き場を失くした子供を、旅籠の方でも扱いあぐねたのだろう。旅篭町の差《さ》配《はい》方《かた》だという、怖い顔のおじいさんに引き合わされて、それから間もなく、ほうは、「中円寺」というお寺に連れていかれた。藩主畠山家の菩提寺である真言宗の「楽円寺」というお寺の末で、由緒正しいお寺だと聞かされたけれど、行ってみると山の中の大変な荒れ寺で、本堂は傷んでいて雨漏りがひどいし、山門も鐘楼堂もない。柱を切り倒された跡だけが残っている。長い年月のうちに、薪《たきぎ》に困ると切り倒し、燃やし尽くしてしまったのだという。  住職は、旅籠町の差配方よりもさらに怖い顔のおじいさんだった。二人並ぶと、おでこから目のあたりにかけて、よく似ていた。そしたら兄弟だというから驚いた。住職の方がお兄さんなのだそうだ。 「ここはご本尊だけあって檀家のない寺じゃ。御仏はおるが、金はない。それでもおまえがよく働くならば、食べ物と寝床には困るまいよ。行き先が見つかるまでは、ここにおるとよい」  金比羅詣でに来て行き倒れたり、路銀が尽きたり、さまざまな事情で困っている人びとは、おおかたここに集まるのだという。 「まぁ、お救い小屋のような場所じゃと思えばいい。日々の暮らしで必要なことは、集まった者同士が互いに助け合ってこなしてゆく。寺の裏には畑もある。おまえは何をして働けるかな」  怖い顔の住職は英進《えいしん》という名だったが、皆からはただ和尚さま、和尚さまと呼ばれていた。和尚さまは最初、ほうが上手くしゃべることができず、身の上も、こんなことになった経緯も説明することができないのを、ただ内気だからと思っていたようだ。それでもお寺で暮らすほうを見ているうちに、この子の身体のあちらこちらに傷跡があるし、痩せ方が尋常ではないし、まるで野犬のようにものを知らない、乱暴なふるまいをすることもあるしで、これは少々事情が違うと察したのだろう、あるとき、ほうを呼び寄せて、 「読み書きはできるかの?」と尋ねた。  教わっていないから、できなかった。  「数はどれくらい数えられる?」  やはり教わっていないから、ふたつまでしかわからなかった。ひとつあるものをふたつに分けることしか、そのころのほうの頭では理解できなかったのだ。  ほうは一生懸命に言葉を探し、自分の名前は「阿呆」のほうだということだけ、何とか言うことができた。 「さても非道《ひど》い名前を付けられたものだ」  和尚さまはいかつい顎を撫で撫で、ほうの顔を見て首を振った。 「しかし、だからといっておまえが本当に名前どうりになることはない。ただ、弱ったの。今のその様子では、この寺では暮らして行かれぬかも知れん。他の者たちも、皆、自分のことだけで精一杯じゃ。だが、おまえにはもう少し親身になって、いろいろなことを一から教えてくれる者が要る。さりとて、養い親を探すのも難しいだろう」  ちと心当たりをあたってみるから、しばらく辛抱するのじゃよ —— そう言って、和尚さまはまた首を振った。  そうして、和尚さまがあたって引いてたぐり寄せた先が、井上家だったという次第だ。  代々藩医を勤める家柄である。  丸海藩には七人の藩医がおり、それを指して「匙《さじ》」と呼ぶ。藩医の長は「匙筆頭」だ。  井上家の当主である舷洲《げんしゅう》先生は「匙」のご身分で、ご長男で跡継ぎの啓一郎先生は無給の見習い、「無《む》足《そく》医《い》」として父上のお手伝いをしている。医術を学ぶことに忙しい毎日だけれど、立場としては自由がきく。そのせいか、ほうの身の上に同情して、しかるべく一人立ちできるまで、行儀見習いの奉公人という形で養いましょうと申し出てくれたのも、この啓一郎先生であったそうである。先生は和尚さまに請われて、中円寺で暮らしている人びとを診察することがちょくちょくあって、お寺のこともよく知っていた。  そして啓一郎先生の妹が琴江さまである。舷洲先生の奥様はすでに亡く、啓一郎先生はまだお独りなので、内々のことは琴江さまが切り回している。ほうを引き取ると、 「まず、身体をしっかりと丈夫にしなくてはなりませんね」  と、まめまめしく世話を焼き、しばらくのあいだは病人を介抱するかのように大事に扱ってくださった。そしてほうが元気になると、琴江さまがお行儀のあれこれを——それこそ箸のあげおろしから衣服の畳み方に至るまでの細々としたことを——啓一郎さまが読み書きと算術を、少しずつ少しずつ、ほうが呑み込めるまで繰り返し繰り返し、辛抱強く教えてくださった。  ほうは、井上家にたどり着いて初めて、人の子らしい暮らしをしたのだった。  三月もすると、ほうはずいぶんしっかりとして、琴江さまを喜ばせた。啓一郎先生のおかげで、自分の身の上についても、とつとつと、法外な手間をかけてではあるが、何とかかんとか話せるようになった。  萬屋のことを聞くと、お二人は、よく似た面差しの顔を、揃って曇らせた。 「ほうは辛い思いをしてきたのですね」  身体が元気になったからには、金比羅さまに詣でなくてはならないけれど、それではこの家の皆様に何の恩返しもできず、ただお世話になったままになる。ほうは正直に気持ちを打ち明けた。すると啓一郎先生は静かに首を振り、 「萬屋のためならば、もう金比羅さまに行く必要はないよ。先方がつけた女中が、ほうを置き去りにしたのだ。そこでもう、義理は返した。おまえはこの家にいなさい」  ほうは嬉しかった。萬屋のことが気にならないわけではなかったが、井上家に置いてもらえることが、何よりも嬉しかった。  ところがそうなると、 「お嬢さま、井上のお家はほうを養女としてとったわけではございません。奉公人として入れたのでございますから、これからは厳しく躾けなくては。いずれその方が、この子のためでもございます」  と、身を乗り出してくる人が二人いた。一人が家守の金居新右衛門さまで、もう一人が勝手賄いのしずさんである。  金居さまは舷洲先生よりもずっと年上で、干からびたように小さく痩せていて、その身体から、ときどき驚くような大きな声を出すことのあるお年寄りである。家守というのは畠山家独特の言い方で、他所では家令とか世話役とか呼ぶのだそうだ。商家でいうところの番頭さんのようなものである。家のなかのことのすべてをを仕切り、すべてを見張る。  一方の勝手賄いは女中頭のようなものだ。とても偉い。少なくともほうの目には、井上家ではしずさんがいちばん偉いように見えた。舷洲先生でさえ叱られることがあるのだから。 「先生、またお膳を残しましたね!」 「あれほど申し上げているのに、どうして遅くまで灯をともして書きものなんかなさるんです?また野兎みたいな目になっておられるじゃございませんか!」 「水浴びをなすったら、すぐにごしごしと身体を拭いておかないと、お風邪を召します!何度申し上げたらわかるるんですか」  しずさんはびしびし叱る。  井上家のあるこの堀川番町は、その名のとうり、お城の外堀にいちばん近い町地である。海が見渡せる高台であるのもそのせいだ。藩医は外堀内のお屋敷町には住まず、町場にいて医術の修行かたがた町人の診療にもあたるのが、丸海藩のならいなのである。だから、しずさんが大きな声で舷洲先生を叱ると、通りを歩いている人の耳にまでその声が届いてしまう。おかげで舷洲先生は、城下では「叱られ舷洲」として知られていた。  もっとも当の舷洲先生には、一向に気にする様子はない。先生は名医として名高いので、からかってやろうという輩も多く、家の塀に皮肉な落首など書かれることもあるが、 「上手いものだ」 「こちらは少々語幹が悪いな」  などと感心して、金居さまが怒っても、しずさんが恥じても、「へのカッパ」である。そういえば、この「へのカッパ」という言葉をほうに教えてくれたのも舷洲先生で、教えているところをしずさんに見られて、そのときもやっぱりガミガミ叱られたものだった。  ほうは水汲みを終えると、ゆっくりと釣瓶を井戸の水際までおろして、手を離した。ぱっと放り出して、がらがらバッシャンとやってはいけない。井戸の神様が驚いてしまうからと、これもしずさんのきつい教えだ。  顔をあげると、ほうはまた海を見渡した。すっかり日が昇り、青みを増した丸海の入り江に、たくさんの白いうさぎたちが、どこへ急ぐのか忙《せわ》しなく飛んで行く。雲はまだ遠いけれど、このうさぎたちの早足では、午前《ひるまえ》には雨になるかもしれない。しずさんは昨日、明日は洗い張りをすると言っていたけれど、たぶんそれは止めになるだろう。納戸の片づけが先だな。重たいものがたくさんある。  ——— でも、へのカッパだ。  ほうは思い切り顔を緩め、よいしょと水桶を持ち上げた。        三  海うさぎたちは、ほうが思ったよりも早く、雨を連れてやって来た。  堀川番町の時の鐘が四ツ刻を報せるころ、入江の方からいちだんと潮の匂いの強い風が吹きつけてきたかと思うと、大粒の雨が地を打つようになった。ほうはしずさんと、下男の盛助さんと三人で家じゅうを走り回り、大急ぎで雨戸を閉《た》てた。  琴江さまは雨を見ると、すぐにお屋敷の東棟にある診療部屋と待合部屋へと駆けて行かれた。干してあるさらしや、薬草などに雨がかかると台無しになってしまうからだ。  今日は半月に一度、七人の(匙)が集まる薬事寄合の日で、舷洲先生は朝食のあと登城されたので、診療は啓一郎先生お一人でしている。夏場は食あたりや暑気あたりの患者がちらほらと来るくらいで、病人は少ない。手の空いているときは、啓一郎先生はたいてい医学書を読んでおられて、夢中になってしまうと、外で雨が降ろうが雷が鳴ろうがまったく気づかない。 「これは行き会い雨だね」  ひととおり雨戸を閉て終えると、しずさんは太い腕を組んで、竈《かまど》の上の明かり取りを見上げながら呟いた。 「半刻くらいで通りすぎてしまうよ。あとはまた、暑くなるだろうよ」 「雹《ひょう》が混じってらぁ」  同じように明かり取りを仰ぎながら、盛助さんが言った。 「そら、ぱらぱら、ぱらぱらってよ。大きいねえ。こりゃ、畑が心配だ」  耳を澄ますと、確かに雨粒が屋根を叩く音に混じって、小石を投げるような音が聞こえる。海うさぎが連れてくる雨には、こうした雹や霰《あられ》が混じることがあり、これがよく牛馬の目を傷《いた》める。人も、幼い子供だと頭や耳に思いがけない傷を負うことがある。 「傷薬は足りているかしらねぇ。先《せん》に港で喧嘩騒ぎがあったときに、いっぺんに使ってしまっただろ?」 「琴江さまが見ておられるから、大丈夫ですよう」  盛助さんは言って、のんびりと笑った。この人はしずさんよりはちょっと若いけれど、きびきびとよく働き、はきはきとものを言うしずさんに比べると少しばかり鈍《のろ》いので、老けて見える。どういう縁で井上家の下男になったのか、ほうはよく知らない。おかみさんと子供がいるのだが、いろいろと事情があって一緒には暮らせず、別れ別れになっているという話も聞きかじったこがあるが、詳しくはわからない。  しずさんは家のなかのことを切り回し、盛助さんは外のことをする。それを金居さまが監督する。ほうは、二人のどちらの手伝いもする。それでも、しずさんのほうが万事において早いので、たいていの場合、ほうはしずさんに言いつけられたことばかりやっているような気がする。また盛助さんは静かな人でもあるから、ちっとは俺のほうを手伝えなどと、ほうを虐めることもない。 「俺は畑の方を見てくる」  畑というのは井上家の南面の敷地いっぱいに広がる薬草畑のことで、ここの手入れも盛助さんの大切な仕事の一つだ。 「そんなら、ほう」と、しずさんが厳しくほうに呼びかけた。「一緒に行って、盛助さんを手伝っておいで。あんたもそろそろ、畑のことも知っていい頃合いだ」 「俺一人でいいよう」盛助さんは手を振った。「ほうを、この雹のなかへ出すのはかわいそうだ」  盛助さんはほうに優しい。これは本人から聞いた話だから確かだが、盛助さんの子供は男の子だが、歳はほうと同じくらいであるそうだ。だからほうの顔を見ると、子供のことを想うのだそうである。 「何がかわいそうなもんか。雹くらい、怖がっていちゃ立ちいかないよ」  ほうは、はいと返事をした。盛助さんは笠をかぶって顎紐を締め、着物の袖をくくっている。手早くそれに倣《なら》った。 「蓑《みの》は着ないでいいよ。畝《うね》の間が狭いから、歩きにくくなるからな」  二人は勝手口から外に出て、大雨のなかを身を屈め、建物をぐるりと回って薬草畑に向かった。雨脚は強く、すでに足元がぬかるんでいる。盛助さんの頭にちょこんと乗った笠に、雹がころころとぶつかっては跳ね落ちる。 「こいつぁ、えらい天気だ」  笠に跳ねて頬にかかる雨粒に顔をしかめ、盛助さんは呟いた。 「今朝のうさぎの飛びようで、雨が来るのはわかっていたけども —— 」  薬草畑では、背の低い草木に麻布をかけたり、倒れかけたのを起こしたり、根元に吹き寄せられて山のようになっている雹を集めて捨てたり、盛助さんはせっせと働いた。ほうは見よう見まねで手伝い、顎から雨粒が滴り、背中がびっしょりと濡れた。  作業のあいだに、頭上をすっぽりと覆ってしまった厚い雲のなかで、何度か稲妻が走った。が、ゴロゴロという音は聞こえない。  盛助さんは、雨に目を細めて空を仰いだ。 「こういうのは薄気味が悪いんだ。ほう、覚えておきなよう」  ほうは不思議に思った。この海うさぎの雨の、何が気味悪いのだろう。さっきから、盛助さんはしきりに気にしているようだけど、雹が降るのも珍しいことではないのに。  何も言わなくても、ほうの表情を見てとったのだろう。盛助さんは小腰を屈めて、ちょっとほうに近づいた。 「今日は巳《み》の日だ、暦を見たろう」  暦の読み方なら、琴江さまに教わった。が、難しい字が多いのでまだ読み切れないところが多い。ほうは物覚えが悪いのだ。 「巳の日に海うさぎが飛ぶのは、良くない印なんだよう」  巳は蛇だ。蛇はうさぎを丸飲みしてしまう。だから巳の日に飛ぶ海うさぎは、ただ雨を告げるために現れるのではない、海の向こうからやって来る蛇から逃げているのだ——と、盛助さんは言った。 「雷さまが鳴りをひそめているのも、蛇が近づいて来ているからだよう。丸海の海の雷神さまは、蛇はお嫌いだからなぁ」  その話なら、しずさんから聞いたことがある。丸海の城下町には日高山神社という雷除けの神社があり、ここのご神体は、かつてこの山の主だったという、真っ白な牡の山犬の皮である。何百年も昔、地上に降りて暴れ回っている雷獣と闘い、これを倒したことで雷神に認められ、その眷属となって、丸海の海山を雷から守る力を得たのだそうだ。以来、春夏の雷害から、よく丸海を守ってくださっていたのだが、あるとき大蛇に呑まれ、その腹を食い破って倒したものの、自身も傷ついて命を落とした。そこで丸海の人びとは彼の皮を奉じ、日高山に社を建てて祭ったのだという話だ。  今でも、春夏の雷害は決して少なくないから、日高山神社は丸海藩の守護の神様である。  そうこうしているうちに、少し雨足が緩んできた。雹が笠を叩く音も間遠《まどう》になった。 「おう、おう。早くあがってくれい」  笠の縁に手をかけて、盛助さんが空に向かって呼びかけた。  そのとき、ほうは気づいた。  簾《すだれ》のような雨の向こう、誰かが坂道をのぼって、井上家にやって来る。白い着物 ——— 白い笠。  雨に遮《さえぎ》られ、足元が見えない。そのせいで、その人は歩くのではなく、滑るようにするすると近づいてくるように、ほうには見えた。  ほうは盛助さんの袖を引っ張った。盛助さんは、顎の先から雨を滴《したた》らせながらほうを振り返り、それから、やっと近づいてくる人影の方に目を転じた。 「おりょりょ、この雨のなかを —— 」  と、目をこらす。おやと驚きの声をあげた。 「あれは、梶原のお嬢様だぁ」  物頭《ものがしら》の梶原|十郎《じゅうろ》兵衛《べえ》さまのご息女だ。お名前は美《み》祢《ね》さまという。「匙」の家は、当然ながら藩士たちと交流が深い。なかでも、梶原家では奥様が病みついて長く、ずっと舷洲先生が診ておられるので、特に頻繁に行き来がある。  美祢さまは琴江さまと同じくらいの歳で、隔てなく親しくなられたのだろう。気さくに井上家に出入りをして、ほうもこの半年のあいだに、何度もお顔を拝見した。しかし、こんな天気をおして来られるということは、何か急な御用かもしれない。  雨が邪魔をしているのか、美祢さまは薬草畑に立つほうたちには気づかない。脇見をせずに、しゃんと前を見て、姿勢を正しくすいすいと歩いてゆく。竹垣の横をすうと通り過ぎて、診療部屋の方へと向かっていった。近くで見ると、着物も笠も白くはない。浅《あさ》葱《ぎ》色の薄いような色だ。どうして見間違いをしたのだろうか。  それに、美祢さまは泥道をしっかりと踏みしめて歩いておられた。当たり前の話だ。それをどうしてするすると音もなく、滑るように進んで来るなどと見てしまったのだろう。  蛇の話などしていたせいだ。きっとそうだ。  ほうはまばたきをした。美祢さまはもう竹垣の角を曲がって姿が見えない。  頭上でまた、雷光が光った。  そして突然、ぴたりと雨がやんだ。雹もぱたりとやんだ。最後に落ちたいくつかが、地面に跳ねて転がって止まった。  なぜかしら、その瞬間、ほうはぶるりと身震いが出た。     四  ひとしきりの激しい雷雨がやんで、間もなくのことである。井上家に急な来客があった。ごめん、ごめんと呼ばわりながら、足を緩めず木戸門を抜けると、まっしぐらに啓一郎の診察室へと走る。  雨上がりのぬかるみを蹴立てて駆け込んできた若い藩士の顔に、点々と血が飛び散っている。両襷《 たすき》に 袴《はかま》のももだちを取り、足は泥だらけだ。 「若先生、若先生!」  啓一郎を呼ぶ声は裏返りかけていたが、舷洲先生が在宅でないことはちゃんとわきまえていた。 「どうしました」  襷の先に、作事方の印がついている。啓一郎はすぐにそれを見て取った。 「怪我人が出たのですね」 「はい、涸《かれ》滝《たき》の牢屋敷です。いえ、元の浅木屋敷の —— 」  啓一郎はうなずいた。「加賀殿お迎えの作事ですね。ご苦労様です」  啓一郎は手拭いを差し出した。藩士はそれを受け取ったが、顔を拭うことまでは気が回らないのか。それをしっかと掴んで、続けた。「今朝方から、屋敷廻りの竹矢来を立てておりました。それが先ほどの雨で突然崩れ —— 」  藩士の顔が一段と青ざめた。 「さほどの大事とは思えませんでした。なにしろ竹を組み上げただけのものです。が、引き出してみるとそのうちの四、五名が、傷を受けて血を流しておりました。深手で、倒れたまま起きあがれぬ者もおります」  わけがわかりませんと、泣きそうな声を出した。かなり取り乱している。 「わかりました、すぐ参りましょう。他の匙家には人を遣りましたか」 「これから私が向かいます。人足たちは逃げ散ってしまいました。皆、怯えきっております。これではまるで加賀殿をなぞってでもいるようで ——— 」  啓一郎は手をあげて若い藩士を制した。 「匙家には、私の方から遣いを出しましょう。人手が要ります。あなたは柵屋敷へ行って、手伝ってくれる人を集めてください。怪我人を乗せる戸板を調達することも忘れないように。涸滝からいちばん近いのは、本《ほん》條《じょう》寺《じ》ですね。怪我人はそこに運びます」  柵屋敷とは、お城の外堀のすぐ内側に暮らす下級藩士たちの侍長屋のことだ。井上家から、走ればすぐの距離である。前のめりになって藩士が駆け去るのを見届けてから、啓一郎は「琴江、琴江」と呼んだ。  返事はなかった。  啓一郎はもう一度声を張り上げ、妹の名を呼んだ。先ほど、あの雨のなかを梶原の美祢が訪ねてきた。啓一郎はちらりと挨拶を交わしただけだが、美祢の顔が妙に青白く、表情が張り詰めていることに気がついた。琴江は美祢の顔色から用向きを察したのか、吹き降りをついてやってきたのを驚く様子もなく、自室に招じ入れてすぐ唐紙《からかみ》を閉ざしてしまった。  親しい女同士の話だ。啓一郎は遠慮して、琴江を呼ぶことも控えていた。だが、今は場合が違う。何を話し込んでいるのか知らないが、手伝ってもらわなくてはならない。  金居がやって来たので、他の匙家への報せに盛助を遣るよう命じた。匙の七家には厳しい序列があり、家風もそれぞれ違うから、こういう折りにすぐ人を出してくれるところもあれば、渋るところもある。ただ、報せだけは届けておかないと後が面倒なのだ。  廊下側からしずが、庭からほうが走ってやってきた。ほうは桶を抱えている。拭き掃除を始めるところだったのだろう。 「若先生、大変なことになりましたな」  金居が進み出て、座敷の縁先に落ちた血の跡を見た。さきほどの藩士の履き物についていたのだろう。 「爺、琴江は出かけているのか」  啓一郎は手早く往診の支度を整えながら訪ねた。 「梶原の美祢さまと、一緒にお部屋におられるはずですが」 「呼んできてくれ。しず、傷薬を」 「はい!」 「ほう、さっきの雨で、さらしは濡れなかったか?」  ほうはしゃにむに首を振り、それからやっと言葉を口に出した。「し、しまいました、から、だいじょうぶ、です」 「それじゃ抱えられるだけ持っておいで。幅の広いものも、細いものも、あるだけ全部だ。持ってきたら、こちらの箱に詰めるのだ」  てきぱきと、しかし温和な口調は保ったまま、啓一郎は皆に命じた。が、ひととおりそれが終わると、 「琴江!」  もう一度奥に向かって、大きく呼びかけた。苛立ちに近い顔色になった。 「何をしているんだろう」  啓一郎が立ち上がったとき、診療部屋から母屋に続く廊下の向こうで、大きな声があがった。金居の声だった。 「若先生、若先生!」  先ほどの若い藩士よりも、もっと動転した叫び声だ。 「お嬢様が! これは何としたことだ!」  勝手口の方へ戻りかけていたほうが、はっとして立ち止まった。 「若先生、来てください!」  金居がまた叫ぶ。尋常でないその声の色に、啓一郎は眉を寄せた。 「爺、何事だ」  廊下の先へと早足で行く。ほうがついてくる。  廊下と座敷の境の唐紙は開けっ放しになっている。琴江の部屋だ。 「お嬢様、しっかりしてください、お嬢様!」  金居が叫び続けている。啓一郎は座敷のなかに駆け込んだ。  庭に面した窓の、雨戸が一枚だけ開いている。そこから雨が吹き込んだのか、畳が濡れている。溶けかけの雹が二つ三つ転がっている。それが光って、まずほうの目を射た。  それから、座敷のなかで起こっていることが見えた。  倒れた琴江さまを抱きかかえて、金居さまが懸命に声をかけている。金居さまにぐらぐらと揺すられて、そのとき、琴江さまの頭がぐらりと傾き、ほうの方へ向いた。  琴江さまの目は開いていた。ふたつの目が、ぽっかりと開いていた。でも、そこには何も映っていない。その目はまばたきもしない。  いつもほうに優しい言葉をかけてくれる、あの柔らかい唇が閉じている。そして一方の端から、生々しい血が流れ落ちている。 「琴江!」  啓一郎先生が叫んだ。琴江さまに駆け寄るとき、先生の爪先が何かを蹴った。湯飲みだ。来客用の、淡い青色で描かれた唐子の柄のお湯飲みだった。中身がこぼれて、畳の上に広がった。  美祢さまの姿は、どこにもなかった。ただ雨戸が開いているばかりである。ただふたつの座布団が向き合っていて、ひとつは琴江さまの頭のあたりに押しやられ、今ひとつは底に座る主もないまま、ぽつねんと座敷の上座側に取り残されている。  うしろでどさりと音がした。振り返ると、 「 —— お嬢さま」  しずさんが傷薬の黄色い包みを取り落とし、目を見開き、口元を歪めて立ちすくんでいた。  琴江、琴江 —— 啓一郎先生がどれほど呼んでも、琴江さまはぐったりと動かない。やがてその手がぱたと畳の上に落ちた。 「琴江さま、しっかりしてください、琴江さま!」金居さまも叫ぶ。でも琴江さまは答えて下さらない。  啓一郎先生ははっと顔をあげると、小鳥につかみかかる鷲のように、床に転がった湯飲みを拾い上げた。それを鼻先に近づけると、今度はさっと遠ざけた。 「若先生」金居さまは血の気の引いた頬をひくひくさせている。「琴江さまはどうなされたというんです」  低く、かろうじて聞き取れるほどの声で、啓一郎先生は言った。「毒だ」  しずさんがうわぁ と声をあげた。 「毒 —— とな」  琴江さまを抱えたまま、ぺたりと腰を抜かして金居さまは呟いた。 「お嬢さまは、毒でお亡くなりになったのですか」  啓一郎先生は、お嬢さまの手首の脈をとり、ゆっくりとうなずいた。 「この茶碗の毒だ —— おそらくな」  ほうは琴江さまの白い腕を見た。着物の袖がめくれて、ぐったりと剥き出しになっている。優しく温かく、働き者の腕。  しかしその白さが、ふと、あの雨と雹と音のない雷の下で見た、美祢さまの白い姿を連想させた。  蛇のようにするすると音もなく。 「これでは、先ほどの者の言うとおりだ」  金居さまが呆けたように喉声で言った。 「本当に —— 加賀殿の所業を繰り返しているかのようだ。あんな非道の者が丸海にやって来るから —— 不吉な —— 」 「爺、やめろ」啓一郎先生は小さく言った。それでも、声が震えているのはわかった。  加賀殿・・・・。ほうはぼんやりと考えた。この三月ほどのあいだに、あちこちで耳にする呼び名だ。  ご公儀の、大変偉いお役目にあった方だという。何かでお咎めを受けて、この丸海に流されてくることになったという。近々、到着のみぎりには、涸滝のお屋敷に閉じこめられることになっているという。丸海藩がそれで準備に追われていることくらいは、ほうだって知ってはいる。  だけれど、それは井上家には関わりのないことだ。それなのにどうして、琴江さまが毒を飲んで死ななければならないのだ?加賀殿の所業をなぞるなんて、それはどういう意味なのだ?  非道、不吉。何がどうして。  しずさんが頭を抱えて泣いている。やがて金居さまも声を呑んで泣き出した。だが、ほうは、あまりにも深いところにいきなり突き落とされて、今はまだ涙も出なかった。    五  丸海藩は小藩ながら、政《まつりごと》がゆきとどき、城下町の人びとは、おおむね安心して日々を暮らしている。  この土地を悩ます煩《わずら》いと言えば 、春夏の雷害と秋に来襲する台風、それに伴う高潮だが、それは自然のなせる業であって、またその自然は、豊か海の幸と肥沃な土を与えてくれる恵の主でもあるのだ。恨むばかりでは罰があたるだろう。だから、丸海は暮らしやすい土地だと、この地の者たちは、まずは胸を張って言うのである。けっして豊かではないし、贅沢もできないが、はなはだしく飢えることも窮することもない。この海山に囲まれてさえいれば・・・・と。  そういう土地柄では、人も落ち着き穏やかだ。ただ金比羅様をお隣に仰いでいるから、他所からの旅人の往来も多いし、豊富な海産物を中心に商いも活発なので、人と人、人と金とが関わって、思いがけない事件が出来《しゅつたい》することもある。裁判や治安維持の仕組みは、小藩と言えどもきちんとしたものがなくてはならない。  丸海藩では、その頂点にあるのは評《ひょう》定《 じょう》所《  しょ》である。大目付が二人、御目付が四人。その下で、組織は三つに分かれる。ひとつは、畠山家の家臣団つまり士分にある者たちのあいだで起こった事件と、丸海領内にある寺社に絡んだ事件を取り扱う「公《く》事《じ》方《かた》」。次が、城下町に住む一般領民に関わる事件を扱う「町役所」だ。町役所は江戸の町でいう町奉行所にあたり、やはり江戸と同じように奉行が二人いて、月番で公務を勤める。三つ目が「郡役所」で、城下町以外の村落を管轄し、奉行職があるが、実務はさらにこの下に位置するいくつかの代官所で行う。代官所では、治安維持の他に年貢の取り立てや管理も行うので、自分の差配する土地に対しては大変に睨みがきく。  公事方と郡役所では、その内部でいくつか職制があるけれど、いずれも上から下へとさがる段階的なもので、そう複雑ではない。が、町役所では少し事情が違う。町奉行のすぐ下に「船奉行」という役職があり、丸海藩の玄関口であり、交通の要でもある港と、港を中心にできあがった漁師町や旅篭町のすべては、この船奉行の管理するところとなるからだ。港は丸海の城下町のほぼ真北に位置しているから、おおむね町の北半分は船奉行の、南半分が町奉行の「縄張り」というわけである。もちろん、位としては町役所全体の長である町奉行の方が高いのだが、港がなければ成り立たない丸海藩では、実質的には船奉行の権限がとても大きい。そのぎくしゃくとした仕組みのせいか、このふたつの奉行職とその下に働く者たちは、代々、折り合いがよろしくない。  町奉行と船奉行の下には、それぞれ「同心小頭」「同心」の役職の者たちがいる。同心小頭は、江戸町奉行所でいう「与力」とほぼ同じ役割を果たしている。また、同心たちの手助けをするいわゆる「岡っ引き」にあたる存在に「引手」という者たちがいて、彼らはむろん藩士ではない。町場の者たちで、年寄りもいれば若者もいる。たいていは他に生業をもっているが、町役所から年にいくばくかの(雀の涙ほどの)手当が出て、一応、丸海藩に直に仕える形になっているのが、同心や与力個人に手当をもらってかかえられる、江戸の岡っ引きたちとは違うところだ。  丸海の城下町はほぼ碁盤の目に仕切られている。町筋の幅や大きさも、だいたい揃っている。そこで、町筋を縦に三つ、横に三つ数えるごとに番小屋を置き、引手たちは交代でそこに詰める。町廻りの同心たちにとっても、番小屋は重要な足場だ。  一方、船奉行所差配下にも同心小頭と同心の仕組みがあり、磯番小屋というものもあるが、そこに詰める者たちは、引手ではなく、「磯番」と呼ばれている。港の治安を守るだけでなく、潮見台から海と空を眺めて、その日その日の天候と風向き、潮の流れや波の具合を見張り、記録することも仕事の内となる。  番小屋は、いわばその町筋の集会所だ。縦三つごとの番小屋には火の見|櫓《やぐら》も建てられているので、そこでは引手たちは火事の見張り番も勤める。要するに、城下町で出来する事なら何でも片づけ、必要とされる事なら何でもやるのが番小屋なのである。こうした仕組みは、長い長いあいだに少しずつつくりあげられてきたものだが、今の形に落ち着いたのは、現藩主盛継公の代になってからだと、ほうは教えられた。  お堀の外、つまり町場で起こった事件を扱うのは、本来は町役所の仕事だが、井上家は(匙)だから、当主の井上舷洲は名字帯刀を許された士分である。だから、琴江さまの変死の知らせを受けると、井上家には、公事方の役人が二人やって来た。  ほうはもちろんお城の堀の内側に立ち入ったことなどないし、他の武家屋敷に行ったこともないから、遠目にしろ、公事方のお役人を見るのは初めてのことである。袴をしゅっしゅと鳴らし、奥の間へきびきびと足を運んでいくお姿は頼もしく見えた。琴江さまにいったい何が起こったのか、誰が琴江さまに毒を飲ませたのか、梶原のお嬢さまは何処へ消えたのか。いっぺんにどすんと積み重なり、井上家の人びとの目の前を暗くしている謎の数々を、すぐにも解きほぐしてくださりそうに見えた。  一方、公事方に少し遅れて駆けつけた町役所の同心の方は、うって変わって頼りない。とるものもとりあえずと、引手も連れずに一人でやって来て、一度は奥へ入っていったけれど、すぐに出てきてしまって、後はずっと、うなじのあたりを撫でさすりながら、いたずらにせかせかとそこらをうろついているばかりである。ただこの人は啓一郎さまと仲が良く、常日頃から井上家に出入りしているので、ほうも馴染んでいる。  名前を渡部一馬という。はっきりと歳を聞いたことはないが、啓一郎さまよりもいくつか年長のようだ。お二人はかつての道場仲間だそうなのだが、啓一郎さまが剣術を習っていたのは、ちょうどほうぐらいの年頃のことだそうだから、よほど昔の話だ。大人になって、それぞれ立場が違ってしまっても仲良く付き合っているというのは、気が合うからだろう。  ほうには、それが不思議だった。渡部さまには、およそ啓一郎さまと似たところがなかったからだ。流行病が猛威をふるい、診療部屋に入りきらないほど患者が詰めかけたり、真夜中の火事でけが人が大勢出たり、海が荒れて船が転覆したり —— どんな火急のときでも、啓一郎さまはいつだってしゃんとして落ち着いている。口調が乱れることもないし、優しい目の色にも代わりはない。それは、今し方の悪い夢のような琴江さまの死のときにもそうだった。啓一郎さまは誰よりも先に立ち直り、泣いているしずさんとほうをなだめ、金居さまに言いつけて、屋敷内を見回らせ戸締まりと火の気を確かめさせた。  渡部さまという人の人となりは、そうした落ち着きとはまったく無縁である。いつでも何となくひょこひょこそわそわしている。じっとしていられないいたずら小僧のように、落ち着きなく足を組み替えている。ぐりりとした眼と短くて太い眉の目立つ顔が、そうした仕草と組み合わさると、いかにも短気に、癇の強そうな感じに見えた。  それでも渡部さまは、きっとお頭《つむり》がよろしいのだろう。でなければ、そもそも啓一郎さまと親しくなるわけがない。ほうはそう思っていた。  公事方からお呼びがかかるかもしれないから、盛助さん、しずさんとおとなしく控えているようにと言いつけられていたので、ほうはやたらに動き回らず、ずっと台所にいた。しずさんはぐったりと両肩を落とし、ときどき思い出したように涙をぬぐってはくちびるを噛みしめている。  あれをやらなければ、どこそこへ報せなければと、うわごとのように呟《つぶや》くけれど、その声も上滑りしている。お遣いから帰るなり、この凶事を知らされて、土間の入り口のところにへたり込んだ盛助さんは、ぽかんと目を開いて宙を見つめたきり、ぴくりとも動かない。  三人でそうしていると、開けっ放しの戸口ごしに、渡部さまが裏庭を横切るのが見えた。一度は右から左へ、二度目は左から右へ。そして三度目にはまた右から来て足を止め、戸口からこちらへ顔をつっこんで、皆の顔をつくづくと見回した。  取り立てて悲痛な顔はしていない。怒っているようにも見えない。いつもの顔だ。渡部さまの場合、「いつも」の顔はつまり「イライラと不機嫌そう」ということだ。独特の赤い羽織がまったく似合わない。  江戸から来ていちばん驚いたことのひとつに、ここ丸海では、「同心」と呼ばれるお役人たちが、皆、着物の上に薄緋色の羽織を着ていることだった。江戸の町の町方役人は、黄八丈などの着流しに黒羽織と決まっていた。それがここでは、みんな申し合わせたように紺色の着物に紺の袴、その上に赤い羽織を着込んでいる。丸海の名産物のひとつである。紅貝染めの布でこしらえた羽織だ。普通の羽織のたもとをすぱりと半分に断ち切ったような形で、丈も短い。夏場は、着物の上に重ねるのはこれでも暑いのか、袖のない陣羽織のような形のものに変わる。どちらも、袖と背中のところに、畠山家の紋所「輪違い紋」が白抜きで入っている。同じ色合いで同じように紋所を染め抜いた暖簾《のれん》が、番小屋の表にもかけられているが、これらは十年ほど前から始まったしきたりだそうである。 「おい、生きてるけ」  唐突に、渡部さまは短く訊いた。そして、ちょうど手近にうずくまっていた盛助さんの肩をゆさぶった。 「盛助、ちゃんと息をしろ」  盛助さんはぽかんと渡部さまの顔を仰ぎ、ようよう、相手がお役人であることに気づいたというように、あわてて立ち上がろうとした。渡部さまは、今度はその肩を押さえた。 「そのままでいい。しず、おまえも大丈夫け」  と、今度は声を張り上げて、耳の遠い人に言うように、ゆっくりとしずさんに呼びかけた。しずさんは先から上がり口に正座していたので、そのままうなずいて深く頭を下げた。でも、声は出てこなかった。  いつも、渡部さまが啓一郎さまを訪ねて来ると、必ず「お役目ご苦労様でございます」と、しずさんは挨拶する。その後でこっそり盛助さんやほうに、「渡部さまは、こちらにお役目を怠けに来るんだけど、でも挨拶は挨拶だから」と言うことはあったけれど、ご本人の前では、いつだって堅苦しいくらいにしていた。  それが今は、挨拶の言葉が出てこない。今日こそ本当に、渡部さまがお役目でいらしたのだというのに。それどころか、板の間に手をついて顔を伏せると、そのまま呻《うめ》くように泣き出してしまった。  渡部さまは表情を変えず、仏頂面のまま、泣き伏したしずさんをながめていた。それからほうを見た。 「おまえ、なんだっけ、そこのチビ助」  ほうはぴくりとして、自分の鼻の頭にひとさし指をあてた。 「そうそう、おまえだチビ助」  ご用なら俺がと、また立とうとする盛助さんに首を振って、 「盛助は奥に呼ばれるからここにおれ。子供なら勘定外だ。ほら、早くこっちゃ来い」  ほうはあわてて土間へ降り、履き物をはいた。渡部さまは先にさっさと裏庭に出てしまったが、ほうが外へ出ると、手を伸ばして丁寧な動作で戸を閉めた。それから、ほうの手を手荒く引っ張って戸口から離れ、押し殺した声で言った。 「おまえが梶原の美祢殿を見たという場所へ連れていってくれろ。啓一郎に聞いた。薬草畑だそうだな?」  か、かしこまりましたと返事をして、ほうは走り出した。渡部さまはほうのすぐ後を、無言でついてくる。  薬草畑の地面はまだ湿っていたけれど、草々の葉はもう乾いていた。あれほどの雨が嘘のように、空は青く晴れ上がり、今では西の方にひとかたまりの雲が見えるだけだ。 「こ、このへんです」  ほうは立ち止まり、息を切らしながら、坂道の方を指さした。渡部さまは一度ひたとそちらに目を据えてから、ほうの顔を見た。 「あの坂道のどのあたりだ。どのへんで美祢殿と気づいた?」 「のぼってきてすぐのところです。ずっとこっちに向かって歩いてこられました」  渡部さまは、薬草畑に踏み込まないように足をあげ、身体の向きを変えてほうの前に回った。「おまえは美祢殿の顔を知っているのけ?」 「はい」 「何度か会ったことがあるんだな」 「はい」うなずいて、ほうは急いで言い足した。「それに、あのときはあたしだけじゃなくて盛助さんが一緒にいました。梶原のお嬢さまだって、盛助さんも言いました」 「盛助がそう言ったから、おまえもそう思いこんだだけじゃないのやけ?その時は雨が降っていたのだろう?傘の内だ。確かに美祢殿だと、はっきり見てとれたのけ?」  叱るような強い言葉だった。何か問いかけるとき、「か?」というところを、「け?」とか「やけ?」と言い、「してほしい」とか「した方がいい」というようなときに「くれろ」と言う。丸海の言葉だ。他にもいくつか独特な言い回しがあって、初めて耳にした頃には驚いたものだ。ただ、丸海を出て大阪や長崎に学問しに行ったり、藩主の江戸入りに同行することもある匙の家では、自然と土地の言葉を使うことを控える。だから使用人のしずたちも、お屋敷のなかでは使っていない。それでも、江戸言葉に比べると愛嬌があって、ほうはこれらの言葉使いがけっこう好きだ。  が、不機嫌な顔の渡部さまにズケズケと問われると、愛嬌どころか怖くなってくる。  「でも、梶原のお嬢さまでした」 「美祢殿はおまえたちに気づいたけ?」 「いいえ」 「それはおかしい。おまえも盛助も、美祢殿に挨拶をしなかったのけ?」 「雨の音がして —— 聞こえないと思ったんです —— 」  それだけではない。あのときの美祢には、何か薄気味悪いような、この世のものではないような感じがまといついていて、声がかけられなかったのだ。盛助さんだって、きっとそうだったのだろう。 「それでおまえは、美祢殿がお屋敷に入っていくところを見たのけ?」  それは見ていない。坂道をのぼりきって、門の方へ歩いていく姿を見ただけだ。 「もう一度訊くが、確かに梶原の美祢殿だったのだな?」 「はい、はい、確かに」ほうは胸の前で両手を握りしめた。「あの、梶原のお嬢さまは、今どちらにいらっしゃるのですか」  本人を捜して訊いてみればいちばん確かじゃないか。だが、渡部さまは眼を尖らせてほうを睨んだ。「おまえの知ったことではない!」  ほうは今度こそ縮みあがった。金居さまにもしずさんにもよく叱られるが、こんなふうに頭ごなしに怒鳴られたことはない。それに、ほうが叱られていると、いつもどこからか琴江さまが聞きつけてやってきて、優しくかばい、ほうのしたことの何が拙《まず》かったのか、どうすればいいのかと、よくよく言い聞かせてくださった。  でも、琴江さまはもういないのだ。今朝はお元気だったのに、もう二度とお会いすることはできない。もう、ほうがこんなふうに怒鳴られても、琴江さまがかばってくださることも、慰めてくださることもない。琴江さまは亡くなってしまったのだ。  遅れていた涙が、どっと溢れてきた。握りしめた両手の拳を口にあてて、ほうは声をあげて泣き出した。  すると今度は、渡部さまがあわてた。しゃかしゃかと足を踏みかえて、しゃがみこみ、ほうの顔をのぞくと、 「おい、泣くな。泣くなと言うに!」  もっと叱りつける口調だった。ほうの涙は止まらない。えーん、えんと泣いた。 「頼む、泣かないでくれろ」渡部さまはほうの頭に手を置いて、乱暴にぐらぐらと揺さぶった。 「わかったわかった。大きな声を出したりして、俺が悪かった。そう言えば、琴江殿はおまえを可愛がっておられたからな。悲しいのはわかるが、そんな大声で泣かないでくれろ」  壊したものをあわてて拾い集めるような、不器用な慰めだった。それよりも、渡部さまがその言葉の尻に、独り言のように付け足した一言の方が、ほうの心に届いた。 「——— 俺だって泣きたいのだ」  渡部さまはそう呟いて、口を結んだ。ほうは拳で両目をぬぐい、涙で曇った目で渡部さまの顔を見た。  どんぐり眼が、ちょっぴり赤くなっていた。  二人は目と目を見合わせた。ほうはしゃっくりをした。渡部さまがもう一度、ほうの頭をごりごりと撫でて。 「おまえ、名前はなんといったっけ」  またひとつ泣きじゃくりをしてから、ほうは答えた「ほう、です」 「そうそう、ほうだ。変わった名だ。琴江殿が言っていた」 「あほうの、ほうです」  渡部さまの口元が、懐かしげにほころんでくいと持ち上がった。微笑したのだ。 「そうだそうだ。ひどい親だと、琴江殿は怒っておられた。あの子はちっとも阿呆ではありませんと、な。おまえがどんなに働き者か、一人でこの見知らぬ丸海に取り残されてしまったのに、泣き言も垂れずにどんなに気丈にしているか、よくあれこれと話していたものだ」  ほうは驚いた。琴江さまと渡部さまが、そんなふうに語らっていたなんて、ちっとも知らなかった。  もしかしたら・・・・いや、きっと、渡部さまは琴江さまがお好きだったのだ。でも、それだとちょっと困ったことだったろう。まだ公にするのは早いので、井上家のなかでもおおっぴらに話されることはなかったけれど、琴江さまには縁談があって、それが進んでいたはずだから。相手は渡部さまではない。船奉行を勤める保田吉安さまの御子息、新之介さまという方である。どんな方なのか、ほうは知らない。それでも、舷洲先生も啓一郎さまも喜んでおられたようだから、良い話なのだろうと思っていた。琴江さまが他家へ縁付いてしまわれては寂しいけれど、良い縁談ならば喜ばなくてはいけないと、自分に言い聞かせてもいた。 「残念なことになった」膝を伸ばして立ち上がりながら、渡部さまは呟いた。 「みすみす琴江殿を死なせてしまうとは、俺はとんだ抜け作だ。阿呆はおまえじゃないぞ、ほう。俺だ。この俺だ」  拳固を固めて、自分の頭をごんと打った。手加減のない打ち方だった。悔しさがこもっていた。  思わず、ほうは言った。「でも渡部さま、琴江さまは毒を飲まされたんです。啓一郎先生がそうおっしゃいました。琴江さまを死なせたのは、茶碗に毒を入れた誰かです」  渡部さまはなぜか、ぐいと顎をひいてうなだれた。そのまま言った。「それも、まだわからん」  わからないことがあるものか。梶原の美祢さまを探せばいいじゃないか。 「匙の家の事件だから、これは公事方が仕切ることだ。そういう決まりだからな」  俺は手出しができんと、渡部さまは低い声で言った。それからもう一度しゃがむと、今度はほうの両肩に手を置いて、頼むような口調で言った。「それでも、ほう。俺もこのままではおられん。俺が近づけば目立つが、引手なら大丈夫だろう。俺の使いだという引手がおまえを訪ねて来たら、手伝ってやってくれ。いいな?」  勢いに呑まれて、ほうはうなずいてしまった。でも、 「あたしなんかが、お役にたてるでしょうか。しずさんや・・・・ううん、金居さまの方が」  渡部さまは苦しげにかぶりを振った。 「大人を巻き込むわけにはいかんのだ。頑是無い子供の方がいい。それにおまえは、本当にしっかり者だと琴江殿は言っていた。何より、嘘のない子だと言っていた」  門の方から騒がしい人声が聞こえてきた。どうやら、舷洲先生がお城からお帰りになったらしい。渡部さまは腰をあげ、首を伸ばしてそちらをうかがうと、 「さ、行け」と、ほうを押しやった。 「それから、俺とこんなことを話したなどと、誰にも言ってはいけないぞ。しずや盛助にもだ。わかったな?」  ほうは門に向かって駆け出した。舷洲先生の駕籠が帰ってきている。先生がどんなに驚き、悲しむだろうと思うと、それでまた膝が震えるほどに悲しくなってきた。  だから、渡部さまのあの口振り、言葉の端々をつなぎ合わせて考えて、 (ひょっとして渡部さまは、もしかして琴江さまの身にこういうことが起こりはしないかと、先から案じておられたのじゃ?)  そう思いついたのは、かなり後になってからのことだった。やっぱり、阿呆のほうだ。     六  ほうが薬草畑に行っているあいだに、舷洲先生がお帰りになったほかにも人の出入りがあったらしい。奥の座敷の人声が増えている。それでも渡部さまがおっしゃったとおり、ほうは勘定外で一度も奥に呼ばれることはなかった。  それでも、しずさんと盛助さんはようやく立ち働きだし、 「本篠寺に差し入れをするから、米をといでご飯を炊いて、青菜を洗っておくれ。ご飯が炊けたら、一緒におむすびを作るからね」  と、命じられたのは有り難かった。何もすることがないと、琴江さまの死に顔ばかりが頭の中に蘇って、そのたびに胸がつぶれるような悲しみが襲ってくる。何でもいいから身体を動かしていたかった。  ほうが台所にいるあいだにも、また二、三人が出入りした。駆け足だが、足音を忍ばせている。ご飯が炊きあがると、頃合いを見計らったようにしずさんが台所にやってきた。さんざんに泣いたせいか目が腫れている。釜の蓋を取って中身を検分し、厳しく言った。 「あんたったら、まだ水加減を覚えられないんだね。やわらかすぎるじゃないか」 「すみません」  本当に役立たずったらありゃしないと、しずさんは毒づいた。今までずいぶん叱られたけれど、こんな意地悪な言い方をされたのは初めてだ。 「そうだ、あんた、涸滝のお屋敷に行っておいで。もう怪我人はいないか、竹矢来だの普請のあれこれだのはどうなったのか、様子を見てきてほしいんだ」  しずさんはたたみかける。 「それから、その足で本篠寺にも行くんだよ。皆さんの召し上がりものを用意していますってことをお伝えして、足りないものはないか訊いてくるんだ。思ったよりも怪我人が多いらしくて、向こうじゃ手が足りないそうだから、何か言いつけられたらなんでもお手伝いするんだよ。こっちにはすぐ帰ってこなくてもいいんだから」 「でも、おむすびを ——— 」 「そんなのは、あたし一人でやった方が早いんだから、いい」  剥き出しに、ほうを台所から、いや井上家から追い出したがっていた。いくら鈍いところのあるほうでも、さすがにこれには気がついた。意地悪な物言いも、わざとしているのかもしれない。  ほうには知らせたくない何かが、お屋敷のなかで起こっているのだろうか。 「しずさん」 「何だよ!」  しずさんは釜のなかのご飯をおひつに移している。しずさんらしくない手洗いやり方なので、湯気がまともに顔にあたって熱そうだ。 「—— 琴江さまは、どうなるんでしょう?」  しずさんの手がちょっと止まった。今にもくしゃくしゃに歪んでしまいそうな口元を、無理してぐいと結んでから、さも憎々しげにほうを叱りつけた。 「どうなるって?お嬢さまは亡くなってしまったんだよ。これからどうなるもこうなるもあるもんか」 「そうじゃなくって、あの、だって、毒を」   しずさんはまた釜の中身をこそげ出し始めた。あれではご飯粒がつぶれてねばねばになってしまう。 「梶原のお嬢さまは、捕まらないんですか?」 「めったなことをお言いじゃないよ!」  大声を出してしまってから、あわてて手で口を押さえ、しずさんはほうのそばに飛んできた。片手にはしゃもじを持ったまま、ほうの腕をねじりあげた。 「そんなこと、二度と口に出すんじゃない! いいね? 涸滝でも本篠寺でも、誰にも、何にも、ひとことだって言うんじゃないよ。琴江さまが亡くなったってことも、言っちゃいけないんだからね」  腕がちぎれそうなほど痛かったけれど、ほうは我慢した。しずさんを見上げて、精一杯の早口で言い返した。 「言いません。それは言いません。だけど、どうして皆さん、梶原のお嬢さまを探さないんですか。探して、いろいろ訊いてみなくちゃいけないのに」  しずさんはほうの手を離し、顔を伏せた。 「見つからないんだって。梶原のお宅にはいないんだってさ」 「それじゃ、どこか他所に?」 「わからない。おおっぴらに探し回るわけにはいかないんだ。美祢さまがお帰りになるのを待つしかないんだって。今朝方、日高山神社にお札をいただきに行くって、一人で出かけたきりなんだそうだ」 「梶原さまはそこらの軽輩とは違うからね。美祢さまのことを、やたらに疑うわけにはいかないんだ。それぐらいの理屈は、あんただってわかるだろう?わからないかい?」  しずさんの顔には、悲しみよりも悔しさが濃く浮かんでいた。ほうはうなだれることしかできなかった。でも、おかしいと思った。いくら役付きの方のお嬢さまだって、怪しければ捕まえて話を聞き出さなくてはいけないはずなのに、なぜそんなにびくびくするんだ? 「とにかく、あんたは出かけりゃいいんだ。あ、だけど、ちょっとお待ち」  しずさんはどたどたと床を鳴らして奥へ駆けてゆくと、まもなく戻ってきた。煎じ薬用の、小さな朱色の袋を持っている。 「さ、これを持ってお行き。使い方は、本篠寺にいるお医者さまなら誰でもご存じだ。怪我で血を流して、冷えてしまった身体を温める効き目のある煎じ薬だからね。それから、診察部屋の奥の棚に新しいさらしを出しておいたから、それも担いで持ってお行き。いくらあっても足りないだろうから」  突き放されて、ほうはすごすごと台所を出た。診察部屋へ行ってみる。そこには誰もいなかった。しんとしている。ほうは要りようなものを風呂敷に包むと、それを背負って井上家から外へ出た。  いつのまにか、お天道様はほとんど頭の真上にまでのぼっていて、明るい陽の光がさらさらと降り注ぐ。一年のこの時期、五月の丸海がいちばん好きだと、琴江さまはよくおっしゃっていた。空も海も山々も、すべてが輝いて見えるから、と。  涸滝の牢屋敷、元の浅木屋敷は、丸海の町の南西の端にあった。お城の西外堀の縁に沿って二筋ほどの町屋が立ち並んでいるが、その先を登っていったところに位置している。そのあたりはもう山だ。涸滝と呼ばれるのも、百年ほど昔はここに小さな滝があり、地形の変化でそれが枯れてしまった後も、岩肌に水が流れた跡が残っていたからである。  こんなところは、本来「屋敷」と呼ばれるほどの建物を建てるにふさわしい場所ではない。浅木屋敷は、十五年ほど前、丸海藩で代々の重臣を輩出してきた浅木家で不可解な病が流行り、家人がばたばたと倒れては寝付いてしまったとき、当時の浅木家当主で家老職を勤めていた浅木尚久が、原因のわからないこの病をお城と城下町から遠ざけようと、特に願い出て普請した療養用の屋敷なのだった。  それは不思議な病だったそうである。病状は熱病に似ているのだが、城中や町中ではそのような病などまったく流行っていないのに、どういうわけか浅木家の家人や家臣ばかりが狙われたように病みつくのだ。いったん治ったかと思った者も、数ヶ月してまた倒れる。一年ばかりのあいだ、そのようにして続き、数人の死人を出したところでぱたりとやんだ。病人のなかには浅木家の奥方も息女もいたが、死んだのは用人など軽輩ばかりで、浅木家本体には大事なかった。藩主からは特に咎め立てはなかったが、浅木尚久は病が沈静してから半年ほどして職を退き、回復した家人たちが堀内の屋敷に戻るのと入れ違いに涸滝の屋敷で隠居生活に入り、三年ほどで死んだ。 以来、涸滝の浅木屋敷は空き家になっていた。山中ではあるし、病人を移すために大急ぎで建てたので、普請にも足りないところが多い。何より縁起が悪い。誰も好んでは住みたがらなかった。ただ、そのような謂《いわ》れの家であるからこそ、荒れ放題に放置するのもかえって憚《はばか》られ、浅木家では手入れを怠らずにいた。また、もしも再びあの不可思議な病が舞い戻って浅木家を襲うことがあれば、すぐに使うことが出来るように、という考えもあったのだ。  その涸滝の浅木屋敷が、このたびは牢屋敷になるのである。加賀殿 —— 皆にそう呼ばれ、眉をひそめられている人物。流刑となった罪人。その人を預かり幽閉するために、これほどうってつけの器は他になかった。涸滝の屋敷はすっぽりと山に抱かれ、北の城下へと降りる道は、この屋敷を普請する際に急遽通された一本道があるだけだ。山に慣れない者の足では何処にも逃げようがない。病を封じ込めるために建てられた屋敷だという不浄さも、幕府を裏切り罰を受けて流されてくる者を閉じこめるにはかえって適切かもしれぬ。  ——— でも、その加賀さまって、どんなひどいことをしたんだろう?  登りにかかった道を早足で歩みながら、ほうは懸命に考えた。江戸からはるばる流されてくるくらいなのだから、よっぽど悪いことをしたのだろう。 (これはまるで加賀殿の所業をなぞっているようで)  涸滝の屋敷で怪我人が出たことを知らせにきた若い藩士はそう言った。 (加賀殿の所業を繰り返しているようだ)  琴江さまが毒を飲まされて亡くなったと知って金居さまはそう言った。  ということは、加賀さまは他人に血を流させたり毒を飲ませたりしたということか。誰かに毒を飲ませた上で、とどめに刀で斬りつけたのだろうか。ずいぶんと執念深い。幕府の偉いお役人さまが、そんな下世話なことなどするだろうか。ほうの頭では、考えても考えても同じところでぐるぐるするだけだ。誰かに教えてもらわなければ。  やがて、涸滝のお屋敷に通じる一本道が見えてきた。入口のところに薄緋色に白抜き紋付きの半纏《はんてん》を着た男の人が立っている。引手だろう。引手は、普段は町の人たちと見分けがつかないけれど、どこかの張り番をするときとか、総出で罪人を追いかけているときなどは、こうしたお仕着せの半纏を着るのだ。  ほうが近づいて行きながら、お匙の井上家の遣いでございますと大声で言うと、引手はにっこりと笑った。手に長い棒を持っている。その先でとんと地面をついて、 「こっちにはもう怪我人はおらんよ。みんな本篠寺に運んだ。おまめさん、ご苦労だが道を戻ってくれろ」  丸海では小さな子供や使い走りの使用人のことを「おまめ」と呼ぶ。親しみのこもった呼び方だ。 「本篠寺はどこかわかるけ?」 「はい、わかります」 「そんなら、早く行きな。こんなところでぐずぐずしていると、悪い風に打たれるよ。涸滝は、子供の来る所じゃねぇけ」  親切だが、有無を言わせぬ言いようだった。加賀さまってどんなひどいことをしたんですか--とは聞きかねた。ほうはぺこりと頭を下げ、回れ右をして、従順な牛のようにとことこ道を下った。  本篠寺は来た道を戻り、外堀脇の町屋を抜けて、港からお城の不浄門に通じている鉤型の用水堀を渡ってすぐのところにある。石垣ではなく、こけら板を重ねたような木の塀に囲まれていて、南側から下ってゆくと、貧相な鐘楼堂が最初に見えてくる。お寺の本堂も講堂も建物が小さいので、周囲の立木のなかに隠れてしまうのだ。  門はいっぱいに開いていた。律儀におじぎをして境内に足を踏み入れると、すぐに血と傷薬の匂いを感じた。見たところ、お医者さまや手当の人が駆け回っている様子はない。薄灰色の作務衣を着た小僧さんが、竹箒の先に水を含ませて、本堂に通じる狭い石畳を洗い清めている。血が滴ったところだろう。  怪我人は本堂脇の講堂にいる。手伝いなら庫《く》裡《り》をのぞいてみればいい、大勢人が来ているから —— と小僧さんに指さして教えてもらって、ほうは駆けだした。庫裡というのはお寺の台所だ。白い湯気が流れてくる。薬湯の匂いがする。 「匙の井上家から参りました」  戸口のところで大声で挨拶すると、立ちこめる湯気のなかで何人かの人の気配が動き、おやとかご苦労様とか声がして、白いお仕着せを着た女の人が出てきた。庫裡も狭く、井上家の台所と大差ない。奥では湯釜が煮えくりかえっているのだろう。きっと、血を吸ったさらしを煮て清めているのだ。 「お入りなさい、舷洲先生のところのほうですね」  そこまで声を聞いて、ほうはやっとその女の人が誰だかわかった。先に二度ほど、琴江さまや啓一郎さまのお供で城下町を歩いていて、行き会わせたことがある。やはり匙である香坂家の無足医、泉さまだ。藩医である香坂法庵先生の姉さまで、丸海どころか大阪や江戸でも珍しい女のお医者さまである。歳は五十歳に近いということだけれど、色白でふっくらとして、いつも小娘のように明るい声を出す、とても優しい方だ。 「すごい湯気でしょう。足もとに気をつけて。まあ、これは井上家の煎じ薬ですね。助かります」  泉さまはてきぱきとほうを導き、風呂敷の中身をあらためた。 「お手伝いすることはございますか」 「そうね —— 手は足りているから」  泉さまはおっとりと首をかしげた。 「それでは、舷洲先生と啓一郎先生に伝えてくださいね。怪我人の手当はひととおり済んで、今は静かに休ませているところです。怪我の軽い人は柵屋敷に帰してあげたいのだけれど、まだお許しが出ないので、留め置いています。煎じ薬はありがたくいただきます。ほうは知らないかしら、これは井上家秘伝の調合なので他家では真似ができません。もう少したくさんいただけたれば嬉しいのだけれど」 「それならば、すぐ戻ってもらって来ます」  お辞儀してとって返そうとしたほうの袖を、泉さまがつとつかんだ。 「ねぇ、ほう。井上のお家で何かあったのですか? どなたかご病気とか?」  案じた顔だった。ほうは息を呑んだ。 「いつもなら、啓一郎さまは、こんなときにはいの一番に駆けつけて来るでしょう。それがおいでになれないとは、よほどお家の方が取り込んでいるんだと思ったのですよ。それとも、難しい急患があったのかしら? 今日は匙毛の寄り合いでしたものね。舷洲先生がお留守なので、啓一郎さまがお一人で診たとか」  ほうの頭では、とっさの嘘がつくれない。湯気のせいでなく、頬がかぁっと熱くなった。どうしよう。どう言い抜ければいい?  そのとき、泉さまの肩の後ろに、湯気のなかから湯気よりももっと白い顔がぽっかりと浮かんだ。 「泉さま、その朱色の袋は、先ほどおっしゃっていたお薬ですか。でしたら、すぐに煎じましょうか」  ほうはぽかんと口を開いた。  梶原の美祢さまだった。  整った顔立ち。切れ長の目。細い鼻筋。間違いなく美祢さまだ。紅貝染めの小花模様の着物に、かいがいしく襷をかけて、ほっそりとした腕が肘まで出ている。湯気で頬が火照り、額に汗が浮いている。  間違いなく美祢さまだ。 「まぁ、ほうじゃありませんか」  美祢さまは顔をほころばせた。泉さまの脇を抜けてほうに近寄り、そのすんなりとした手を肩に乗せた。 「お遣いに来たのね、ご苦労様。琴江さまは? おまえ、琴江さまのお供をして来たのじゃないの?」  ほうの目の前が、くるりと回った。いやそれは間違いで、まわりの景色はそのままに、ただほうの魂がくるりと反転してしまったのだろう。  白い、白い笑顔。とっさに思った。白い蛇だ。 「こ、こ、ここでなにをしているんですか」  つっかえつっかえながら、自分でも驚くほどの強い声が、胸の奥から飛び出した。 「えっ?」  たじろぐ美祢さまに、ほうは飢えた子猫のように飛びかかった。 「琴江さまを、琴江さまに毒を!」  もうめちゃくちゃな気持ちだった。自分の吐く息が熱かった。しゃにむに美祢さまに飛びかかり、手を振り回し髪をつかみ、叫び続けた。あんたはいったい何をしたんだ? 「ほう! ほう! いったいどうしたの? 誰か! 誰か!」  泉さまが叫び、誰かが甲高い悲鳴をあげた。美祢さまの声だ。それがますますほうを逆上させた。美祢さまにしがみついて誰かに引き離され、それを繰り返しながら、まだ叫んでいた。琴江さまに何をしたんだ!どうして琴江さまに毒を飲ませたんだぁ! 「助けて、誰か助けて!」  美祢さまの悲痛な叫び声。そのとき、ほうは誰かのしなやかな手で、ぐいっと首っ玉を押さえられた。息が止まる。息ができない。まわりがすうっと暗くなる ———  ぱちんと断ち切られるように、ほうは気を失った。          波の下    一  風がにわかに強くなり、雨が降り始めたとき、宇佐は柵屋敷の山内家にいた。一昨日昨日と、ここで続けて食あたりが出たというので、原因となった食材を突き止めるため、食事にどんなものが供されたのか、聞き取ってこいと命じられたからである。  宇佐はまだ引手ではない。ただ番小屋に出入りして雑用をこなすだけの見習いだ。それでも、この二年ばかりでだいぶ信用がついたのか、こうして柵屋敷への用事を言いつけられるようにもなった。堀内に入るときは、西番小屋の頭である嘉介親分が、彼の裁量で引手の紅半纏を貸してくれる。その紅い色は、実のところ、むさ苦しい男衆ばかりの引手たちよりも、娘盛りの宇佐の頬の色にこそ、ずっとよく映った。  山内家は普請方の小役という軽輩だから、柵屋敷のなかでも外堀寄りの狭い区画に暮らしている。海の方から吹き上げてくる強い潮風を遮る防風林の下に、木の塀をめぐらせただけの質素な住まいだ。庭は畑地になっていて、玉葱や青菜の畝が見える。宇佐はそのあいだを歩き回っているとき、風に混じる磯の香が急に強くなるのを感じたのだった。 「奥様、雨が来ます」  宇佐の声に、山内の妻が急いで出てきた。 「雨戸を閉てますか。お手伝いします」  庭に面した廊下に近づくと、雨粒の最初の一滴が宇佐の頬に落ちた。  雨が通り過ぎるのを待つあいだに、宇佐は聞き取ったことを懐にはさんだ紙束に書き留めた。山内の妻はまだ顔色が青ざめている。腹痛と発熱、幼い子どもたちはひどく下したという。ただ、食事の内容といえば、いっそ貧乏と言い切ってしまっていいほどで、食あたりの原因になりそうなものは見あたらない。青菜のはずはないし、茸もとってはいない。卵も食べていない。魚もここ数日は干物ばかりだというし、残ったものを見せてもらった限りでも、傷んでいるようには思われなかった。  それにしても粗末な食事だ。この丸海の藩士たちの大半は、実は堀外の町場の者たちよりも厳しい暮らしを強いられているというのは本当だと、宇佐は思った。  雨が通りすぎると、ぬかるみが残った。山内の妻が小女と、なれない手つきで耕しているであろうささやかな畑地の青菜は、雨を浴びて生き生きするどころか、かえってしおれて悲しく見えた。 「それでは奥様、わたくしはこれで失礼いたしますが、何かありましたらいつでも、何なりと西番小屋までお申し付けください」  宇佐は丁寧に頭をさげた。位の上下にかかわらず、藩士とその家族にはできるだけ丁寧な態度をとるように、嘉介親分から厳しくしつけられている。  山内の妻はおとなしい人で、もともと声が小さいのだろう。しかも今はそれに輪をかけて食あたりで弱っている。何か言われたがすぐには聞き取れなかった。  宇佐は如才なく笑みを浮かべ、 「もう少しお手伝いすることがございましたら —— 」と言葉を続けた。  山内の妻はほほえんでかぶりを振った。 「どうもありがとう。もう大丈夫です。砥《と》部《べ》先生から頂戴したお薬がよく効きました」  砥部は匙の家である。匙のなかでは新参で、そのせいか山内のような下級藩士の世話をよくする。 「ところであなた、ここに来たのは、砥部先生から番小屋の方にお指図があったからだと言いましたね?」  問われて、宇佐ははいと答えた。ここを訪れたとき、最初に話したことだ。が、食あたりを出すというのはその家にとって名誉なことではないから、何かお叱りがあってのことではないかと、山内の妻は不安なのだろう。だからもう一度繰り返した。 「もちろん堀内のことに番小屋がくちばしを挟むのは差し出がましいことでございます。でも、もしも食あたりの元が町場の食材ですといけませんので、ご無礼を承知でまかりこしました」 「それはいいんですよ・・・・ただ」  山内の妻はつとうつむいて、いっそう声を潜《ひそ》めた。 「砥部先生は、もしやこれが食あたりではなくて、病ではないかとおっしゃってはいませんでしたか。流行病をお疑いなのでは? それでわざわざ・・・・その、引手をね。匙家が直に動いては騒ぎになりますから」  宇佐はただの使い走りだから、砥部先生と話したわけではない。だから、そのあたりのことは嘉介親分でないとわからないのだが、ちょっと行ってこい、失礼の無いようにというあの言いつけようの気軽さから推して、そんな重大な懸念を隠しているようには思われなかった。 「そのようなご心配はなされませんように。大丈夫でございますよ、奥様」 「そう、それならいいのですが」  山内の妻は宇佐の顔を見て、ちょっと目を見張った。 「あなたはこの土地の生まれでしょう?歳はいくつですか」 「十七でございます」 「それでは知らないかもしれませんね。昔 —— 十五年ほど前のことかしら。あったんですよ、そういうことが」  宇佐には初耳のことだ。しかし十五年前と言えば、山口の妻だって、まだ十かそこらの子供であったはずである。 「それは、藩内で良く知られた出来事でございますか?」 「ええ、ええ。浅木さまの家で起きたことですから」  宇佐は驚いた。浅木家は丸海藩の名家である。重臣を輩出している。今の当主である浅木彰文も、三十になるやならずで城代家老の地位に着いた。 「浅木家のなかで悪い病が流行りましてね。何人か死人も出ました」 「それは存じませんでした」 「あのときも、最初は食あたりだと思われていたのです。他の家では何もなくて、浅木家のなかばかりで病人が出たもので」  涸滝にある屋敷は、その際に浅木家が病人を療養させるために建てたものなのだと、山内の妻は続けた。 「だから、あれ以来ずっと空き家になっていたのです。病の汚れが染みついた場所ですものね。でも、このたび拝命の課役であの屋敷が使われることになったでしょう」  山内の妻はかすかに口元を歪めた。 「それで・・・・つい考えてしまいました。涸滝の屋敷に人が入ったものだから、眠っていた病を起こしてしまったのではないかと」  それが堀内に飛んできて山内家に憑《つ》いたと。ずいぶんな心配性だ。宇佐は微笑した。 「ご案じなさいますな、奥様」 「ええ、わたしも心配のしすぎ、それこそ気の病だとは思うのですが」と、ようやく山内の妻も笑みを浮かべた。「でも、食あたりを起こすような覚えがまったくないので、薄気味悪くて仕方がないのですよ。それで、ついつい余計なことを考えてしまうのです」 「砥部先生のお薬が効いて、奥様はこうしてお元気になられたのですから、悪い病ではございませんでしょう」 「そうね。それに、だいたい、もしも涸滝の病の気が目を覚ましたというのなら、この家のような軽輩のところに真っ先に来るわけはありませんものね。また浅木家に行くのが筋というものでしょう」  その口振りに、浅木家をよく思っていない本音というものがにじみ出ていた。堀内でも、いろいろと人の思惑が入り交じることは町場と変わらないのだ。  山内の妻の笑顔を見て、宇佐は改めて挨拶をし直し、立ち去りかけた。と、また山内の妻が呼び止める。 「ねぇ、あなたその髪」  はいと応じて、宇佐は自分の頭に軽く手をあてた。 「なぜ髷に結わずそうして巻いているのですか? わたしは女の引手には初めて会いましたけれど・・・いえ、引手の中に女子がいるということも知らなかったから・・・引手になるとそういう髪の形にしなくてはならないという決まりでもあるのですか?」  いささか飽きるほどに良く問われることだ。宇佐は如才なく答えた。 「いいえ、特にそういう決まりがあるわけではございません。奥様、この巻いて持ち上げて留めただけの髪は、昔、漁師の女房や娘たちがよくした髪型なのでございます。今はすたれておりますが、わたくしの母など、わたくしが幼いころにはよくこうしておりました。わたくしもそれに倣っているのです」 「そうなのですか」  山内の妻は小首をかしげてしげしげと宇佐を眺め回した。 「では、その身なりも? 匙の家の先生が、町場で病人を診るときはそのような身なりをしておいでだけれど」  なるほど、宇佐の衣服は医師のそれと似ているかもしれない。足首のところを紐で結んだ短い筒型の袴など、そっくりだ。が、自分ではむしろ野良着のようだと思っていた。 「これは、そうでございますね。番小屋で働くのに、動きやすい服を着ろと言われておりますので。でも、わたくしはこの服が好きでございます」  それに、この服とこの髪にこの顔だから、誰にでもすぐに覚えてもらえるのだ。 「そう・・・・・よくわかりました。お役目ご苦労様でした」  山内の妻は丁寧に言って、やっと宇佐を解放してくれた。柵屋敷を離れ、馬場沿いに小走りに堀内と外をつなぐ大橋の方へと急ぐ。馬場からは湿った土の匂いが漂い、葦毛の馬が一頭、足慣らしなのかゆっくりと馬場を巡っていくのが見えた。遠目にも、馬上の馬番の着物の袖に入った白線が目立っている。  馬はいいなぁ。宇佐はいつもそう思う。あたしも乗ってみたい。馬子や馬力屋のような乗り方ではなく、ああして鞍を置き袴の腿立ちをとり、小脇に鞭をたばさんで、風を切って走るのだ。  ——— できやしないんだけど、サ。  浜育ちで町場の子である宇佐には、ただの遠い憧れにすぎない。足を止めて見とれるのもほどほどに、宇佐は大橋へ向かった。堀番に挨拶をし、青々とした水をたたえる堀を渡って紅半纏をを脱ぐと、ほっとした。けっこう肩が凝っていた。    二  丸海藩は、幕府の命令で罪人を一人、流人として預かることになった。それが山内の妻の言う「このたびの課役」だ。最初にこの噂が城下町を飛び交ったのは、もう三月は前のことになる。  それでなくても丸海藩の台所は楽ではない。だから、お手伝い普請で大枚の資金を出す羽目になるよりは、楽な課役で良かったんじゃないかと、城下の者たちは思った。堀内の藩士たちも、ごくごく限られた上の方の人びとを除けば、同じ思いだったろう。ところがどっこい、将軍が直々にその罪科を見定めて流罪を科した罪人で、しかも元は幕府の高官だった人物の身柄を預かるというのは、橋を造ったり街道を整備したり御三家の屋敷の建て替えに資材を提供したりするよりも、遥かに困難な仕事だった。  とにかく気を使う。罪人なのだから、麗々しく迎えるわけにはいかない。あまり丁重に遇すれば、幕府に対する反逆者を厚遇するのはどういう了見かと、今度は丸海藩に咎がかかる。だが、粗末にしすぎては「元高官」のその「元」の部分を取ったところに非礼になるのではないかと案じずにはいられない。なにしろ元の勘定奉行である。  その厄介のたねの人物は、船井加賀守守利という。歳は五十ぐらいだそうだ。もちろん、丸海の町の者たちは、その人の顔も姿も知らない。幕府の勘定奉行など、讃岐の丸海という小藩に住む人びとにとっては、まったく縁のないお方だ。  流人をお預かりすることが本決まりになったとき、引手の頭たちのあいだには、町役所からの回状がまわり、そこには、このたびお預かりの事情が短く記してあったという。また、城下町でこれについてことさら噂することを禁じ、またその禁を破って騒ぐものを咎め、身柄を抑えることが、格別に許されるようにもなった。もっとも、宇佐が知っている限りでは、今のところ、その罪で番小屋に引っ張られた者はいない。  西番小屋頭の嘉介親分は、手下の引手たちを集めてこれらのことを説明し、その際、どうしても用があってその流人のことを話さねばならないときは、加賀様とお呼びするようにと言った。罪人だが様付けだ。それでいいのだと言った。ゆめゆめ呼び捨てになどしてはならねえぞ、と。  変な話だと、宇佐は思ったものである。悪いことをした奴なんでしょ? なんでそんなに丁寧にしなくちゃならないんだ。  だいたい、その加賀様が何でお咎めをくったのか、今ひとつ宇佐たちにはよくわからないのだ。賄賂がらみだと言うことは聞いている。勘定奉行という要職にあるのを利用して私腹を肥やしたことが、幕府に対する反逆罪にあたるのだ、と。だが、それならば以前にもあったことだ。職を解かれて失墜した重臣もいる。それでも誰も流罪になどならなかった。なぜお上は、加賀様に限って、そんな手間のかかるお仕置きをなさるのか。 「これはまあ、お上の丸海の殿様に対する嫌がらせだな」  嘉介親分は、宇佐の素朴な問に、鼻の穴をふくらませてそう答えた。 「流人を押しつけて、殿様を困らせるのが目的なのよ。丸海藩としちゃ、そんなたいそうな流人を受け入れるとなっちゃ、散財もしなくちゃならねぇし、扱いにも困る」 「困らせて、お上に何か得がある?」 「あるさ。粗相があったら、これ幸いだ。ぎゃんぎゃん騒ぎ立てられる。で、丸海藩お取り潰しの口実ができるってことよ」  お取り潰しとは物騒だ。 「お上は丸海藩が嫌いなのかしら。畠山の殿様が気に入らないの?」 「そうじゃねえさ。でも、おめえのような若いもんたちには、昔のいきさつはわからねえかな」  嘉介親分は謎めいた笑い方をして、あてずっぽうに西の空を仰いだ。 「丸海藩はお隣に金比羅様をいただいている。金比羅様を囲む一帯は天領だ」  賑やかな門前町も旅籠町も、すべて幕府直轄の領地である。 「それはつまり、そこからあがる金もすべてお上の懐に入るということだ。ところでこの丸海の町も、だいぶ金比羅様のおかげを被ってる。船で丸海の港について、そこから参拝客が登ってゆくからな。だからお上としては、その昔、金比羅様を天領に定めるときに、丸海藩の領地の方まで一緒に含めてしまいたかったんだ。それが果たせなかった。ここにはもともと殿様がいたからな。つまり、元からお上の縄張りだったわけじゃねぇから、闇雲に取り上げるわけにはいかないだろう?」  お上は今でもそれが口惜しくて、隙あらば丸海藩の領地を取り上げようと、虎視眈々と狙ってきたのだと、嘉介親分は言った。いつ誰からそんな話を聞き込んだのだ、あんたその場にいたのかと訊きたくなるような、自信たっぷりの口振りだった。 「お上の台所も苦しいからな。丸海は海の幸も豊かだし、喉から手が出るほど欲しいんだろう」  だから厄介な課役を強いて、失敗したら取り潰そうというのか。ずいぶん迂《う 》遠《えん》なやり方だと、宇佐は思ったものだ。  それでも、丸海藩のこの課役に対する気の使いようといったら一通りではなかった。宇佐たちは、流人を預かると言えば聞こえはいいが、要するに罪人を閉じこめるのだから、警備だの何だので、そのときになったら引手はいろいろと働くことになるだろうと思っていた。が、そんなお達しは一切なく、それどころか、引手たちは幽閉場所と決まった涸滝の屋敷に入ることさえまかりならん、加賀様お預かりに関しては、番小屋は一切手出し無用というのである。  嘉介親分は納得顔で、 「俺たちを加賀様に近づけたら、畠山家は、お上からの大切な預かり人を、素性も確かでない町場の連中の手に任せるのか、なんてことで、すぐにお咎めを食らうからよ」  などと言ったけれど、宇佐はそんなの大げさだと笑ってしまった。  やはり、匙の家の一つである井上の啓一郎先生も、宇佐が嘉介親分がこんなことを言ってると話すとやはり破顔して、それは嘉介親分一流のうがち過ぎだと言った。ただ、そうでしょうそうでしょうと宇佐が笑うと、 「でも宇佐は、親分の言いつけを守らなくてはいけない。それに、親分の考えはあたっていないとしても、加賀様の罪状と処分については、我々には窺《うかが》い知れない複雑な事情があるようだからね」と、付け加えることも忘れなかった。 「複雑な事情ですか?」 「うん、もっとも、遥か遠くの江戸で、幕府の中枢に関わって起きたことだから、我々が知る必要もない。宇佐は親分の言うとおりにしておればいいんだし、加賀様のことなど、ふつうに暮らしている分には何の関わりもないよ。まあ、町場では、着いてしばらくは騒いでも、すぐに、涸滝の屋敷に加賀様がいることさえ忘れてしまうさ」  それなら気にすることもないか ——— と宇佐は思っていた。涸滝の屋敷に普請が入り、人が出入りするようになったということは聞きかじっていたが、だからどうということもなかった。  それだけに、山内家で聞かされたことには驚いた。嘉介親分は、涸滝の屋敷にそういう謂れがあることを、何も言ってなかったし。  西番小屋は文字通り堀外の城下町の西側にある。そして西側には、紅貝染めの塔屋が集まっている。だから、家々の隙間にも、路地にも小道にも、紅貝を煮出して作る染汁の鼻にツンとくる匂いと、機織りの音が満ちている。  宇佐は丸海の港に近い漁師町で育った。父は漁師で、たいそう声の大きい人だった覚えがある。顔は忘れてしまった。宇佐が三つのときに時《し》化《け》で船が転覆して死んでしまったからだ。母はそれからも漁師町で働き、宇佐を育ててくれたが、つい先年逝ってしまった。海の暮らしは厳しいので、宇佐を紅貝織りの織り子にしたくてあちこちの網元に頼んだが、あいにく宇佐は生来の不器用で、どこでも勤まらなかった。あれこれあって、宇佐が西番小屋の嘉介親分の下で働き始めると、母はひどく嫌がって、結局認めてくれないうちに死なれてしまったのだ。  だから西番小屋に出入りする日々を送り、毎日のようにこの匂いと音に囲まれて暮らしていても、宇佐はときどき、不意にちょっと酸っぱいような気分になる。あたしが立派に織り子として一人前になっていれば、母さんも安心して死ねただろうにな、と。  今日もそうだった。山内の家で、ついさっき、幼い子供たちの世話をやく奥様を見たせいだろう、きっと。  と、そんな宇佐の鼻先を、ただならない勢いで横切った人影がある。こちらがぼうっとしていたからいけないのだが、ぎょっとして思わず飛び退くほどだった。見ると、若い藩士が一人、袴の裾を持ち上げて、土埃を蹴立てて走り去ってゆく。堀内の方を目指しているようだ。  ——— 何だろう?  宇佐は彼が走り来た方向へ目をやった。西の町中を抜けてきたのだろうが、こんな場所にお武家の用があるとは思えない。あるとしたら、町中を突き抜けてのぼり道にかかり、さらに先へ行って、  ——— 涸滝の屋敷の方じゃないか。  何かあったのだろうかと、宇佐はちょっと考えた。なにしろ引手は手を出してはいけないことになっているので、とんと見当がつかない。それでも妙に不安になって。宇佐は西番小屋に駆けて戻った。  引手たちは、一応、町役所から手当はもらうが、それだけで暮らしていけるわけではない。いわば専任の引手は頭である親分だけで、あとの手下たちはそれぞれに雑仕事を持って生計を立てている。番小屋には交代で詰めるのだ。今日は花吉がいた。ハナ、ハナと呼び捨てられて、何にでも気軽に使われて、それでも嫌な顔をすることのない気のいい若者だ。 「宇佐、お帰り」  彼は番小屋の赤い暖簾の下にいた。 「親分と入れ違いにならなかったけ?」 「会わなかったよ。どこへ行ったの?」 「さっき涸滝の屋敷から血相変えて人が来てさ、怪我人が出たんだとよ。それで親分は出かけたんだ」 「涸滝へ行っていいの?」 「様子ぐらいは見に行っていいだろうよ。ちょうどよかった、俺はみんなを集めなくちゃならねえから、おまえ、ここにおれ」 「人手が要るようなことになるんだね」 「わからねえ。でも、一応な。東番小屋にも報せておかないと」  宇佐は番小屋に入った。板張りの壁の内側には、椅子や木槌などが掛けてある。火事場にも、捕物にも使うものだ。これらが必要になるような大事は、宇佐がここに来るようになってからは起こっていないのが幸いだ。 「何か用意しとこうか?」 「いや、様子がわからねえから、しょうがねえよ。とにかくおめえはここにいて、誰か来たら相手をしてくれろ」  宇佐は一人になっても、番小屋の座敷にはあがらなかった。引手ではない自分には、その資格はない。土間のしきりに腰掛けたが、落ち着かなくてすぐに立ち上がった。  そのうちに、花吉に呼ばれた西番小屋の引手たちが集まってきた。宇佐は勘定外として、嘉介親分は五人の手下を持っている。そのうちの三人までがすぐに来て、彼らの方が宇佐よりも先に事情を掴んでいた。みんな早耳だ。 「涸滝の屋敷で竹矢来を立てていて、さっきの雨でそいつが倒れてさ、怪我人が大勢出たらしい」 「丸海じゃ、竹矢来を立てるようなことはずっとなかったからな。みんな、やり方を知らないんだぜ。下手なんだ」  やがて花吉が戻ってきて、匙の井上の若先生の指図で、怪我人は本篠寺に運ぶことになったと報せた。手下たちは手伝いに行くことになった。宇佐はまた留守番だ。仕方がないが、井上の若先生が来るというのなら、本当は行きたいところだった。行ってお手伝いしたい。  ——— やっぱり、一人前の引手として自分の紅半纏をもらえるようにならないと、駄目だ。  手持ちぶさたを細々とした仕事でまぎらわしながら過ごしていると、紅暖簾がぐいと持ち上がって、誰かの顔がのぞいた。声をかけるでもなく、番小屋のなかを睨むようにながめ回している。  宇佐も知っている顔である。町役所の同心の渡部さまだ。 「あの・・・・・」  宇佐が声をかけると、彼は怒っているように短く、 「誰もいないのけ」と訊いた。 「はい、みんな涸滝・・・・いいえ本篠寺へ行きました。怪我人を運ぶので」  それについて知っているのか、それとも初耳だったのか、渡部は濃い眉をぐいとひそめた。そして、ぷいと紅暖簾から手を離し、さっと姿を消してしまった。  何だ、あれは。宇佐は呆れた。えらく機嫌が悪そうだったけど、どうしたんだろう。  そのうちに花吉が帰ってきた。戸板で運ばねばならないような重傷者は二人、あとの人たちは歩けるくらいの傷だが、思ったより大勢いるという。 「ただ竹矢来が崩れて怪我をしたっていうだけじゃないような、なんかただ事じゃねえような騒ぎになってる」と、花吉は言って襟首をさすった。「みんなして、なんであんなにおろおろしてるんだろう」  つと心に浮かんできたことを、自分でもしかと把握しないままに、気づいたら宇佐は口に出していた。「みんな、涸滝の屋敷が怖いんだよ」  人が入ったから、あの屋敷に眠っていた汚れを起こしてしまった。  花吉は口を尖らせる。「そうかなぁ。だけどお城の人たちは、やっぱり俺らが涸滝の屋敷に関わるのを嫌っててさ、一段落したら、すぐに追い出そうとするんだぜ」 「みんなは?」 「他には大した用もないみたいだったから、みんな手前の稼ぎに戻ったよ。親分はまだ本篠寺に残ってる」 「そう」宇佐は彼に水を汲んでやり、できるだけさりげなく尋ねた。「井上の若先生は、本篠寺にいらしてるんでしょう?」  花吉は手ぬぐいで顔を拭きながら首を振った。「いんや、柵屋敷から人が来てるし、香坂の女先生の顔は見たけど、井上先生はいなかった」  宇佐はほっとしたような残念なような、半端な気分になった。こんなとき、いのいちばんで本篠寺に駆けつけないなんて、若先生らしくない。でも、若先生が本篠寺にいたなら、そこへ行かれない自分が悔しい。 「おい、誰かいるか! 宇佐!」  戸口で呼ばれて、宇佐はぱっと立ち上がった。嘉介親分が暖簾を分けて入ってきた。背中に小さな女の子を背負っている。 「今度はなんだい? また怪我人か?」  驚く花吉を押しのけるようにして、親分はしゃくれた顎で宇佐に指図した。 「床をのべろ。この子を寝かすんだ」  親分の背中でぐったりしている女の子の顔に、見覚えがあった。宇佐はあっと声をあげた。 「この子、井上の若先生のところの女中だ!」  名前はなんて言ったっけ? 江戸から連れてこられて置き去りにされて、そのまま井上家にやっかいになっている。 「宇佐はこの子を知っているんだな?」  嘉介親分の顔は厳しく、眉間に立て皺が寄っている。 「どうもこうも、よく事情がわからねえんだが、この子が言うには、井上先生のお嬢さまが亡くなったっていうんだ」  大急ぎで床をのべていた宇佐は、今度は声さえ失ってぽかんと口を開いた。 「井上先生のお嬢さまって、若先生の妹さんだろう?」と、花吉が訊いた。 「琴江さまだ」と、ようやく宇佐は言った。若先生と仲良しだった。宇佐にしてみれば妬けるほどに。  親分が背中の女の子をおろして寝かしつける。何を悔しがっているのか、怖がっているのか、どうやら気絶しているらしいのに、女の子の顔はくしゃくしゃに歪み、目も口も鼻の近くにぎゅうっと寄ってしまっている。両手も拳に握っている。なんとしても開かない。 「そうそう、琴江さまだ」  親分は女の子のそばに膝をつき、角張った顎をなで回した。 「おまけにこの子の話じゃ、琴江さまが誰かに毒を盛られて殺されたっていうんだ。それで大暴れをして、頭に血がのぼっちまったんだろう。ころりと倒れちまったのさ」  宇佐は女の子の固く握りしめた拳に触れてみた。手首を握ってみた。脈はある。が、血の気がなくて冷たい。 「それじゃ、この子も本篠寺にいたんで?」 「ああ、そうだ。そこで働いていた人につかみかかったそうでよ。俺は居合わせた香坂先生に呼ばれて・・・・」 「あたし、井上先生のお屋敷に行ってくる」  立ち上がりかけた宇佐を、親分がぐいと引き留めた。 「やめろ、おまえは行くな。俺が行く」 「どうして?」 「井上のお宅で何か起こってるのだとしたら、そいつは公事方の裁量になる。俺たち引手がうっかり関われることじゃぁねぇ」  そうだそうだと、花吉が青くなってうなずいた。 「何があったのか知らんが、本篠寺に井上の若先生がおられなかったのも、きっとこの子がうわごとみたいにわめいていたことと関わりがあるんだろう。俺はとにかく、井上の家にこの子が西番小屋にいることを報せてくるから、おまえたちは口をつぐんで、この子のことを他所にもらすんじゃねえぞ。それと宇佐!」  強く呼ばれて、胸の内で騒ぐ想いに気をとられていた宇佐は、はっとまばたきした。 「な、何?」 「この子の世話を頼むぞ。誰も呼んじゃならねえ。ただの気絶だから、顔を扇いでやりゃぁ、そのうち気がつく。それでこの子が目を覚ましても、俺が戻ってくるまで、滅多なことを聞き出しちゃならねえ。そっとしておくんだ。わかったけ?」  親分のこんな怖い顔を、宇佐は初めて見た。わ、わかったと、子供に戻ってしまったみたいに口ごもって答えるのが、精一杯だった。     三 「なあ・・・・・・宇佐よう」  花吉に呼びかけられて、宇佐は目を開けた。  嘉介親分があわただしく出て行って、もうだいぶ時が過ぎた。親分は戻らず、井上の家から誰か来ることもなく、女の子は眠り続けている。宇佐は女の子の寝ている薄べったい布団の横に座って、ぼんやりとしていた。  花吉は土間にいて、油をしみこませたボロ布で、捕物道具を磨いていた。これは、普段なら宇佐の仕事だ。 「おまえ、大丈夫か」  花吉は心配そうだ。あるいは、宇佐が気づくまで、何度も呼んでいたのかもしれない。 「大丈夫かって、何がさ」 「井上の琴江さまって、おまえ、親しかったんだろ。いい人だって言っていたよな」 「あたしなんかが(親しい)と言ったら、バチがあたるよ。匙家のお嬢さまだもの」 「でもさ ——— 」 「それに、琴江さまが亡くなったかどうか、まだわからないんだからね」  花吉はひょいと立ち上がると、手にしていた槌を壁に戻し、こちらに近づいてきた。 「この子、本当に寝てるのか? 死んでるんじゃねえのか?」 「ちゃんと息をしてるよ」  寝返りも打たず、小さな顔を歪めたまま、両手もまだ拳を握っている。が、呼吸をしていることは間違いない。 「ねえ花さん」宇佐は花吉の顔を仰いだ。「涸滝の屋敷のこと、あんた何か知ってる?」 「何かって?」  花吉は土間の上がり口に腰かけた。宇佐も彼の隣に移り、昼前、柵屋敷の山内家で聞いてきた話をした。 「ああ、そんなら有名な話さ。俺なんか、子供のころにはよくあそこで肝試しをしたもんだよ。だけどそうか、宇佐は漁師町の生まれだからな。港の方じゃ、お城の偉い人たちに関わる噂なんか、誰も興味は持たないんだろう」  花吉の言うとおりで、同じ丸海のなかでも、堀外と港や漁師町では気風がずいぶんと違う。それぞれの町の治安を預かる町役所と船奉行所の仲が良くないのも、そのせいかもしれない。 「肝試しって、そしたら花さんは、子供のころに涸滝の屋敷へ行ったことがあるの?」 「何度もあるぜ」花吉は急にそっくり返った。「ただの空き家だった。よく考えてみりゃ、怖いことなんかあるもんけ。立派なお屋敷だから、もったいないってだけのことよ」 「だけどあそこには、病の汚れが封じ込められていたって」  その口調が宇佐らしくもないしおらしいものだったからだろう、花吉は笑った。 「おまえ、案外恐がりなんだな」  宇佐はきっとなった。「そんなことないよ!」 「怖がってると、怖いものをみたり聞いたりするんだぜ。そんなふうに腰抜けじゃ、引手は務まらねえよ」  わざとからかっているのだ。宇佐はぷいと横を向いた。花吉は愉快そうに笑いながら、 「でも、俺の遊び仲間にも、あそこで変なものを見たって言う奴がいたからな」と、続けた。夏の夜、浅木屋敷の表門のところに、ぼうっと白い人影が立っていたというのだ。 「なんかこう、霞みたいにふわふわしていてつかみどころがなくて、見つめているうちに溶けてなくなっちまったって。そういえば、おふくろもそんなことを言ってたな。塔屋の仲間に、そういうのを見たのがいるって」  花吉の母親は、紅貝染めの塔屋で働く染め手である。 「見ると、何か悪いことがあるの?」 「あんまりしげしげと見ちゃいけないんだ、憑かれるから」 「憑かれるとどうなるの」 「だから、熱病に捕まるのさ。浅木さまで流行ったのと同じ熱病に。つまりその白いふわふわしたもんは、病の気が形を成したものだっていうわけよ」  宇佐はふうんと言って、両の頬を手で包んだ。 「井上の若先生は、病にはすべて(もと)があるとおっしゃってるよ」 「何だよ、そのもとって」 「今はまだよくわからないのだけれど、目に見えないくらい小さな生き物じゃないかって。それがあたしたちの口から身体のなかに入ると、病になるんだ。ほら、ちょうど毒虫に刺されて腫れたり痒くなったりするのと同じでさ」  西洋の医学書には、そういうことが書かれていると、つい最近聞いたばかりだ。  引手は怪我人や病人を世話することもあるし、ときには死人も扱う。宇佐はまだ見習いだからそんな機会は少ないが、知識を得ておくのに越したことはない。だから、井上家に通っては、若先生のお邪魔にならないように気をつけながら、教えを請うている。もっとも、近頃ではそれが口実になりつつあるのだけれど。  花吉は油っ気のついた手で頬を掻こうとして、あわてて思いとどまった風だ。手を拭くものを探し、見当たらないので着物でごしごしこすってしまった。 「そんなら、その(もと)が集まって人の形になることもあるってわけだろ。それこそ蚊柱みてぇにさ。うん、まさにそうだよな。筋が通ってら」  一人で納得している。 「俺も子供のころは、そんな話でビクビクしたもんだけど、今は違うぜ。病がそんなふうに形を成して歩き回ってくれるんなら、これ幸いだ。ひっとらえて、ここへ引っ張ってきて、手柄にしてやるってもんだ。引手の花吉さんには、怖いもんなんかねえんだからな」  バカに威勢がいい。花吉はよく、宇佐に向かって大口を叩く。宇佐には、それが親しみの表れとして感じられるときもあれば、女だてらに引手になりたがる宇佐に対する意地悪と受け取れることもある。まあ、こっちの気分次第だ。  だが今の花吉の意気軒昂は、少し意味合いが違うようだ。いつだって、先輩格の引手たちを差し置いて、大きな手柄を立てて名を上げることばかりを夢見ている花吉は、引手としては不謹慎なほどに、大事が起きることを待ち望んでいるところがある。今はひょっとしたら、その大事の時かもしれない。だから心が高ぶる。でも一方では、さっきの嘉介親分の、めったにない険しい顔に怯えてもいるのである。それを宇佐に悟られたくない・・・という以上に、自分自身でも認めたくないので、やたら意気ばかり上がるのだ。  ——— いくら張り切ったって、威張ったって、あたしたち二人とも半人前の留守番なのに。  そう思うと、花吉のふくらんだ鼻の穴が可笑しくて可愛い。 「あれ、おまえ何で笑うんだよ」花吉が目ざとく咎めた。 「笑ってなんかないよ」  宇佐はそう言って、まだ顔を歪めたまま眠り続けている女の子の方へ目を落とした。何ということもなく上掛けの端をちょっと撫でる。 「ま、そんなふうだからさ、涸滝の屋敷を怖がることなんかねえよ」  花吉は立ち上がると、薄い胸板をぐいと張ってみせた。そうだね、花さんがいれば安心だと、宇佐は女の子の寝顔を見守ったまま調子を合わせた。 「でも、そんな涸滝に来る加賀さまって、どんな人なんだろうね。何も教えてもらえないから、さっぱりわかりゃしない」  花吉はにんまりと笑った。宇佐は彼の顔を見た。「なんで笑うのさ」 「俺はいろいろ知ってるぜ」  宇佐は目を見開いた。「どうして? 回状がまわったのは、番小屋の頭たちのところだけじゃないか」 「ここだよ、ここ」と、花吉は指でこめかみをさした。「おつむりの差さ」 「回状を盗み読みしたんだね」 「とんでもない!嘉介親分はそんなに脇が甘くねえよ。俺は自分の足で歩き回って、自分の耳で聞き取ったのさ」  大げさな —— と、宇佐は思った。「元は勘定奉行だったんでしょう。賄賂をもらって、それが罪になったんだ。あたしだって、それぐらいは知ってるよ」 「ふん、賄賂なんかであるもんか」花吉は鼻先で笑った。「勘定奉行といったら、お上の勝手方を一手に仕切るお役目だぜ。少々の賄賂や付け届けぐらい、もらって当たり前なんだ。この丸海だってそうじゃねえか。そんなんでいちいち流罪にしていたら、流す先が足りなくなっちまうよ」  宇佐はぐっと詰まった。その顔を楽しそうに見やって、せいぜいもったいぶってから、花吉は続けた。 「加賀さまは、人殺しをしたんだよ。それも一人や二人じゃねえぞ」  花吉は声を潜めた。 「自分の役宅に、御勘定方の側近を三人呼びつけて、いきなり斬って捨てたそうだ。そのあと家令を呼んで、御目付にこの仕儀を報せろと、書き付けを渡して追い出した。御目付衆が押っ取り刀で駆けつけると、加賀さまはまだ座敷にいて、まるで来客に対しているみたいに、きちんと座っていたそうだ。あたりは血の海だっていうのによ。上下《かみしも》をつけて正座してたんだぜ」  宇佐は想像してみた。斬り捨てた部下の亡骸が転がり、血の匂いがむっとする座敷で、一人喘然と座している—— 「しかも、役宅のなかを調べてみると、奥の間で加賀さまの奥方が、嫡男と長女の二人を抱きかかえるようにして死んでいたっていう。さすがの御目付衆も腰を抜かしたって。子供はやっと八つと五つだったっていうぜ」 「やっぱり斬り殺されていたの?」 「いいや、毒を飲んで死んでいた。子供らは苦しさに喉をかきむしって、両手が血だらけだったそうだ」 「じゃ、それは加賀さまがやったんじゃないかもしれない」 「本人が白状したんだよ。側近を呼ぶ前に、まず妻と子供らを毒死させたって。女子供を刀にかけては穢《けが》れになるので、斬らなかったというんだな」  加賀さまはまったく抵抗することなく、整然と縛《ばく》についた。その後のお調べにも冷静に答え、臆するところがなかったという。 「だけど・・・・ いったいどうしてそんなことをしたのさ? 自分の女房子供を殺すなんて、なんでそんな馬鹿なことを」  きっと乱心だ、頭がおかしくなったんだと、宇佐が言いかけたそのとき、二人の背後で急に泣き声がした。宇佐と花吉は、はじかれたように振り向いた。  あの女の子が日を覚ましていた。布団の上に起き直り、小さな顔は土気色で、涙が頬を流れている。 「だからなんだ」と、女の子はくちびるをがくがくさせながら呟いた。「だから金居さまは�加賀どののしょぎょうをくり返すようだ″って言ったんだぁ」  宇佐は花吉と顔を見合わせ、急いで座敷に這い上がった。 「あんた、大丈夫?」  女の子の細い肩をつかむと、震えが伝わってきた。身震いしながら泣ているのだ。 「毒で死なされたから‥‥‥だから……」 「それ、琴江さまのことだね?」女の子の顔をのぞきこむようにして、宇佐はおそるおそる尋ねた。「あんたの言ってること、本当なの?本当に琴江さまは亡くなったの?」 「宇佐、やめろ」  脅しつけるような声が、番小屋の戸口から飛んできた。嘉介親分が戻ってきたのだ。一人ではなかった。渡部一馬がすぐ後ろに、紅色の羽織を裏切るように、さえぎえと白い顔をして立っていた。 「油断のならねえ奴だ」  嘉介親分に睨みつけられて、花吉は縮み上がっている。 「加賀さまのことで余計な詮索はするなと、俺があれほど言ったのに」 「あいすみません」  宇佐は女の子をかばうように抱きかかえて、狭い座敷の隅で壁に張りついていた。渡部一馬は懐手《ふところで》をし、顎の先を襟元に埋めるように深くうなだれている。嘉介親分は、何にいきり立っているのか、うっすらと額に汗を浮かべていた。 「こういうことは、大勢でごちゃごちゃ話すことじゃねえ」と、親分は低い声で続けた。 「だから本当ならおまえたちは交《ま》ぜたくなかったが、行きがかり上、仕方がない。ここできちんと話しておかねえと、花吉がまたうろうろ探り回るだろうからな」  当人はいっそう亀の子のようになった。 「よろしいですか、渡部さま」 親分が念を押すように問いかけると、渡部は唸った。「是非もないだろう」 そして目をあげて女の子を見ると、 「ほう、幼いおまえには気の毒なことをした。だが、琴江さまのためにも、ここで嘉介親分の言うことをよく聞くのだ。いいな」  と、諭すような口調で言った。 「ほう? あんたの名前はほうっていうんだっけ」宇佐は女の子の顔をのぞいた。「あたしのこと、知ってるだろう? 若先生のところによくおじゃまするから」  ほうという女の子は涙目で宇佐を見上げたが、怯えてしまっているのか、口を開かない。 「いいか、よく聞けよ」と、嘉介親分は切り出した。宇佐たちは座り直した。  が、親分はそこでまたロを閉じ、いかにも疲れたというように長々とため息をもらすと、それからやっと先を続けた。 「匙家の井上の琴江さまは、今朝、確かに亡くなった。頓死《とんし》だ。どうやら心の臓に病をお持ちだ ったようだ」  宇佐の膝の上で、ほうがびくんと飛び跳ねた。「そんなのウソだ! 琴江さまは毒で亡くなったんだ!」 「それは違うんだ、ほう」と、渡部が遮る。だが、ほうはひるまなかった。 「違わない! 渡部さまだって知ってるじゃないか! だって、一緒に薬草畑に行ったじゃないか。美祢さまを見た場所を教えてくれって、言ったじゃないか!」  ほうは拳を振り回した。 「梶原の美祢さまが来て、琴江さまに毒を飲ませたんだ!」 「ちょ、ちょっと待って。暴れちゃいけないよ、ほう」宇佐はほうを抱き留めた。それには力を振り絞らなければならなかった。 「ぜんたい、どういうことなんです? 梶原の美祢さまって、物頭の梶原さまのお嬢さんのことですか?」  花吉が裏返ったような声をあげ、嘉介親分が「静かにしねえか」と怒った。 「俺が話そう」と、焦れたように渡部が言った。眉間にはしわが深く刻まれ、目尻がつり上がっている。「ほう、おまえは少し静かにしておるのだ。いいな」  昼前、海うさぎが連れてきた通り雨のあいだに井上家で起こった出来事について、渡部は抑揚のない声で語った。それ自体は長い話ではない。宇佐は息を止めて聞いた。ふと見ると、花吉も同じようにしていた。 「そんなことがあったんだ……」  宇佐は腕のなかで身を固くしているほうを、あらためて抱き直してやった。骨張った小さな身体が哀れだ。 「その後、この子は本篠寺に遣いに行き、そこで立ち働いていた美祢殿を見て逆上してしまった。それでここに運び込まれたというわけだ」  そう言って、渡部はほうに顔を近づけ、ひたと見つめた。 「ほう、よく聞け、美祢殿は井上家には行っていない」  え、というような声をあげて、ほうがぽかんとした。宇佐は身を乗り出した。 「だって、この子は見たんでしょ? この子だけじゃない、下男の盛助さんて人も、梶原のお嬢さんが来るのを見たんでしょ?」  渡部はゆっくりと首を振った。「盛助は見ていない」 「ウソだ!」ほうがまた飛び上がった。「見たもの! いっしょに見たもの!」 「見ておらん。盛助はそう言っている」渡部はほうの顔から目をそらし、宇佐を見た。 「美祢殿は、涸滝で竹矢来が倒れる事故があり、本篠寺に手伝いに出かけるまで、ずっと柵屋敷の梶原の家にいた。確かな証人が何人もいるのだ」 「ウソだよ!」ほうの声が割れた。  渡部は眉毛さえ動かさずに続けた。「それに、今嘉介が言ったように、琴江殿は病死されたのだ。毒死ではない。急な死だったが、毒を疑うような兆候は何もない」  ほうの口がばくばくした。にわかに身をよじり、宇佐にしがみついてきた。 「おかしいよ! だって、啓一郎先生が言ったんだもの。琴江さまは毒を飲んだって。金居さまも、しずさんもみんないるところでそう言ったんだ! 金居さまだって・・・・」 「若先生は何もおっしゃっていない」渡部の声が、非情なほどにいっそう厳しく続けた。 「金居さまも、琴江殿の急死にうろたえておられただけで、毒のことなど口にしてはおられない。そんな覚えはないと申されておる。なにしろ病死なのだからな。匙の家が、そう診立てているのだ。これほど確かなことはない。ほう、おまえは夢を見たのだ。幻を見たのかもしれぬ。琴江殿が亡くなったことがあまりに辛くて、ありもしないものを見たり聞いたりしたのだ」  宇佐のなかで、むらむらと黒い反感が頭をもたげた。「でも渡部さま、この子はでたらめを言ってるわけじゃないです」  宇佐は先ほどの、ほうが宇佐と花吉の話を聞きかじり、それで目を覚ましたときのことを語った。「この子は、加賀さまが自分の家族を毒で殺したなんてこと、知らなかったんです。ここで花さんに聞いて初めて知って、だから、その家守の金居さまって人の言葉と結びつけて、驚いたんじゃないですか。金居さまって人が言ったっていう言葉まで、ほうの作り話のわけないですよ。この子にそんなこと、できません」 「だから、作り話だと言っているわけではない」焦れるようにぐいと拳を握って、渡部は荒々しく言った。「ありもしないものを見た、夢だ、幻だと言っておる。宇佐、おまえはもう子供ではあるまいに、そんなこともわからないのけ?」 「だっておかしいじゃないですか」  ほうを抱きしめて言い募る宇佐を、花吉がきゅっと顔を振り向けて制した。小さな目が油断なく光っている。 「宇佐、渡部さまのおっしゃるとおりだぜ。井上家の皆さんが、琴江さまは病で亡くなった、梶原の美祢さまは井上家には来られなかったと話しておられるなら、そっちこそが真実だ。可哀相に、このほうって子は琴江さまが亡くなったのがあまりに辛くて、おつむりのちょうつがいがおかしくなっちまっているんだろう」  宇佐の腕のなかで、ほうが震えている。 「あたしはおかしくなんかない」と、涙をぽとぽと落としながら呟いた。 「ほうというのは珍しい名前だ。そうは思わんか」  渡部は誰にともなく問いかけた。 「親からもらった名前だそうだな。阿呆のほうだというじゃないか」  何と底意地の悪い言いぐさだろう。宇佐はカッとなって歯をむき出した。 「この子はその親たちの都合で丸海まで連れてこられて、置き去りにされたんでしょ。あたし、知ってます。若先生や琴江さまからうかがいました。そんな親の方が、よっぽど阿呆ですよ。渡部さま、お役人のくせに、そんなこともわからないのけ?」 「おまえ、なんてことを言うんだ!」  嘉介親分が声を荒げた。宇佐は負けずに渡部をねめつけていた。そして渡部の目の縁が、まるで深酒の翌朝のように血走っていることに気がついた。 「まあ、いい」  彼は言って、裾をはらって立ち上がった。 「それから、井上家では、もうほうを置いておくことはできんそうだ。だいたい、どこの馬の骨ともわからん捨て子を、立派な匙家で居候させていたことがおかしい。いいか、ほう。後のことはこの嘉介親分に任せた。おとなしく親分の言うとおりにするのだぞ。おまえは宿無しになったのだからな」  言い置くと、後ろ手にぴしゃりと戸を閉めて、渡部は番小屋を出て行った。  みんな黙りこくっている。ほうが鼻をしゅんしゅん鳴らしている。疲れ切ってしまったのか、涙は止まった。  やがて、むっつりと腕組みをしたまま息をひとつ吐き出して、嘉介親分が言った。「行儀が悪いな、宇佐。お役人に喰ってかかるなんざ、引手にあるまじきことだ。俺はそんなふうにおまえを躾けたつもりはねえ」 「だって・・・・・」  思わず声を張り上げて反問しかけた宇佐の袖を、花吉がぐいっと引っ張った。襟が抜けそうになるほどの凄い力だ。 「やめろ、宇佐。いい加減にしとけ」  叱りつける声だった。花吉にそんな声を出される謂れはないと、宇佐はさらに言い返そうとしたが、うつむいた親分が固く目を閉じていることに気づいて、言葉に詰まった。 「とにかく、言い合いはやめようぜ」  花吉が気まずそうに言って、とってつけたようにくしゃみをした。ちくしょう、何でぇと、小さく毒づいて笑う。宇佐は笑い返すことはできず、ただ黙って腕のなかのほうの頭を撫でていた。    四  とりあえず、ほうは嘉介親分の家に預けられることになった。親分には子供が三人いる。ほうも寂しくなくてちょうどいいだろうというのである。  日暮れには、涸滝で竹矢来が倒れた一件も落着して、怪我人たちも本篠寺からそれぞれの家へと帰った。宇佐は花吉と連れだって出かけ、寺のお堂や厨《くりや》の掃除を手伝い、星を仰ぐようなころになって、町中へと引き上げた。  帰り道では、匙の香坂家の泉先生と一緒になった。花吉が先生の薬箱を担ぎ、宇佐が香坂の紋の入った提灯で足元を照らした。 「あなたたちもご苦労でしたね。引手の人たちの働きには、いつも頭が下がります」  泉先生は二人をねぎらった。宇佐から見れば母親—というよりお祖母様であってもおかしくない年齢だが、頬のあたりなどふっくらとして若々しく、顔立ちも整っていて美しい。それに声がいい。凛として通る声だ。宇佐は、自分はとうてい医師になることなどできないと重々承知だが、それでも泉先生にはひそかな憧れを抱いていた。男に負けないくらいに働きつつ、女の優しさに溢れている。 「先生こそお疲れになったでしょう」  宇佐が言うと、提灯の明かりのなかでうなずいた。 「そうですね……思いの外、深手の人がいたことに驚きました。竹で怪我をすると、あんな大事になるのですね」 「だって軍記物の講釈にありますよね。落ち武者狩りに、ほら、竹槍でこうっと」  花吉が身振り手振りをつけながら言った。 「鎧も突き通すって、ね。竹槍は怖いんですねえ」 「だけど今度のは、竹槍でやり合ったわけじゃないよ。竹矢来が倒れただけじゃないか」  何を思い出したのか、泉先生はくすっと吹き出した。「涸滝の作事には、御牢番頭を拝命した船橋さまが指揮をとっておられるでしょう。今日も怒っておられましたよ。近頃の丸海の若い連中は、竹矢来の立て方も心得ておらんのか、と」  加賀さまをお預かりする仕儀一切の責任者には、御牢番という役目がついているらしい。そしてその職には、物頭の長である物頭代の船橋作之進さまがついているのだ。宇佐は、心の端に書き留めた。 「そうですか、物頭代の船橋さま直々に監督なさっていたんですね。そこで怪我人が出たというのでは、お怒りもごもっともです」 「それでなくても怒りっぽい方だから」と、泉先生は笑った。「あんなにいつもいつも短気を起こしてばかりおられると、身体を巡る血が固まってしまうと、法庵先生は諌めているのですけれどね」  法庵先生は匙の香坂家の当主で、泉先生の弟である。お二人は仲がいい。ただ、法庵先生はご自身も若いころから病弱で、これまでにも二度ほど寝ついてしまい、そのまま匙のお役目を返上になるのではないか、という時期があった。泉先生がとうとうどこにも嫁がず、無足医として香坂家で骨を埋めることになったのも、そんな法庵先生を助けるためだったようである。  法庵先生には嫡男がおり、すでに二十歳を過ぎている。今は長崎で蘭学を学んでいるが、そろそろ帰国してもいいころだ。戻れば、彼が法庵先生の後を継ぐ。そうなれば、泉先生は、香坂家では居場所がなくなってしまうかもしれない。跡取りが当主になって嫁でも迎えれば、目の上のたんこぶ扱いされることもあろう。  そんな、言ってみれば貧乏くじの生き方を選んだのに、こんなふうに穏やかに、いつも清々しく立ち働いている。宇佐の目には、泉先生のそういうところもまぶしく映る。 「それにしても、大丈夫なんですかね」  いっぱしの顔をして、花吉が不審がった。 「怒りん坊の船橋さまじや、ついカッとなってわっと怒鳴っちまったりして、大事な加賀さまお預かりをし損じるんじゃないかなあ」  花吉も泉先生にはすっかり甘えていて、こんな台詞も平気で吐くのだ。が、さすがに泉先生はたしなめ顔になった。 「不用意にそんなことを口にするものじゃありませんよ。それに、気の短い方のほうが、こういう細かな気配りが肝心のお役目にはふさわしいのです。あれはどうか、これは上手くいっているか、そこに不足はないかと、いつもきりきり心を使うことができますからね。のんびりと穏和な方は、何にでもゆったりと構えてしまって、かえって手抜かりが多いかもしれないでしょう」 「そうすかね」と、花吉は邪気がない。「太公望は短気だったって、ね」 「まあ、故事を学んだんですね」と、泉先生は誉めた。「でもその�太公望″は、釣り好きの意味ですね。確かに釣りをするには、ただ糸に餌をつけてぼうっと垂らしているだけでは駄目で、潮の流れはどうか、水の色はどうか、餌はこれであっているかとか、細かく気にする性質の方が向いているそうですよ」  二人のやりとりを聞き流しながら、宇佐は考えていた。昼間のほうの話を信じるならば、あの子が梶原の美祢さまに飛びかかったとき、泉先生もその場にいたはずである。ほうが気絶して運び出された後、先生は美祢さまと話をしたろうか。  内容が内容だ。先生も、きっと美祢さまに訊いているはずである。今の女の子は何やら不穏なことを叫んでいましたが、あなたは何かそれに思うところがありますか、と。でも、泉先生はよろず他人の悪口や噂話が好きな方ではないし、下手に尋ねたところで、やんわりと叱られるのがおちだ。どう水を向ければいいだろう。  と思っているところへ、泉先生の方から言い出した。「ところで、あなた方は、井上の琴江さまが亡くなったのを知っているでしょう?」  宇佐はぴくりと緊張した。山道を下りきり、木々のあいだに町の灯がちらちらと見えてきた。ざくざくと土を踏む花吉の足音がすぐ後ろに聞こえる。  宇佐は振り返らずに答えた。「嘉介親分から聞きました」  花吉が宇佐の言葉尻を追うように続ける。 「心の臓の病だったそうですね。俺は怖くなっちまいましたよ、先生。昨日までお元気だった人なのに。心の臓の病ってのは、そんなに急なものなんですか」 「急なこともあるのですよ。珍しいけれど」と、泉先生は静かな口調で答えた。「誰かが思いがけない早死にをすると、残された者は心が乱れます。しばらくのあいだ、井上のお家は大変でしょう」 「そうですよねぇ、お気の毒なことです」  花吉は調子よく相槌を打つ。しかし宇佐は、泉先生の穏やかな声を聞いているうちにむらむらとこみ上げてきたものを鎮めることができず、早口に言ってしまった。 「泉先生、あたしは、琴江さまは病で亡くなったのではないという話も聞きました。毒を飲まされたって —— 」  しっ、バカ野郎と、花吉が舌打ちした。が、泉先生はつと足を止めると、切れ長の目を瞠《みは》って宇佐を見返った。提灯の明かりに、その白い顔が浮き上がる。 「その話を、誰に聞いたのですか」  花吉が二人の間に割り込んできた。「すみません、先生。こいつはそそっかしくて」 「ほうって子に聞きました」宇佐は花吉を押し返し、泉先生を真っ直ぐ見て答えた。「西番小屋で。先生も、あの子のことはご存知ですよね」 「ええ、もちろん知っていますよ。本篠寺に、わたくしも居合わせましたから」  そして頬を微笑でゆるめると、宇佐と花吉の顔を見比べた。 「こんなところで立ち話もなんでしょう。わたくしのところへおいでなさい。二人とも、お腹もすいていることでしょうしね」  香坂家の門番には、泉先生が、 「この二人は西番小屋の引手です。わたくしを送ってくれたついでに、番小屋に常備する薬をいくつか持ち帰ってもらいますので、通しますよ」  てさばきと断りを入れてくれた。宇佐と花吉は、丁重にお辞儀をしてくぐり戸を通った。  泉先生は、香坂家の離れで寝起きしている。井上家と同じく、母屋は立派な瓦葺のお屋敷だが、離れは茅葺でぐっとこぢんまりした造りだ。土間と台所を除いたら、座敷が三つあるだけである。  井上家の診察室には何度も通っている宇佐だが、香坂家を訪れるのは初めてのことである。ましてや、ここは泉先生の私室でもある。宇佐も花吉も、招じ入れられたはいいものの、隅の方に固まって突っ立っているばかりだ。  先生は小さな囲炉裏の切ってあるところを示し、まあお座りなさい、火を熾《おこ》してお湯をかけてくださいね — と、笑いながら言った。ご自分は奥の一間に入り、足袋を脱いですぐに出てきた。そこへ母屋から女中がやってきて、泉先生はてきぱきと用を言いつけると、囲炉裏端へ来てするりと座った。 「やっぱりお薬の匂いがしますね」と、宇佐は言った。 「この囲炉裏、先生がお使いになってるんですか」花吉はおっかなびっくりの手つきで囲炉裏に火を入れる。妙に煙い。 「そうですよ。番小屋にも囲炉裏はあるでしょう」 「へえ。だけども、先生がご自分で・・・・」 「ここは元は、書生の部屋だったのだそうです。昔、香坂の家では医師を志す人を書生として住み込ませていた時期があったのですよ。今はもう、そんなことはしていませんので、ずっとわたくしが使わせてもらっています」  湯がわくと、泉先生は手ずから香りのいいお茶をいれて、二人に振る舞ってくれた。  ほどなく、先ほどの女中が、おむすびを盛った皿と、漬物の鉢を運んできた。宇佐も花吉も恐縮したが、泉先生は二人に食事を勧め、進んで食べた。 「それであなたたちは、今日、どんなことを見聞きしたのです?」と、泉先生は切り出した。 「ほうという女の子は、どうしているのかしら」  花吉と宇佐は、互いの話を補い合いつつ、今日の一連の出来事について説明した。泉先生はお茶を入れ替えながら、時折うなずき、話が、ほうが泣いて宇佐たちに訴えかけたというところにさしかかったときには、痛ましそうに目をつぶった。 「そんな次第では、二人ともさぞかし割り切れない思いだったでしょうね」  泉先生はため息をつくと、赤々と燃える火を見つめた。 「人の心というのは悲しいものです」  つぷやくような、低い声音だ。 「目の前で起こった出来事でも、悲しみや辛さのあまり、それを認めたくないと強く思えば、見えなくなってしまう。心がその主を騙すこともあるのですよ」  花吉がちらりと宇佐の顔を窺うと、泉先生に問いかけた。「それはつまり、あのほうって子のことで・・・・?」  泉先生はまばたきすると、囲炉裏から目を離して花吉を見た。「ええ、もちろんそうですよ。あなたたち、町役所の渡部さまからも、そういうご説明を聞いたのでしょう?」  花吉に先んじて、宇佐は答えた。「はい、伺いました。でも先生、あたし信じられないのです。あの子が目にしたのは夢や幻で、本当に起こった出来事じゃなかっただなんて」 「無理もありません」泉先生はゆっくりとうなずく。「わたくしだって、あなたたちの立場に置かれたら、同じように思うことでしょう」  宇佐は膝を乗り出す。「本篠寺でほうが騒いで、連れ出された後、先生は美祢さまとお話になりましたか」 「ええ、話しましたよ。聞き捨てならないことですものね。驚きましたし、どうしても問い詰めるような口調になってしまって、今となってみれば申し訳ないことでした」  梶原の美祢は、身に覚えがないと言ったそうである。何が何だかさっぱりわからない、そもそも井上の琴江さまが亡くなったというのは本当なのですか、あの子はなぜそれを知っているの、どこの誰なのですかと、青ざめうろたえて、泣き出さんばかりだったという。 「そりゃ当たり前ですよ」花吉が合点、合点とうなずいて、眉間に皺を刻んでみせる。 「美祢さまにとっちゃ、災難といったら、これほどの災難はねえ。濡れ衣だ」 「でも、その場の話を聞いただけじゃ、ほうと美祢さまと、どっちの言ってることが本当なのかわからないですよね。確かめてみないことには」 「おめえ、とことんバカだなぁ」花吉が声をあげた。「あんな阿呆の子供と、梶原家のご息女の言うことを、同じ秤にかけられるわけがねえだろ。ちゃんと考えてみろよ」  宇佐は花吉を無視した。まっすぐに泉先生の顔を見ていた。  泉先生は、美しく整えた眉をぴくりとも動かさない。声も滑らかに優しいままだ。 「いいえ、宇佐の言うことはよくわかります。だからわたくしも、すっかり取り乱してしまったのですもの。琴江さまが亡くなったということだけでも・・・・」  ちょっとロをつぐみ、胸元に手をあてる。 「もともと、わたくしは本篠寺でほうに会ったとき、井上のお家で何かあったのかと、尋ねたくらいだったのですよ。こんな折にはいの一番に駆けつけてくるはずの啓一郎先生がこられないのを、いぶかしく思っていましたのでね。かすかに不安を覚えたのです」  引手を呼び、ほうを託す一方、井上家に使いを走らせ、ようやく事情が知れた。 「啓一郎先生からの返事で、琴江が急死した、おそらくは心の臓の病だろう、と」  宇佐は思わず膝の上で拳を握った。「毒死ということは」 「まったく書かれておりませんでしたよ、宇佐。啓一郎先生ご自身が、琴江さまは病で亡くなったとおっしゃったのです」  むしろ、本篠寺でほうが騒ぎを起こした旨を知り、啓一郎も驚いていたという。 「頑是無い子供故に、琴江の死に取り乱し、白昼夢を見たのではないかと」  そら見ろというように、花吉が馴れ馴れしく宇佐の肩を叩いた。「な? わかったろ。あの子はここがどうかしちまったんだ」  片手の指でこめかみをさしている。  宇佐はくちびるを噛む。この腕のなかで震えていた痩せっぽちのほう。こぼれた涙、泳いでいた瞳。あれはすべて、あの子の惑乱からきたものに過ぎなかったのか。 「ほうの言っていることはデタラメだってことですか」 「悪意のある嘘ではありません。これは断じて違いますよ。琴江さまを失った悲嘆があまりに強くて、あの子は幻を見てしまったのです。そういうことは、ままあるものなのですよ、宇佐」  いい聞かせ、優しく教え込むような泉先生の声が、耳にも心にも心地よい。それに身をゆだねてしまうのは易しいことだ。正しいことであるかもしれない。いや、きっとそうなのだ。  なのに、なぜあたしの心は抗うのだろう。ひっかかりが取れないのだろう。自分でも腹立たしいほどだ。宇佐は、泉先生の言葉を飲み下すことができない。  ほうの言葉に、あの涙に、宇佐は真実を感じてしまう。どうしてもどうしても、それを「幻だ」と脇に押しやることができないのだ。 (それに・・・・・)  泉先生の目を避けて、ちろちろと燃える囲炉裏の火を見つめ、宇佐は思う。どうして泉先生は、わざわざ宇佐と花吉を呼び、こんな話をする機会をつくったのかと。  本篠寺にはまだ人がいた。この香坂家からも中間が来ていた。泉先生をお送りするだけなら、本来は彼らの仕事だ。でも先生はわざわざ宇佐と花吉に声をかけ、夜道を送ってくれと言った。そして私室にまで招いてくださった。  思えば、琴江さまのことを言い出したのも泉先生が先だ。宇佐はきっかけがなくて困っていた。しかもあのとき、泉先生は宇佐と花吉に、 「琴江さまが亡くなったことを知っていますか」  ではなく、 「琴江さまが亡くなったことを知っているでしょう」  と切り出したのだった。そしてここまで話を運んでこられた。  泉先生は、宇佐と花吉に念を押すために、わざわざこうしているのではないのか。琴江さまは病死だ、ほうの言うことはデタラメだと。もしかしたら、西番小屋での話だけでは、とりわけ宇佐の納得が足りないように見えたので、嘉介親分か渡部さまが、泉先生に頼んだのではないのか。匙の先生のロから、よおく宇佐に言い聞かせてやってくださいと。  だとするならば、本当に起こった出来事は逆で、ほうは真実を訴えているのではないのか。  渡部さまの血走った目を、宇佐は思い浮かべずにはいられない。そしてあの目を、泉先生の落ち着いたまなざしと引き比べずにはいられない。見かけは違うが、ふたつのまなざしは、その奥に何かを隠している。きっとそうだ。宇佐にはどうしてもそう思える。  なぜ? どうして、何を隠す?  こんなふうに疑ってしまう、あたしはおかしいのだろうか。花吉にバカにされているとおり、そそっかしいのだろうか。この胸にこみあげる疑念も、やっぱり夢幻に過ぎないのだろうか。  泉先生はたおやかな手つきでお茶を飲んでいる。花吉はまたひとつおむすびを食べながら、何をまだ勝手に考えこんでんだこのバカはと、怪しむような顔つきで宇佐をながめている。  ここで泉先生に食い下がったところで、先生が親分や渡部さまと同じ側におられるのならば、時を無駄にするだけだ。いちばんいいのは、井上の若先生にお尋ねすることだ。真肇に、熱を込めて頭を下げて、本当のことを教えてくださいとお頼みすることだ。  そして、どうしてみんなして本当のことを押し隠そうとするのか、その理由も教えてもらうのだ。  宇佐はひとつ頭をうなずかせて、「よくわかりました、泉先生」と言った。「ほうの気持ちは、あたしにもわかります。あの子、心から琴江さまをお慕いしていました。今は悲しみのあまり、心が砕けてしまいそうなんだと思います。何とか元気づけるように、精一杯やってみます」  泉先生はにっこりと微笑んだ。「ありがとう。よろしくお願いしますね」 「あの子は嘉介親分が引き取ったんですよ」と、花吉が言う。「もう安心だ」 「そこに、井上家で親しく顔を合わせていた宇佐が加わってくれるなら、さらに安心ですね」と、泉先生は応じた。宇佐はもう一度うなずいて、先生と同じように微笑もうとした。上手くできたかどうか、自分ではわからない。  ほんの一瞬だが、泉先生がひたと眼差しを強くして宇佐を見据えた。宇佐が先生を疑うように、先生も宇佐の心持ちを疑っておられるのかもしれない。  じっとしていると、先生に心の奥を読まれそうな気がする。宇佐は鉄瓶の蓋を上げ、水を足しましょうと立ち上がった。水瓶はどちらですか。その障子の奥が台所ですよ、すまないわね、宇佐 ———  ついでに空いた鉢を下げ、囲炉裏のそばを離れて台所の暗がりに隠れると、宇佐は急に胸が詰まってきた。琴江さまの死が、にわかに身に迫って感じられてくる。ほうの涙に、今さらのようにもらい泣きを誘われる。  おむすびを頬張りながら、花吉が先生と話している。 「ねえ先生、それにしても、お役人たちが加賀さまを怖がることといったら、ひととおりじゃありませんね。組み損なった竹矢来が倒れただけの話なのに、これも加賀さまのせいだとかって、まるで鬼でも現れたみたいな騒ぎでしたよ」  泉先生の声には、やわらかな笑いが含まれている。「でも、加賀さまは本当に鬼なのかもしれませんよ。江戸表ではそう呼ばれているようです」 「え? そんな評判があるんですか。だってそれ、まずくはねえんですか。俺たち、加賀さまのことは口にしちゃいけねえって、そりゃきつく言いつけられてるんです。遠く離れた丸海だってそうなんだから、公方さまのお膝もとの江戸じゃ、もっと厳しく口止めされてるんじゃないんですか」 「江戸の町には、丸海とは比べ物にならないほど大勢の人たちが住み暮らしています。もちろん、公に口にすることは憚られるでしょうけれど……」  人の口には戸が立てられないと言うでしょうと、諭すように先生は言った。 「読売りや落書などで、加賀さまのなすったことはすっかり評判になって、子供らも知っているとか。加賀さまの歌まであるそうですからね」 「へえ、歌ですか」 「遅くまで起きていると、加賀さまの鬼が来てさらってゆくぞ、というような」  それではまさに鬼、物の怪や化け物と同じ扱いだ。江戸の町には、ずいぶんと思い切った気風があるものだ。  涙ぐんだせいで、目が赤くなっているはずだ。花吉に見られたくない。宇佐は、土間の端から囲炉裏の方をそっとのぞいた。泉先生と花吉は、すっかり打ち解けた様子で向き合っている。 「そんな歌をうたっていて、罪にならないのでしょうか」 「見つかれば叱られるでしょうね」と、泉先生は笑った。「香坂の家は、江戸や大坂の薬種問屋と古くから付き合いがあります。加賀さまの事件については、出入りの者が、いろいろな話を持ってきては聞かせてくれました。もちろん、その加賀さまを丸海でお預かりすることになってからは、笑い事ではなくなってしまったのだけれど」  事件が起こるとすぐに、江戸の町では、加賀さまは人ではない、すでにしてこの世のものではない ——— という噂が流れたのだという。何か悪いモノに憑かれ、気が触れて、あんなことをしでかしたのだ、と。 「加賀さまは、勘定奉行職のなかでも勝手方といって、お上のお金の出入りを直に扱う、大切なお役目を果たしている方でした。たいそう有能で、名奉行の誉れも高かったそうですよ。軽輩の身分から、二十年足らずでそこまで出世したのですから、まわりの人びとの尊敬と憧れを一身に集めてね」  その人が、突然部下と妻子を惨殺した。 「いったい理由は何なのか、どうしてそんなことをしなくてはならなかったのか、御目付衆がどれほど問いただしても、調べても、はっきりしたことがわからない。加賀さまも、粛々とお上の処罰を受けて死を賜るのが本望だということしかおっしゃらないのだそうです。それがあまりにも淡々としておられるので、これはもう正気ではないのだろう、と」  悪いモノに憑かれたとでも解釈するより方法がないというわけか。 「一代の誉れの立身出世ですから、そのあいだには、他人を蹴落とし、恨みをかうことだって、加賀さまにはおありだったかもしれません。そういう恨み嫉《ねた》みが凝り固まったものに、加賀さまは憑かれてしまった……と」 「ははあ。切腹を申しつけられなかったのも、そのためだったんですね」  花吉は合点しているが、泉先生はちょっと言いよどんでから、うなずいた。 「そうですね。他にも細かい事情があるのかもしれませんが、流罪に決まったのは、判然としない事柄があまりに多いからでしょう」  加賀さまはもう人ではなく、何か忌まわしく、恐ろしく、汚らわしいモノへと変じてしまった。迂閥《うかつ》に命を絶てば、もっと悪いモノになって、将軍家に災いをもたらすかもしれぬ。これはもう、遠ざけて封じるしかない—— 「わたくしは江戸に参ったことがありませんから、これも聞いた話でしかないけれど、今の将軍家の、十一代家斉さまは、そうした事柄をたいそう気になされるので、なおさら処置が難しくなったのだそうですよ」 「へえ…公方様が、ね」花吉は目を丸くしている。「迷信とか、崇りとかそんなものがお好きなんですか?」 「お好きなのではなく、畏《おそ》れ憚《はばか》るお気持ちが強い、ということでしょうね」  泉先生は言って、囲炉裏に薪を足した。 「これらのことを、丸海藩でも、加賀さまお預かりに関わる人たちは、みな知っています。加賀さまが丸海に来るということは、すなわち恐ろしいモノが来ること——鬼や悪霊が来ることに他ならない。それならばこの先、丸海でも、恐ろしいことや悪いことがたくさん起こるのではないかと、今から怯えている人たちもいるそうです」  城下町の人びとに対し、ことさらに加賀様のことを伏せて、詳しいことを知らせないように計らっているのもそのせいだと、泉先生は言った。  宇佐は一人、暗がりで目を細めた。  それだからか? そういう風評があるから、丸海の者どもの心を騒がせないために、琴江さまが毒で殺されたことを隠さなければならないのか? 加賀さまがしたのと同じように、毒を使って人を殺めるような出来事が、今の今、この丸海で起こっては困るというのか?  何とバカらしい怯えだろう。加賀さまが琴江さまを殺したわけではないのだ。加賀さまのしたことは、たとえどんなに恐ろしい所業であっても、もう終わったことだ。琴江さまの死とは何の関わりもない。なのに、ただ風評が恐ろしいというだけで、みんなして本当に起こったことを隠そうとするなんて。  渡部さまも嘉介親分も、眉間にしわを立ててあんな怖い顔をして、頑是無いほうを脅しつけて。 「そうしますと、丸海はこれから大変なんですよねえ」  音をたてて茶をすすりながら、花吉は感心したような声を出している。 「ほらね、表向きは、町場の者は加賀さまのことを口にしちゃならねぇってことになってるけど、それは建前でね、ひそひそ噂してますよ。だって丸海は港町なんだから、外からいろいろ聞こえてくるものは、こりゃしょうがねぇ」  泉先生は微笑んでうなずく。 「何も詮索しちゃならねぇ、しゃべっちゃいけねぇって言われりゃ、かえって逆のことをしたくなるのが人の惰ってもんだ。今じゃみんな、加賀さまがどえらく恐ろしいってことをよく知ってる」  確かにそうであるからこそ、花吉も一人でいろいろ聞き集めることができたわけだ。 「俺たちもしっかりしねえとな。町場でおかしなことが起こったら、加賀さまお預かりに奮闘してる皆さんのご迷惑になる。そうでしょ、先生」 「そのとおりですよ」泉先生が褒める。「委細万端遺漏なく整えて、無事に加賀さまお預かりを遂げるためには、あなたたち引手の力も必要なのです。しっかり頼みますよ」  もちろんですと、花吉は顔を上気させて喜んでいる。宇佐は呆れた。花吉はどうして、こんな話を鵜呑みにすることができるのだろう。おかしいと感じないのか? 加賀さまは加賀さまだ。琴江さまに毒を飲ませた梶原の美祢は、加賀さまに憑かれたわけでも何でもない。自分の悪意で琴江さまを殺めたのだ。  どういう理由があったのかわからないけれど、でも、やったのは美祢で ———  そこまで考えて、はっとした。  御牢番頭の船橋さまは物頭代、物頭というお役目の長だ。そして梶原家も物頭だ。当然、梶原さまも御牢番を勤めるに違いない。  その梶原家の息女が、今この時期に、人を毒死させた。  本当にまずいこと、伏せておかねばならないことは、そちらの方だ。  宇佐は暗がりのなかで目を見開いた。そうだ。渡部が目を血走らせ、嘉介親分が顔を歪めていたのはそのせいだ。  加賀さまにまつわる風評が怖いなんていうのは、二の次三の次だ。丸海藩が本当に恐れているのは、大切な加賀さまのお預かりに関わる御牢番の、梶原家の失態が公になることなのだ。  嘉介親分は、このお預かりに少しでも手抜かりがあれば、丸海藩はお取り潰しになると言っていた。それほど大切な課役なのだ。こともあろうに御牢番の身内に人殺しが出たなどということは、伏せられるものなら伏せてしまうに越したことはない。だから渡部さまと親分は口裏を合わせ、琴江さまを最初に毒死と診立てた啓一郎先生や、井上家の人たちも、揃ってロをつぐんでしまったのではないか。  啓一郎先生は、お取り潰し云々という嘉介親分の心配を、うがち過ぎだと笑っていた。でもあれは、要するに建前だったのではないか。宇佐にそんなことを聞かせたっていいことはないから、笑ってかわしておられたのだ。本当は、匙家の若先生だもの、この課役にどれほどの重みがあるのか、よおく知っているはずなのだ。どんな些細な手違いも、外聞を憚るような椿事もあってはならない。あったとしたら、それはなかったことにされなければならない。  だから、琴江さまを病死と偽るより仕方がなかった ———  じっとしゃがんで聞き耳を立てているだけなのに、宇佐は息苦しくなってきた。驚きと怒りと、自分でつかんだこの推測に、心が昂ぶっているせいもあるのだろう。  漁師町生まれの宇佐は知っている。凪いで穏やかに見える海にも、潮の流れがあることを。人の世も同じだ。静かな波の下に、思いがけないほど強い渦が巻いていることだってある。  それにしても、解せないことはまだ残る。梶原の美祢は、琴江さまと仲良しだった。少なくとも宇佐の目にはそう見えた。いったいどうしてその美祢が、琴江さまを手にかけたりしたのだろう。 「宇佐、そろそろ失礼するぞ。さっきから何やってんだ」  花吉が偉そうに大声で呼んだ。宇佐は息を呑み込み、せいぜい顔色を整えて囲炉裏端へと戻った。 「風が出てまいりましたよ、先生。煙抜きのところでひゅうひゅう音がしています。夜の鳴る音でございますね」 「夜が鳴る、ね。宇佐はきれいなことを言うのですね」 「チェッ、女だからなぁ」  花吉がくさす。宇佐は笑い、泉先生も笑った。顔の皮一枚の笑いだと、宇佐は思う。  急に、芯から寒いような気がした。        鬼来《  きた》る    一  その朝、宇佐は早太鼓の音で目を覚ました。番小屋や火の見櫓の太鼓ではなく、港の潮見櫓からの音である。  二つ打って一つ休み、また二つ打つ。宇佐は寝床から起きあがり、雨戸を開けて、淡い朝焼けに染まる東の空を仰いだ。  宇佐の暮らすこの長屋には、塔屋で働く女たちが多い。みな、漁師たちと同じくらいの早起きだ。すでにそこここで人が立ち働き、煮炊きの湯気があがっている。港から聞こえる耳慣れない拍子の太鼓の音に驚いているのか、戸口や窓からちらちらと顔がのぞく。  宇佐は大急ぎで着替えると、外へ出た。居合わせたおばさんの一人に挨拶したが、やはりいぶかしげな顔をしているので、あれは早船が着くのを知らせる太鼓ですよと教えた。 「早船? へえ、今まで聞いたことがなかったよ」 「あたしも聞いたのは初めてです。でも港では教わるから」 「ああ、そうか。あんた漁師町の生まれだったもんね」  早船とは、昼夜を問わず急な用件のために畠山家の御用船を使うことを示す。船が大坂から来るときは二つ打って一つ休み、大坂に向けて出港させるときは、三つ打って一つ休む。  出かけようとする宇佐に、おばさんは声をかけた。「宇佐ちゃん、あんた顔ぐらい洗ったらどうけ?」  宇佐は笑って言った。「走ってるうちに、さっぱりして目が覚めます」  おばさんも笑った。駆け出す宇佐を、とんと色気のないことだねえという声が追いかけてきた。  宇佐はまっすぐ漁師町へ向かった。早船のことでは、番小屋へ行っても駄目だ。丸海港を擁する町の北半分は船奉行の縄張りだから、町方には何も教えてくれない。さりとて港へ行ったところで、宇佐が町役所の縄張りの内である堀外の西番小屋で働いていることは知れ渡っているので、やっぱり誰も相手にしてはくれない。船奉行縄張りの磯番たちに剣突をくわされるのがオチだ。だが漁師町は、宇佐の生まれ育ったところだ。知り合いの誰かが何か耳にすれば、きっと教えてくれるだろう。  丸海港は良港だが、早船は、とにかく急いでいるので、本船を横付けする前に、小舟を出して人を乗り移らせ、先に上陸させるものという話を聞いている。港にいる便船の船頭たちだけでは手が足りなくて、漁師町から人が出ていることもあるかもしれない。近い距離で小舟を操るなら、漁師たちの方が腕は上だ。宇佐は懸命に駆けた。  今の今、大坂から早船が来るというのなら、それはあの加賀さまお迎えに関する緊急事であるに決まっている。それが何であれ、宇佐はどうしても知りたかった。今度は何が起こったというのだろう。  息を切らして駆けてゆくと、懐かしい磯の香りがぐんぐん濃くなった。お城の近くにいても海の匂いは感じるけれど、それはやはり魚が荷揚げされる町の匂いとは違っている。また、ここまで来ると、紅貝染めの塔屋はまったく見あたらない。町並みがのっぺりと低くなる。そこここに干されているのは、紅く染めたての糸の束ではなく、網と浮《う》子《き》だ。  この時季の内海漁では、夜漁はまったくしないので、漁師たちは今しも船を出そうと支度をするころだ。駆けてゆくあいだに、宇佐は知り合いの顔をいくつも見つけた。彼らに挨拶し、潮見のおじさんは何処かと尋ねると、港の磯番小屋にいると教えてくれた。  潮見のおじさんは、名は宇野吉という。宇佐の亡くなった父親の仲間である。子供のころにはずいぶん可変がってもらった。  領内の他の漁師町とは違って、丸海城下の漁師町では、網元という地位がない。水揚げはすべて、直に船奉行の管轄になるからだ。そのかわり、漁師町を仕切る顔役として、「潮見」と呼ばれる人がいる。いわば漁師たちの頭で、大工でいう棟梁のようなものだ。形としては、船奉行配下の船役人から命じられるのだが、実際には、漁師たちのあいだで人望のある人物に、自然に決まる。  宇野吉は、宇佐の父が亡くなって間もなく、潮見になった。以来、宇佐は「潮見のおじさん」と呼んでいる。  宇野吉は磯番小屋の戸口に立ち、片手を腰にあて、長い煙管をくわえていた。明るくなりつつある海の方を見やっている。足音ですぐに気がついて振り返り、おう、宇佐ぼうじゃねえけと声をかけてくれた。長年の日焼けと潮焼けが重なって、煤がたっぷりしみこんだ竈の上の梁のような顔色をしている。深いしわを刻んだその顔が笑み崩れると、どんな有り難い仏様の像よりも優しい表情になった。 「おじさん、早船だね」 「おうよ。えらいこったな」  ちっともあわてていない口振りだった。 「小舟、出たの?」 「勝が漕いどるわ」  宇野吉の長男である。宇佐とは幼なじみだ。 「勝さんが出てるなら安心だ」宇佐は笑って、宇野吉と同じように腰に手をあて、海を見やった。船はまだ、港内に達していないのだろう。ここからは見えない。 「見物なら、堀外から見た方がよく見えるだろう」と、宇野吉が言った。 「うん、あっちの方が高くて見晴らしがいいもんね。だけどおじさんが何か知ってないかと思って」  磯番小屋には、早船と関わりがあるのかないのか、忙しなく人が出入りしている。みな漁師たちだが、宇佐をちらりと見て、宇野吉と見比べている。しかし肝心の漁師たちの船は、今朝はまだ一艘も沖に出ていない。岸に引き上げられたままだ。早船が着かないと、出られないのだろう。  宇野吉は豪快に笑った。「宇佐ぼうは、すっかり引手になっちまったな」 「そうじゃないよ」宇佐はあわてて言った。「だって、堀外の引手は港と漁師町のことにはくちばしを挟まないのが決まりだもんね」 「まあ、そうだな」宇野吉の口調は優しいが、返事は素早かった。 「だけど、早船って言ったら藩の一大事でしょう。今、一大事って言ったら、加賀さまのことに決まってる。だから気になってさ」  宇野吉はぶかりと煙を吐くと、宇佐の言葉を聞き流した。 「のろくさい」と、叱るように短く言った。「早く引っ張ってこねえと、漁にならねえ」  漁師たちも、気分ばかりはそわそわとしているが、皆、手持ちぶさたのようだ。あちこちでたむろしている。 「加賀さまをお預かりするって、大変なことなんでしょう」宇佐はさらに言った。「堀外じゃ、大騒ぎだよ。一昨日なんか、涸滝のお屋敷を修繕しててさ、そこで怪我人が出たりして」  宇野吉は眉毛の一本も動かさなかったが、くるりと煙管を回すと、からかうような目つきで宇佐を見た。 「そういうことは、お城の連中に任せときゃいいんじゃ。わしらにゃ関わりねえ」 「そうだけど……」宇佐は頑張った。「でも、加賀さまは大坂まで来てるんでしょ。この早船は、そこで何かあったってことなんじゃないかしら」 「知らんなぁ」 「おじさんてば」  宇野吉はまた器用に煙管を回すと、膝のすぐ上でぽんと叩いて、煙草を捨てた。そして言った。 「怪我人が出たという話だ」 「誰が怪我したの?」 「知らんよ。ただ、保田さま直々に港へおでましだ。公事方のお役人も来とる」  保田さまとは船奉行の保田吉安である。宇佐は目を見張った。 「保田さまが来るなんて、じゃあ加賀さまご本人が着くってことかしら。怪我をしたのは加賀さまかしら —— 」  宇野吉は素早く宇佐を遮った。 「ご本尊さまが怪我をしたなら、大坂で手当てするのが早い。それより、丸海への道中で加賀さまが怪我をしたなんぞということになったら、ただでは済まんよ。お上に知れたら大変なことになる」  宇佐は潮見のおじさんのしわくちゃの顔を振り仰ぎ、じっと見つめた。宇野吉は宇佐に横顔を向けて、海の方ばかり見ている。 「うちの親分も、万にひとつ、加賀さまお預かりに粗相があったら、丸海藩はお取り潰しになるって言っている」  宇野吉は何も言わない。 「だから大事なんだって。それに、加賀さまは江戸じゃ悪い評判がたくさんあって —— この世のものじゃないとか、悪霊に憑かれてるとか、とっても悪いモノなんだとかって。だから丸海にも、おそろしい災難を運んで来るんじゃないかって」  宇野吉はようやく宇佐の顔を見た。「おまえの親分は、ずいぶんおしゃべりだな」 「違うよ! 今のは親分から聞いた話じゃないんだ」 「じゃ、宇佐ぼうが聞き込んだのけ」  宇佐は口をつぐんだ。  ようやく、勝の小舟が見えてきた。凪いで色目の薄い朝の海を、ぐいぐいと漕いで近づいてくる。 「どっちにしろ、わしらの口を出すことじゃねえ。藩の大事は畠山の殿様の大事だが、わしらは海があって船がありやなんとかなる」  宇佐は驚いた。「おじさん、そんなこと言っていいの?」 「なぜ悪いんだ、うん?」 「だって……」 「宇佐ぼうも漁師町にいりゃな。引手なんぞの真似をするから、お役人に似ちまうんだ。益体《やくたい》もないことは頭から追い出して、帰ってこい。勝の嫁になればいい」  その話は、宇佐が西番小屋で働き始めるころからあったのだ。だが宇佐はその気になれなかった。勝のことは嫌いではないが、彼と所帯を持って漁師町の女房におさまるなんて、およそつまらないことに思えた。  宇野吉が静かに叱るように続けた。 「ここで粘っていたって、早船のことは何もわからんよ。こっちの磯番に見つかりや、縄張りを荒らしたって、宇佐ぼうの親分の顔がつぶれるだけだ。早く帰んな」  小舟はもう、手の届きそうなところまで来ている。斜にながめて見れば、港には確かにお役人が群れているようだ。 「宇佐ぼうが何を案じているのか知らねえ」と、宇野吉はさらに声を落として言った。 「加賀さまのことも、元はお上の立派なお役人で、今は流罪にされた罪人だということぐらいしか、わしは知らねえ、だがな、悪霊だの悪いモノだの、そんな噂に耳を貸すのは阿呆のすることだということぐらいはわかる。海に出りや、怖いモノにも出会う。そんな話はごろごろしとるで。宇佐ぼうだって、一つや二つは知っとるだろう」  一つや二つどころか、十も二十も知っている。海坊主や磯女や、怪魚やあやし火。 「世の中には、わしらには与《あずか》り知らん、不思議な事どもがいっぱいあるのが当たり前なんだ。だが、生きている者は、神様にはなれん。それと同じように、悪霊にも、悪いモノにもなれんよ」  宇佐は急に恥ずかしい気持ちになって、足先をもじもじさせた。 「うん」と、小さく答えた。「そんなら、もう帰ります」 「またおいで」と、急に笑顔を戻して、潮見のおじさんは言った。「勝の嫁になってもいいと思ったら、いつでも戻ってこい。あいつも喜ぶ」  なんだかいたたまれなくなって、宇佐は帰り道も駆けた。漁師町から堀外の町へと駆け上り、かなり経ってから、潮見のおじさんが、あんなに見事なお説教をしたのは、裏返してみれば、漁師町や港でも、堀外と同じように、加賀さまについての悪い噂が広がっているからではないか ——— と、思いついた。      二  案の定、堀外の西番小屋では、早船のことなど何もわからなかった。いつものようにこまごまと働き、町筋を掃除したりしながら、宇佐は努めて耳をそばだてたが、早船が来て、お城と堀内では騒ぎになっているようだという噂があるだけで、詳しいことは誰も知らない。今度は、嘉介親分のところに回状が回ってくるということもなかった。もともと、加賀さまお預かりに引手は関わってはいけないのだ。 「俺もさっぱり、何もわからねえ。なにしろ、今朝のことだもんな」  と、花吉も頭をかく。 「まあ、おっつけ何か漏れてくるだろうから、聞き込んでみせるけどよ。でも、また親分に知れるとどやされるからな」  油断のならない奴だと睨まれたのが、よほど堪《こた》えたようだ。 「どっちにしろ、加賀さまには俺ら引手は関わっちゃならんのだから、いいけどよ。俺らには俺らの役目があるんだ。宇佐、おまえもきりきり勤めろよ」  どっかりと座って、鼻の下をこすっている。今日は花吉が番小屋詰めの日なのだ。宇佐が見習いとしてここに来るまでは、花吉も見習いで、急な出入りで留守番役が要るような時を除いては、一人で小屋を任されることはなかった。それが宇佐のおかげで上に押し出される形になり、今ではこうしてすっかり一人前の顔だ。  花吉はまだ若造で、親分株でもないのに、他に生業を持たず引手だけをして暮らしている。実は、丸海では老舗の大旅龍の三男なので、金に困ることのない身分なのだった。  引手になりたいというのは、本人が子供のころから思っていたことだという。宇佐も何度か聞かされた。立派な兄さんが二人いるので、花吉がお店に入る余地はない。放蕩して暮らすのは易しいが、そうして一族の鼻つまみ者になるのは癪《しゃく》に障る。だったら町役所の下でお務めし、立派な働きをして、金儲けしか能のない兄さんたちを見返してやろう。幼いころ、そう腹を決めたのだそうである。そして年頃になると家を出て、引手に志願した。  本当かどうかわからないが、花吉は外腹の子だという噂もある。だとすれば、いつか腹違いの兄さんたちを見返してやるんだという負けん気の出所も、わかるような気がする。  独り身の宇佐は、つましくすれば、嘉介親分からいただくお手当てだけで暮らしていかれるので、今のところ他に生業を持つことを考えてはいない。せいぜい近所の手伝いをしたり、使い走りを頼まれてお駄賃をもらったりするくらいだ。見習いだからこそ、些細な用事でも頼まれたらすぐ動ける身の軽さを大事にしたいとも思うからだ。  だが正直言って、懐具合が淋しくて不安になることもある。そんなときは、花吉がうらやましく思える。今みたいに、妙に偉そうな顔をされたり、先輩風を吹かされた時にはなおさらだ。  噂のとおり、もしも花吉が外腹の子なのだとしたら、それはそれなりに悔しい思いもし、苦労もあったのだろう。花吉も宇佐と同じく長屋の一人暮らしだから、淋しいときだってあるだろう。だが、ほうの身の上に比べたら、何倍も何十倍も幸せだ。ほうは、外腹の子であるという不幸に上乗せして、さんざん理不尽な目に合わされてきた。そして流れ者いた丸海で、やっと親切な井上家に拾われたと思ったら、今度は・・・・・ 「ねえ、花さん」宇佐は、一人でそっくり返っている花吉に問いかけた。「琴江さまのお葬式のこと、何か聞いてる? 花さんは早耳だから、知ってるでしょう」  花吉はちょっと目を剥き、顎を引いた。 「時が時だから、お身内だけでひっそり済ませたらしいよ」 「済ませた? もう? だって亡くなったのは一昨日の昼だよ」 「一日もありや充分だろうが」  やっぱり、あわてて亡骸を片付けてしまったのだと、宇佐は思った。時が時 —— つまり加賀さまお迎えの準備で大変な時期だというのは、なんて都合のいい口実だろう。 「お別れしたかったな、あたし」 「やめとけ。諦めろよ。いくら親しくしてもらってたって、あちらは匙家だ。おめえとは身分が違う」  ぴしりと決めつけて、しかし急に、花吉は慰めるような顔になった。 「琴江さまは良い方だったんだろ。だったらまっすぐ極楽浄土へいらしてるよ。西の方を向いて拝めばいい。琴江さまは見てらっしやるよ」  こういう気の優しいところもあるのだ。 「そうだね」宇佐はうなずいた。「そうするよ。ありがとう」  花吉は照れ笑いをしたが、その笑いを中途半端に、宇佐の顔を窺い見る。 「宇佐、おまえ、まだあれこれ考えてるんじゃねえだろうな」 「考えるって、何をさ」  花吉は口を尖らせた。「その口だ。それにその恨みがましいような目だよ。やっぱりおまえ、まだ文句があるんだろう」  琴江さまは病で亡くなったんだよと、花吉は声を強めた。宇佐はきっと顔を上げた。すがるような思いがこみあげてくる。 「じゃあ訊くけどさ、花さんは本当に、心底ホントに、おかしいと思わない?」 「何がおかしいんだよ」 「あのほうって子の言ってたことだよ。子供があんな作り話をするかい?」 「あれはだから、幻だって」花吉はちょっとひるんだ。「渡部さまも、嘉介親分も、泉先生だってそうおっしゃってたじゃねえか。どうしておかしいんだよ。匙の先生の診立てだぞ」  宇佐は言い返そうとして、やめた。やっぱり駄目だ。花吉はまったく疑いを抱いていないのだから、何をどれだけ言い合って積み上げたって、無駄なのだ。あたるなら、別の人たちだ。 「わかったよ、わかった。そんなに大きな声を出さないでください。あたしがいけませんでした」  ぺこりと頭を下げた。花吉は怪しむような目つきだ。それを振り払うように、宇佐は元気よく立ち上がった。 「あたし、買出しに行ってきます。それと本篠寺に顔を出して、御用がないか訊いてきます。あと片付けが大変だろうから」 「ああ、頼まぁ」嘉介親分の口調を真似ている。「行くのはいいが、余計な噂話なんかに付き合って、油売ってくるんじゃねえぞ。女はおしゃべりだから困るよ」 「噂話って?」 「だからほら、竹矢来のさ」  倒れたのは加賀さまの所業をなぞるようだと、藩士たちが騒いでいたとかいう。加賀さまの崇りが、倒れるはずのない竹矢来を倒し、藩士たちに思いがけない怪我をさせたと。 「その話、広がってるの?」 「なにしろ涸滝の屋敷の庭周りが血の海になってたっていうからな。みんなビクビクしてるのさ」  加賀さまは鬼だ、悪霊だ。加賀さまは流されることを恨んで、この丸海に、ありとあらゆる災厄を運んでくる ——— 「あたしはそんなの、信じないな」  宇佐の呟きに、花吉はへえっと眉を持ち上げた。からかうように、 「女引手の宇佐さんは、鬼も悪霊も崇りも怖くねえってか」 「意地悪だね」宇佐はわざと笑ってやった。「そうじゃないよ。でも潮見のおじさんも言ってた。生きている人が、鬼や悪霊になれるわけがないって」 「そりゃ物を知らねえ言い草だな。人が誰かを恨んだり腹を立てたりして、その気持ちがあんまり強くって、生きながら鬼や邪《よこしま》な生霊になっちまうってことは、昔話にだってちゃんと残ってるんだぜ」  わかったようなことを言っているが、花吉が自分で読んだのではなく、噂話のついでに小耳に挟んできた知識だろう。おしゃべりなのはどっちだ。 「あたしの聞いた話じゃ、どっちかっていったら加賀さまは、人を怨むより怨まれる側のお方だったようだけど」  目覚しい出世栄達のために、多くの人びとを踏みつけにしてきたからだ。 「それだって一緒なのさ。他人の怨みをかえば、それは悪い業ってもんになって本人のなかに溜まるからな。怨まれれば怨み返して、また業が溜まる。ンで、積もり積もった業に喰われて、人の心が失くなっちまって、化け物になる」  このことについては弁の立つ花吉だ。 「でも、たとえそんなことが本当にあるにしても、加賀さまが丸海に崇るのはおかしいじゃないか。加賀さまを流罪にしたのはお上だよ。公方さまだよ。崇ったり呪ったりするなら、公方さまにすればいい。あたしたちの丸海に災いを持ってくるなんて、筋違いだ。加賀さまは偉いお役人だったんでしょ。そんな頭のいい人が、筋違いのことをするわけがないじゃないか」  花吉も負けていない。「筋違いであるもんか。丸海が加賀さまお預かりを引き受けたってことは、お上の味方をして加賀さまの敵に回ったってことなんだからよ」  変なふうに筋が通っている。宇佐はやりこめられて口をへの字に曲げ、とっさに矛先を変えた。 「だけど加賀さまは、まだ大坂にいるんだ。丸海に着いてはいないんだよ。どうやって丸海の者に悪さを仕掛けたりできるのさ。ひと晩のうちに、泳いで海を行ったり来たりするとでもいうのかい」  フンと鼻を鳴らして、おまえはそんなことも知らないのかと、花吉はさらにそっくり返った。 「バカだな。悪い兆しってことがある。それに、魂よく千里を行くというんだぜ。鬼や悪霊だってそうだろうよ」  宇佐は今度こそ返答に困った。結局、花さんはつまんない講釈の聞き過ぎだと言い返したが、どうも歯切れが悪い。 「何とでも言えよ」花吉は宇佐を言い負かして得意そうだ。「加賀さまが丸海に来るってことは、災いが来るってことなんだ。これから、どんな突拍子もないことが起こるか知れたもんじゃねえ。そうなったら引手の出番だ。丸海の町を護るのが、俺たちの役目なんだからな」  胸を張って言う。花吉はちっとも怖がっていない。むしろ、突拍子もない出来事が起こるのを、心待ちにしているようだった。      三  午近くになって、宇佐はほうの様子を見に行ってみようと思い立った。嘉介親分のところで二晩過ごし、少しは落ち着いたころかもしれない。どうしているか気になる。  親分は、今日はまだ西番小屋に姿を見せていないが、家にのんびりしているような人ではないから、顔をあわせてしまうという心配は無用だ。  親分の家はすぐ近くだ。道々、担ぎ売りの飴屋に行き会ったのでいくつか買い求めた。  嘉介親分はよく、俺の家よりも西番小屋の方が広くて住み心地がいいと笑って言うが、確かにずいぶんと手狭で古びた家である。土台が傷んでいるのか、家全体が、なんとも絶妙な按配にかしいでいる。その傾いた屋根の上に、男の子が二人よじのぼっていて、宇佐の顔をめざとく見つけて声をあげた。 「あ、うさぎだ!」 「うさぎがきた! うさぎ、うさぎ、何の用だ?」  親分の倅《せがれ》たちである。宇佐は笑いながら飴の袋を振ってみせた。 「これを持ってきたんだよ」  子供らはわーいと叫んで屋根から道へ飛び降りた。心得たもので、かしいで低くなっている側から飛ぶ。 「おかみさんはいなさる?」と、宇佐は尋ねた。子供らは飴を頬張りながら、おかあちゃんは洗い物で姉ちゃんは手習いでと、忙しくしゃべった。 「あんたらは屋根で日向ぼっこ?」 「ちがわい、豆を干してンだよ」 「そンで、鳥を追っばらってたんだ」 「感心、感心。ねえ、一昨日の晩から、女の子がいるだろ? ほうって子」  子供らはうなずいた。「奥にいるよ」  そして一人が飴で口をもぐもぐさせながら、宇佐の袖を引っ張った。 「けど、今は入っちゃ駄目だ。お客が来とるもん」 「お客さん?」 「うん。あの子の奉公先から」  井上家だ。誰が来ているのだろう? 「それじゃ、おじゃまにならないように、あたしは外で待つことにするよ」  宇佐は家の裏手に回った。なにしろ小さな家だし、この町では、冬場でもなければ、どの家でも陽のあるうちは戸など開けっ放しである。ちょっとのぞいて見るだけで、ほうのものらしき小さな影と、女髷を結った大きな影が、頭をくっつけ合うようにしている様子がうかがえた。  舷洲先生の奥様が亡くなって以来、井上家には、女といったら琴江さましかいなかった。するとあれは奉公人の誰かだろう。そういえば、気の強そうな中年の女中がいたはずだ。  やはり、ほうの様子を見に来たのだろうか。それにしてもひっそりとしている。他聞をはばかる話か。宇佐は考えた。嘉介親分のおかみさんは察しのいい人だ。洗い物だというのも、座を外すためかもしれない。  勝手口のすぐ外に張りついていて、宇佐は聞き耳を立てた。女の声がぼそぼそとしゃべっているが、中身までは聞き取れない。ほうは黙って聞いているだけのようだ。  やがて、とってつけたようにさっぱりした声で、客の女が、じゃ、いい子にしているんだよと言った。そのまま、立ち上がって外へ出てゆく。と、また屋根の上に戻ったらしい倅たちに、おじゃまさまでしたね、と呼びかけるのが聞こえてきた。  宇佐はするりとなかに入った。ほうはぺたりと正座してうなだれている。気配に気づいて顔をあげ、宇佐を見つけると、目がちょっと大きくなった。 「こんちは」宇佐はにっと笑ってみせた。「どうしてるかと思ってさ」  ほうの膝のそばに、小さな風呂敷包みがあることに気づいた。そうか。 「それ、あんたの着物だね。井上のお家の人が持ってきてくれたんだね?」  ほうはこくりとうなずいた。よくよく見ると、ひどくげっそりとしている。宇佐はあがりかまちに腰かけて、ほうの肩に手を乗せた。 「元気ないね」  嘉介親分もおかみさんも、情けのある人だ。しっかり世話を焼いてくれているのに決まっている。ほうの方が馴染めないのだろう。 「今の人、女中さんだっけ」  ほうはまたひとつうなずき、耳を寄せないと聞こえないくらいの小声で答えた。「しずさんです」 「そうそう、おっかないおばさん。あたしも見かけたこと、ある」  宇佐は笑って言ったが、ほうはついてこない。ちょっと涙ぐんでいるようである。 「叱られたの?」  ほうはあわてて首を振った。「ちっとも」 「じゃ、泣きなさんな。何が悲しいの」  黙っている。 「あの女中さんは何て言ってた?もう帰ってきちゃ駄目だって言われたのかい?」  目をぱちぱちさせて涙をはらってから、ほうは「はい」と言った。「あたしは江戸に帰ったほうがいいって」 「どうやって帰るのさ。あんた一人で」 「舷洲先生が、お手紙を書いてくださるそうです。萬屋に」 「萬屋 ——— それがあんたの家?」  ほうは、たどたどしい口調で自分の生まれ育ちを語った。とうてい、ほうの頭から出てきたとは思えないほど、妙にうまくまとまった身の上話だった。宇佐は聞いていて、ほうは自分の言葉で話しているのではなく、あんたの身の上はこうこうこういう惨めで恥ずかしいものだと、誰か大人から教え込まれたことをそっくり諳《そら》んじているだけだと感じた。  それにしても —— そもそもこの子がはるばる丸海まで流されて来たことの理由にも、�崇り ″というものがからみついていたとは。 「そんな事情があったんじゃ、いくら舷洲先生がとりなしてくだすっても、萬屋から迎えの人が来るとは思えないよね」  ほうはうなずく。さっきより勢いがあった。 「あんたも帰りたくないよね?」 「はい」と、これもさっきよりも力のある声で答えた。 「だけど井上の家にももう戻れない、と」 「どうしてでしょう?」  ほうは問いかけて、やっと宇佐の顔を見た。宇佐がふと胸を突かれるほどに、途方にくれて頼りなげな目だった。 「あんたが不始末をしたってわけじゃないよ。だけど……あんたがいると、皆さん、琴江さまが亡くなったときのことを思い出しちゃうんじゃないのかな」  井上家も、藩のため、家のために、あえて琴江さまの無念の死の真相を伏せておかねばならない。嘘をついて、蓋をしておかねばならない。だから、その蓋を押えているところを、この子の澄んだ瞳で見据えられるのは辛いのだ。なにしろこの瞳は、本当に起こった事柄の一端を目撃しているのだから。 「若先生が」 と、ほうは言いかけて黙った。 「啓一郎先生が?」  言葉を見失ってしまったのか、かなり間をあけてから、ほうはやっと続けた。 「ほうは悪くないって、おっしゃったそうです。よく働いた、良い子だって。ほうが気に入らないから家から出すわけではないって。しずさんが言ってました」  啓一郎らしい優しさだ。宇佐は微笑んだ。 「ね? あんたは悪くないんだ」  宇佐は手をのばし、ほうの手を握ってやった。小さな手は冷たかった。もともと痩せて骨張っていたが、たかだか一日か二日のあいだに、さらに細ったように感じた。 「あんた、ご飯食べてる?」  嘉介親分とおかみさんが、この子を飢えさせるわけがないのだが。 「食べたくないの? 食べられないの?」  ちょっとのあいだ、本当に困ったように顔を歪めてから、ほうは謝るように言った。 「おまんま、いただけないんです」 「何でさ」 「あたし・・・・何も働いてないし。あたしのような余計者は、働かなかったら、おまんまはいただいちゃいけないんです」  井上家でそんなことを教え込むわけがない。これはおおかた、江戸でほうが暮らしていた金貸しの家や、萬屋で仕込まれたことだろう。  さぞや親分もおかみさんも往生していることだろう—— と思っていると、ちょうどおかみさんが戻ってきた。洗い物の入った盥《たらい》を両腕で抱えている。 「おや宇佐ちゃんじゃないか」  宇佐は立ち上がって挨拶をし、近くまで来たのでほうの顔を見に寄ったのだと言った。 「干すの、手伝いましょう」  盥を受け取る。裏庭に出て行こうとすると、おかみさんがちらりと水屋をのぞいて、 「おむすび、食べなかったのかい?」 と、ほうに尋ねた。  おかみさんも裏庭に出てきたので、宇佐は干し物の手を休めないまま言った。「あの子、ご飯を食べないらしいですね」  おかみさんはため息をついた。「食べない、しゃべらない。こっちが何を言っても、ごめんなさいって頭を下げるばっかりなんだよ。あんな子も珍しいよね」  思いつきだが、宇佐は思いきって口に出してみた。「おかみさん、あの子、あたしに預からせてください」 「あんたに?」 「ええ。あたし、ひとり暮らしだし、妹だと思えばちょうどいいです。あの子は女中をしていたくらいだから、家のなかのことなんか手伝ってくれそうだし」  おかみさんの頬が緩んだ。「そう。そりゃ、そうしてもらえると助かるんだけどねえ。うちの人に叱られるかしら」 「親分なら、あたしからよくお願いしてみますから、大丈夫ですよ」 「ねえ。いえ、あたしも女の子の一人ぐらい引き取るのはなんてことないと思ってたんだけど、お吉《よし》がね、目の敵にしちまってさ」  お吉は屋根の上の倅たちの姉で、今年十二である。 「うちの人が、あのほうって子の機嫌をとろうとでも思ったんだろうけど、さすがに江戸の子はあか抜けてる、髪もきれいだし色白で可愛いなんて、柄にもないおべっかを言ったらさ、お吉がふくれちゃって。たかだかこのふた晩のことなのに、あたしゃもうほとほと疲れた」  宇佐はあははと笑った。いかにも嘉介親分らしい。「お吉ちゃんも年頃なんですね」  そして心の内で、つくづくほうを哀れに思った。流され者の居場所を見つけるのは、なんと難しいことだろう。  しずが持ってきてくれた風呂敷包みをそのまま抱え、宇佐に手を引かれて、ほうは宇佐の長屋へとやって来た。長屋は通りに出て角をひとつ曲がれば西番小屋の見える場所にあるが、宇佐の部屋はいちばん奥まったところで、四畳半一間。うっすらと厨《かわや》の臭いがした。それでも、井戸が近いから水汲みは楽だと宇佐は言った。  お米はここ、水瓶はこれ。煮炊きにはお隣の七輪《しちりん》を借りること。暮らしのこまごまとしたことをひととおり教えてもらい、いろいろ手伝ってくれと言われて、ほうは心がほっとした。あの親分と呼ばれる人の家と違って、ここでは働いていいらしい。  宇佐は、土間と座敷をひとつの箒で掃いているらしい。ほうが驚いてしげしげと箒を見ていると、宇佐はきまり悪そうに赤くなって、ひとつ買ってもいいよとおあしをくれた。  繕いが要りそうな着物が何校かあるが、針仕事の道具はない。お隣のおばさんに頼んでやってもらってるんだという。じゃ、お隣で道具を借りていいかと訊くと、 「あんた、お針できるの?」 「繕いぐらいならできます。しずさんに教わりました」 「そんなら頼むわ」  それから宇佐は壁に貼った暦をにらむと、そういえば今日は辰の日だよねと言った。 「あたし、暦はまだ読めません」 「あ、そうか。だけど読み書きは?」 「ひらがななら、少しできます。若先生が教えてくださいました。けど、あたし覚えが悪かったです」 「そんなの、あたしも一緒だよ」宇佐は笑って、「辰の日には、啓一郎先生、柵屋敷に往診にいらっしゃる決まりだよね」  確かに、若先生は月に何度か柵屋敷に往診に出かけていた。 「三件くらい、往診先があるんだ。あたし知ってる」宇佐は一人で納得して、水瓶をのぞいて手早く髪をいじった。そしてばたばたと出かけていった。  ほうは一人になった。部屋を見回す。  けっこうな埃だ。お布団も長いこと干してない。いろいろやることがありそうだ。  心の奥で、何かがほっこりと緩んだ。さあ、働かなくては。ここなら働ける。  だからその前に、おまんまにしよう。ほうは懐から、出がけに嘉介親分のおかみさんが包んで持たせてくれたおむすびを取り出した。      四  どうやら、尾《つ》けられているようだ。  柵屋敷を出て外堀を渡り、家へと戻る緩やかな坂道の中程で、啓一郎は気がついた。  道の両脇に転々と立ち並ぶ家々の板塀と、隙間を埋める雑木林の色のなかで、白い小袖がよく目立つ。尾けているというよりは、後をついてきていると言った方が正確かもしれない。  右手に提げた薬箱を持ち直しながら、ゆるゆると、啓一郎は足を緩めた。相手が間を詰めてくるようならば、振り向いて声をかけよう・・・・ と思ったのだが、しばらく行くと、半町足らず先にちらりと、また別の人影が見えた。明るい陽を浴びて、間違えようのないあの髪の結い方は、宇佐である。まだこちらには気づいていないようだ。  啓一郎は立ち止まり、ゆっくりと何歩か後戻りをしながら、白い小袖に呼びかけた。 「美祢殿。私に御用ですか」  白い小袖の主が、びくりと飛び上がった。小づくりの顔が、板塀の陰からそろそろとのぞいた。  啓一郎は穏やかに続けた。「この先に、私のよく知っている番小屋の者がおります。私が往診から戻るのを待っているのでしょう。火急の用件かもしれませんが、いずれ美祢殿が関わりをお持ちになるような身分の者ではありません。早く立ち去られた方がよろしいでしょう」  梶原家の美祢は、おずおずと目をあげた。小柄で肩が薄く、はかない風情の娘である。 「啓一郎さま」と、口を開いて呼びかけた声には、幼子のそれのように甘く寄りかかる響きがあった。 「お話をしたいことがございまして、失礼を承知で後を追いかけて参りました。お許しくださいませ」  啓一郎は黙っていることで先を促した。美祢はおろおろと目を泳がせる。 「わたくし……啓一郎さまはわたくしのことをどんなふうにお考えかわかりませんが」  深い胸の底から、怒りと嫌悪がじわじわとこみ上げてくる。琴江の優しい笑顔がちらりと脳裏をよぎる。しかし啓一郎は表情を変えなかった。口調も穏やかなままだった。 「美祢殿のお話は、この様な場所の立ち話で済むような事柄なのでしょうか」 「いえ…あの……」 「仄聞《そくぶん》するに、梶原家では数日来、美祢殿の外出をお止めになっておられるそうですね。どういうご事情かは知らないが、いずれにしろ、このように歩き回っておられては、お叱りを受けるのではありませんか」 「わたくし…」  美祢はつと袖で口元を押さえ、目をしばたたかせて、やっと言った。「啓一郎さまは、保田さまのお座敷に往診にいらしたのでございましょう?」  さすがに、啓一郎は自分の頬が強ばるのを感じた。口元を引き締めて、それを押し隠す。 「保田の新之介さまは大坂でお怪我をなさって、今朝の早船でお帰りになったとうかがいましたの。お加減はいかがなのでしょうか」 「さあ、存じません」  あっさりと応じて、啓一郎は、自分の声が震えていないことを祈った。 「確かに柵屋敷からの往診の帰りですが、これは辰の日の決まりです。私は保田家の係りではありません」  薬箱をちょっと持ち上げて見せ、 「匙の家とはいえ、私はまだ無足医の身分です。だから中間の一人も従えず、こうして薬箱も自分で持ち運んでいる。このような軽輩の医師が、御船奉行を務めておられる保田家のような重臣の家に出入りするわけがありません」 「では、舷洲先生がいらしたのですか?」 「父のことは、私にはわかりかねます。匙が呼ばれて脈を診るということは、そのまま藩の内政に関わる大事。親子といえども、軽々に口にすることではないのです」  しおらしくうなだれたが、美祢は明らかに不満そうだった。つま先がそわそわと動く。焦れているのだろう。 「わたくしは……てっきり啓一郎先生が新之介さまを診にいらしたとばかり思っておりました」  なぜそう思ったのだ。啓一郎の内なる声が、尖り哮《たけ》って喉元で暴れている。保田新之介が琴江のいいなすけの許婚者だったからか。負傷して帰藩した彼に、何をおいても真っ先に、琴江が死んだことを報せるのが、残された兄の役目だと考えたからか。  そうだ。実際に、啓一郎は保田家を訪ねた帰りだった。新之介に請われて、医師としてではなく、やがて彼の義兄になるはずだった者として、密かに訪ねたのだ。しかし、そんなことを美祢に言わねばならぬ義理はない。  そもそも、美祢が真に知りたがっているのは、啓一郎が、琴江の死の真相を、新之介に伝えたかどうかということなのだろう。本当のことを、新之介に言いつけたかどうかを知りたがっているのだ。  言うはずがない。言えるはずがないのに。  父舷洲は、啓一郎に言った。隠し通すということは、嘘を通すということだ。真実のことが、まったくなかったかのようにふるまわねばならない。嘘は嘘、真実は真実と分けて、相手を選んで真実を告げるというような半端なことを、けっしてしてはならない。一人の耳に真実が入れば、いずれは十人の口にのぼる。その十人のロから回り回って、幕府の密偵の耳にも届いてしまうかもしれぬ。それでは隠す意味がない。  よいか、啓一郎。だから、たとえ当の美祢に問われたとしても、おまえはこう答えねばならぬ。  琴江は心の臓の病で急死したのです、とな。真実は揺るぎようがない。梶原の美祢が琴江を手にかけたのだ。我々はそれを知っている。今さら美祢を詰問する必要はない。その上で、隠し通すと決めたのなら、作り上げた嘘を、おまえが真っ先に信じ込まねばならぬ。  啓一郎は静かに美祢の顔を見つめた。言葉にできない思いを込めて。我々は貴女のしたことを知っている。知っているが、まさにあなたが目論んだとおりに、それを表に出すことはできなくなった。そのことも、貴女は知っている。貴女は勝った。勝ち際は綺麗に引くものだ。深追いをするものではない。  美祢はうっすらと微笑を返してきた。 「失礼いたしました」と、深々と頭を下げる。「わたくしは保田の新之介さまとは遠縁にあたります。幼なじみでございますの。子供のころは、一緒になって遊びました。ですから、お怪我をなさってお帰りになったという噂を聞いて、つい心配ばかりが先走ってしまったのです」  頭をあげたときには、笑みは顔いっぱいに広がっていた。が、すぐにそれが消えて、美祢の形の良い眉が歪んだ。啓一郎の背後を見ている。  振り向くと、二、三間離れたところに宇佐が立っていた。啓一郎と目が合うと、まるで男の引手たちがするように、両膝に手を乗せて腰をかがめ、挨拶をした。 「わたくしはこれで」  美祢は言い残し、くるりと背中を向けて柵屋敷の方へ歩き出した。逃げるような早足に、初めて狼狽の色が浮かんでいた。罪ある者は、追われずとも逃げる。琴江の死の夜、父が呟いた言葉が、ふと啓一郎の頭をかすめた。 「宇佐は忍び足が上手くなったのだな」と、啓一郎は微笑んだ。「いつの間にか後ろにいた。まったく気づかなかった」  にこりともせず、美祢が去った方向に目を据えたまま、宇佐は応じた。「もともと、薮のうさぎです。雑木林のなかを、音もたてずに跳ねるんです」 「なるほどな」 「若先生」宇佐は啓一郎を見た。「今のが、梶原の美祢さまですね?」  ただ名を問うている尋ね方ではなかった。宇佐の目は底光りし、口元を食いしばっている。  琴江の死の真相を隠す嘘を作り上げるために、啓一郎は父舷洲と、家の者たちと語らった。公事方の役人たちと語らった。渡部一馬と語らった。それで済むはずだった。だが、勘定外と甘く見ていたほうが本篠寺で騒ぎを起こしたために、香坂家の泉と、西番小屋の嘉介をも巻き込む羽目になってしまった。  さらに嘉介から、ほうを西番小屋に運んだとき、宇佐ともう一人、花吉という若い引手がその場に居合わせたと、啓一郎は聞いた。二人にはきつくきつく、ほうは幻を見たのだ、ほうが何を言っても、それはうわ言だと言い聞かせておきました、ですからご心配ありませんように ——— と。  だが、この宇佐の表情を見る限り、それは嘉介の空手形のようである。 「なぜ、そんな怖い顔をするのだね」啓一郎は尋ねた。「まるで梶原の美祢殿が、おまえの仇敵ででもあるかのようだ」  宇佐は一度だけ、素早くまばたきをした。眼の底に怒りの刃が見える。今のまたたきは、まぶたの動きではなく、その刃の閃きだったのかもしれない。 「仇でございますよ、若先生。違いますか。宇佐は間違ったことを申していますか」  啓一郎は答えず、足元に目を落とした。 「歩こう」  宇佐の脇をすり抜けて先に立った。宇佐は身を固くして突っ立っていたが、すぐ踵《きびす》を返してついてきた。  雑木林のなかで、甲高い鳥の声がする。風が吹いて通り過ぎ、木々の枝が鳴って静まる。 「あのような作り話では、おまえを納得させることなどできないとわかっていた」  前を向いて歩きながら、啓一郎は言った。宇佐は蹄《つまづき》きそうになってよろめき、それから急いで啓一郎に並んだ。すがるような目をしている。 「やっぱり、やっぱりそうなんですね。琴江さまは心の臓の病なんかじゃなかった。ほうは本当のことを言っていたんですね?」  そのとおりだよと、啓一郎は認めた。宇佐は急に足を止めた。今度はなかなか追いついてこない。距離が開いてしまう。啓一郎は立ち止まり、振り返った。  宇佐は棒立ちになったまま、両手で顔を隠して泣いていた。  啓一郎は三歩戻り、宇佐に近づいた。宇佐は顔を覆ったまま頭を下げる。すみません、すみませんと坤く。 「謝ることはない。琴江を悼んでくれてありがとう」  宇佐は顔を上げた。頬は涙で濡れ、目が真っ赤だ。本当にうさぎの化身のようだ。 「あたし、考えました」  泣きじゃくりをしながら、宇佐は言う。 「若先生や井上家の皆様が、悔しい思いを殺して、琴江さまが病で死んだとおっしゃっているのは、美祢さまの梶原家が、御牢番を務めておられるからなんでしょう」  宇佐は鋭い。この娘の聡いことを、啓一郎はよく知っているし、その聡さを伸ばすために、いくぱくかの助力もしてきたつもりだ。それでも目を瞠《みは》った。 「今こんな時期に、御牢番を務める、大切なお役目を務める方の家から人殺しが出た。そんなことが世間に広まったら、丸海藩は大変なことになってしまう。だから、本当のことを隠しておかなくちゃならないんですね」  理解してくれているのだ。啓一郎は言った。「どこでどんな目が光っているかわからないからね」  宇佐は袖でぐいぐいと顔を拭った。「いつか若先生はおっしゃいました。嘉介親分が、加賀さまお預かりに間違いがあると、丸海藩はお取り潰しになりかねないって言ったら、それはうがち過ぎだって。でも、本当はその心配があるんですよね? 加賀さまお預かりは、丸海藩にとって、それほどの難事なんですね」  啓一郎は懐紙を取り出し、宇佐に手渡した。宇佐は恥ずかしそうにそれで洟《はな》をかんだ。 「もともとはそれほどの難事ではないはずの事柄が、様々な思惑がからんで、どんどん膨れ上がっているだけなのだけれどね」  宇佐は丸めた懐紙を懐に押し込んだ。 「若先生も舷洲先生も、どんなにかお辛いのに、我慢をしておられます。あたし、けっしてそのお邪魔はいたしません」  まだ泣き声だが、口調はきっぱりとしていた。 「ですから、二度とこのことで、若先生を煩わせるようなことはいたしません。かたくお約束いたします。でも、いっぺんだけ、どうしても本当のことを確かめておきたかったんです。だからこんなとこで待ち伏せなんかして、失礼なことは重々承知の上でした。お許しください」  身を二つに折って頭を下げた。啓一郎はその背中を軽く叩いた。 「いいんだよ、宇佐。私も、おまえには本当のことを話したい、その方が気が楽だと思っていた。おまえは琴江と親しんでいてくれたし」 「あの、若先生。あたし、ほうと一緒に暮らすことにしました」  驚く啓一郎に、宇佐はちょっと笑顔になって、これこれこうでと経緯を話した。 「そうか……」啓一郎は微笑んだ。「あの子にとっては、おまえといる方が幸せかもしれないな。よろしく頼む」 「はい。あたしでは至りませんし、琴江さまや若先生のようにあの子を教えることなんか、とうていできやしません。でも、せめてほうに淋しい想いをさせないように、一生懸命務めます。とてもいい子ですね」  井上家の方に向かって、二人はゆっくり歩き出した。陽盛りの道に、雑木林がまだらな影を落としている。 「ほうには済まないことをした」  啓一郎の言葉に、宇佐は首を振る。 「若先生がそれをお気になさることはありません。若先生の責任ではないんですから」 「いいや、宇佐。私の責任だよ。井上家の責任なのだ」 「仕方なかったんです。他に方法がないんだもの」宇佐の声がきゅっと高くなる。「だいいち、いちばん悪いのは梶原の美祢さまじやないですか!」  罵るように言ってしまってから、はっと口元に手をあてた。そろそろと啓一郎の横顔を見上げる。 「若先生。こんなこと、あたしがお伺いするべきことじゃないのはわかっているんですけれども・・・・・・」 「何故、ということだね」啓一郎は先回りした。「なぜ美祢殿が琴江を手にかけたのか、その理由は何なのかということだろう」  宇佐は口を一文字に結び、うなずいた。  啓一郎は言葉を選んで考えた。結局、ごく直截《ちょくせつ》な言い方をした。「恋敵、だな」 「は?」 「琴江には縁談が起こっていた。良い縁組で、話が進んでいた」  戸惑ったように曇っていた宇佐の目が、にわかに晴れた。「じゃ、さっき美祢さまが話していた新之介さまとかいうお方が・・・・・」 「なんだ、それも聞こえていたのか」 「申し訳ありません」宇佐は首を縮めた。 「そういう次第だ」きりをつけるように言って、啓一郎はひとつ息を吐いた。「宇佐も年頃だ。少しだけでいい、美祢殿の気持ちも察してやってはくれないか」  できません、と、宇佐は斬り捨てるように言い切った。あわてて頭を下げる。 「す、すみません」 「勘弁できないものか」 「若先生だって、できませんでしょう」  できるわけがない。できないものを封じ込めているのだ。だが啓一郎は答えず、かわりに、諭すような口調を保って言った。 「私や井上の家の者のことは、もう案じてくれるな。おまえに心配してもらわなくても、何とかなってゆくだろうから」  宇佐はうなだれて、啓一郎から少し遅れた。坂を登り、坂を下る。黙って歩く筋道の先に、井上家の塀が見えてきた。 「宇佐は、私を怒っているのだな」  啓一郎は言った。宇佐がぎくりとする気配を感じる。 「琴江の仇を討とうともせず、あれを手にかけた女が目の前に現れても、非難もせず知らぬ存ぜぬの顔をして、嘘を通そうとしている。責められても仕方がない」 「と、とんでもない!」宇佐は飛び上がらんばかりになって、啓一郎の顔をのぞきこんだ。袖にすがりそうになって、あわてて手を引っ込める。 「違います! あたし、そんなこと考えていません。あたしはただ、ただ ——— 若先生のお悲しみを ——— 少しでも ——— 」  哀れなほどうろたえている。いつも元気よく立ち働き、笑顔を絶やさないこの娘のこんな顔を、啓一郎は初めて目にする。  それも胸が痛い。 「申し訳ありません。出すぎたことを申し上げました」  今にも地面に手を付きそうな様子の宇佐を、啓一郎は押し留めた。「いいんだよ、宇佐。済まない。おまえにも、本当に済まないと思う。謝らねばならないのは私の方なのだ」  嘘をつき、嘘を護るというのはこういうことなのだ。啓一郎は辛かった。父や、家の者たちといる時よりも、今がいちばん辛かった。自分でも思いがけないほどに、宇佐の目を見るのが辛かった。  自分の肩が落ちるのを感じた。 「宇佐、我が家の女中のしずを知っているな。おまえの顔を見ると、何が気にいらぬのかガミガミ怒ってばかりいる」 「あ、あたしが不調法だからです」 「そのしずが、つい昨日だ、こんなことを言っていた」 —— 梶原の美祢さまを許すなんてことは、けっしてできません。できやしませんよ、若先生。でも、このまんまじゃ息をするのも苦しくて、毎日毎日が責め苦のようだから、自分をごまかすことにいたしました。 「ごまかす?」宇佐は首をかしげる。 「美祢殿は、自分の意思で琴江を手にかけたのではない。恋の苦しみで心が弱っていたために、悪いモノに憑かれて操られ、琴江に毒を盛ったのだと思うことにしたのだそうだ」  悪いモノ・・・・・ 「加賀さま、ですか」  一度、二度と、啓一郎は深くうなずいた。頬が強張る。もう少し優しい笑顔を浮かべたいのに、上手くいかない。 「なにしろ、毒を盛るという手法が加賀殿と同じだ。琴江の死を目の当たりにしたとき、金居はとっさに、まるで加賀殿の所業をなぞったようだと言ったものだよ。しずもそこから思いついたのだろう」  井上家がどんどん近づいてくるので、啓一郎は足を緩めた。 「涸滝のお屋敷で大勢の怪我人が出たときも、あたりが血だらけであまりにむごたらしい有様なんで、やっぱり加賀さまの所業に似てるって、騒ぎになったそうでした」 「人の考えることに、大きな差はないね」  少し迷うように口をつぐんでから、宇佐は啓一郎の横顔に言った。 「香坂の泉先生から伺ったんです。江戸で、加賀さまがどんなふうに言われていたのか」  鬼だ、悪霊だ。加賀さまの鬼が来て、子供をさらってゆくぞ ——— 「今の公方さまは、悪霊とか鬼とか崇りとか、そういうものをたいそう怖がっておられるのだそうですね。だから加賀さまを死罪にせずに、流罪にしたんだって。生きているうちから鬼や悪霊みたいな加賀さまが、本当に死霊になって、もっともっと怖い、手に負えないモノになったら大変だから」 「生きているうちならば、他所の土地に流して押し付けることもできる。その土地で悪霊が暴れたならば、それは悪霊を封じることに失敗したその土地の者の責任である」  啓一郎は言って、軽く笑った。 「丸海はそういう貧乏くじを引いたことになるわけだ」 「でも若先生、それはおかしいですよね?」  歩きながら、宇佐は両手をきつく握り締めていた。訴えるようなまなざしが、まぶしく啓一郎を射る。 「人が悪いことをするのは、自分の勝手でするんですよね? 悪霊だの鬼のせいなんかじゃありません。若先生は、あたしにそう教えてくださったじゃありませんか」  宇佐の言うことは正しい。確かに彼が、そういうものの考え方を、宇佐に教えてきたのだ。  彼は宇佐に、折に触れて医学のことを話してきた。屈託なく、世の中への好奇心に溢れているこの娘に、彼が学びつつある事柄について話すのは楽しかった。筋道立てて己の考えをまとめ、世の中の事物を見極めることの大切さについて教えるのは楽しかった。  だが、それは間違いだったのかもしれない。この娘は野育ちのままでいた方が良かったのだ。私は余計なことをした。  啓一郎は苦い後悔を噛みしめる。 「加賀さまが鬼や悪霊だ、何か悪いモノに憑かれてるんだなんて、そんなふうに考えるのは間違ってるんですよ。そもそも、公方さまが間違っておられるんです。若先生、公方さまのまわりには、偉い方がいっぱいいるのでしょう? 公方さまのお考えが間違っていたら、それは間違いでございますって、申し上げられる方がおられるのでしょう? どうして、そんなふうにしてくださらないんだろう。どうして、そうならないんだろう。加賀さまがちゃんと死罪になるのなら ——— 流罪になるにしたって、ただの罪人として流されてくるだけなのなら、丸海藩はこんな辛い思いをしなくて済むんじゃありませんか」  啓一郎は思った。それならば、本当に、どんなにいいだろう。この海のように、遮るもののない場所を、真っ直ぐに、正しいことだけを追いかけていかれるのならば。 「残念ながら、そうはいかないのだよ。宇佐」 「若先生・・・・・・・」 「おまえの言うとおり、将軍家が間違っておられたとき、それをただす役割を果たす人びとは、確かにいる。だが今度のことばかりは、その人びとをあてにすることはできない」 「どうしてですか?」 「以前に話したね? 加賀殿にまつわっては、我々には窺い知ることのできない複雑な事情がある、と」  遠い江戸のことながら、それでも啓一郎は知っているし、察してもいる。幕閣のなかには、船井加賀守守利に生きていてもらっては困る者もいれば、死なれては困る者もいる。死なれては因るが、しゃべられても困るという者もいる。彼が生きながら悪霊や鬼の類に堕ちてくれた方が都合がいいという者もいる。  そしてもちろん、将軍家斉が、悪霊や崇りを恐れれば恐れるほど具合がいいという思惑を持つ者どももいる。 「その複雑な事情を逐一知ることはできないし、またその必要もない。知ったところでどうすることもできないのだからね。ただひとつ確かなことは、我々丸海に暮らす者どもは、最早この課役から逃れようがないということだ。そして、失敗は許されぬということだ。加賀殿を確かにお預かりし、粛々とお守りしてゆくしかない。何が起ころうと、どんな苦役を忍ばねばならずともいくつもの秘密を抱えることになろうとも」  宇佐の声が、怯えるように震えた。 「それほど大変なことなんですか」 「それほど大変なことなのだよ」啓一郎は言った。「お上の目から見れば、我々は汚れ役だ。それをまっとうするよう求められている」 「でも若先生は、加賀さまお預かりを仕損じたからといって、丸海藩がお取り潰しになるような心配はないっておっしゃったじゃないですか!」 「それを咎として潰されることはないだろう。だが、結果として潰れるということは大いに有り得る。宇佐は賢いから、その違いはわかるね? しかし、行き着くところは同じだ。多くの藩士が路頭に迷う」  宇佐は両手で頭を押さえた。 「宇佐、済まない。済まないが頼む」  啓一郎は面を上げ、額の風を感じて目を細めた。そしてもう一度頭を下げた。 「得心がいかずとも、いっそおまえも、加賀殿は鬼だ、悪霊だと思いこんでみてはくれないか。丸海に鬼がやってくる。災いを運んでくる。邪なことや災いが起こったら、それはすべて鬼のせいだ」  宇佐がぽつりと呟いた。「一緒に泉先生からお話を聞いた花吉は、そんなようなことを言い出してます —— 」  花吉は、魂よく千里を行くということまで言ったと、宇佐は話した。啓一郎はそのとおりだと静かに応じた。 「おまえも花吉に倣ってほしい。信じれば、嘘も真実になる。嘘を嘘と知りつつ信じたふりをするのは辛いが、本当に信じてしまえば、ずっと楽だ」  卑怯を承知で、さらに付け加えた。 「その方が琴江も救われる。私も救われる」  宇佐は答えなかった。ただ啓一郎を見つめるだけだった。それでも、宇佐が約束どおり、もう二度とこのことで彼を煩わせはしないであろうと、啓一郎にはわかった。  宇佐と別れ、一人で帰宅すると、啓一郎はすぐ診察室にこもった。琴江の声がしないこと、薬研《やげん》を使う音も聞こえず、軽い足音も着物に焚きしめた香の香りもないことに、まだまだ慣れることはできない。妹を失った痛手はあまりに大きかった。  だが今はそれよりも、しなければならないことがある。  加賀殿お預かりが決まって以来、彼は日誌をつけていた。ここ数日で、その記述は急に長くなった。今も、薬棚の一角に隠してあるそれを取り出して広げ、ゆっくりと墨を擦りながら、書き留めておくべきことを頭のなかでまとめた。  保田新之介は、昨夜未明、船井加賀守が丸海に渡る船を待って逗留している大坂の脇本陣で、刺客に遭ったと語っていた。  無論、それは藩の加賀殿お迎えの役方として、正式に認められる見解ではない。表向きには、保田は加賀殿警護の大切なお役目に就きながら、脇本陣外でささいなことから私闘に及び、手傷を受けたということになっている。その咎により任を解かれ、急ぎ丸海に帰されたのだ。  新之介は己の立場をよく承知していた。刺客に遭った話など、いったい誰が聞き入れてくれるものか。加賀殿に刺客を近づけてしまったという不始末を、どうして丸海藩が認められよう。  ここでも嘘が真実を押しのける。そうでなければ、新之介の命はない。 「私はおとなしく謹慎しているつもりです」  と、新之介は語っていた。 「ただ、琴江殿には嘘をつきたくない。私は私闘などしていない。本当は何があったのか、琴江殿には知っておいてもらいたかった。だから兄上に来ていただいたのです」  しかし、啓一郎はその新之介に、琴江が死んだことを告げなければならなかった。  − 刺客。  啓一郎は筆をとった。  − どの勢力が放ったのか。何処から忍び寄ったものなのか。  内なのか、外なのか。  鬼、悪霊と呼ばれる男の命を狙う、本当の邪な力は、今どこまで迫っているのか。      五  昨日は早太鼓が鳴ったかと思えば、今朝はまた早々から、番小屋の頭衆が町役所に呼び出され、集まることになった。  やがて、何事かと待ち受けていた西番小屋の宇佐たちのところに帰ってきた嘉介親分は、町役所から下されたという御触書を手にしていた。 「午《ひる》の鐘と同時に、大手門前にもこの御触書が掲げられる。塔屋の連中には字の読めねえ者もいるから、おまえらこれから手分けして一軒一軒回って、ここに書いてあることをみんながちゃんと守れるように、かみ砕いて教えて歩くんだ。てきぱきやらんと間に合わないが、なにしろ大事なことだ、万にひとつも手抜かりがあったら、首が飛ぶ。しっかりやってくれよ」  引手たちは額を寄せ合って御触書を読んだ。達筆の書役が、すぐに写しをつくり始める。  明後日の朝、いよいよ加賀殿が丸海に入られることが決まった ——— という。  前夜に大坂港を発ち、一晩の船路で夜明け前に丸海港へ。そこで小舟に乗り換え、町の西を走る堀を進んで、明ノ橋で下船。涸滝の屋敷への道を登るという行程である。  その日は、夜明け前に早太鼓が鳴り、その後は、町役所から別段のお触れがあるまでは、時の鐘を含め一切の鳴り物を禁ず。町屋塔屋商店の類は表戸と窓を閉め切り、街路に出ることも厳禁。煮炊きを含め、火の気、煙もたててはならない。塔屋では染料の釜の火も落とすべし。これには宇佐も驚いた。塔屋で紅貝染めの染料を煮る釜は、盆でも正月でも火を消すことがないのだ。染めにかかる前に冷ましてしまうと、染料に濁りが出るからである。 「窓を開けちゃならん、外へ出ちゃならん」  花吉が恐れ入ったように坤いた。 「こりゃまた念がいってる。加賀さまの行列を、ひと目だって見ちゃならねえということなんですね?」 「そうだ。町筋だけじゃねえ。港じゃ船を陸へあげて、網も浮玉も片づけて、桟橋は洗って浄める。明日は大騒ぎになるだろうよ」  嘉介親分は厳しい顔でそう言ったが、すぐにつと頬を緩めると、 「なぁに、手違いなく進めば、半刻ぐらいで済むことだ。町役所からお触れが出れば、あとはもう俺たちには委細関わりがなくなる。町場の暮らしはすぐに元通りになるよ。嵐でも来たと思えばいいことだ」  加賀殿は畏れ多くもこの丸海藩がお上からお預かりする流人ながら、この到着を謹んでお迎えすることは、けっして物忌みにはあらず。くれぐれも、軒下に日笊《ざ る》・魔よけの類をかけることのないよう。街路に樽や荷車など、往来を邪魔し、目に見苦しき品を放置することのないよう。御触番は細かい。  宇佐は、加賀さまが通る道筋を思い描いてみた。明ノ橋というのは、先に涸滝の屋敷で竹矢来が倒れたとき、宇佐が、それを報せに駆け下りてきた藩士とすれ違った場所よりも、もう少し北寄りにある。きわどい差で、この西番小屋の預かる町筋からは逸れている。少しだけほっとした。 「塔屋じゃ、釜の火を落とすのを嫌がるでしょうね」と、古参の引手が苦い顔で言った。 「だから、そこを言い聞かせるのがおまえらの仕事だ」 「子供らがじっとしてるかなぁ」 「お触れを破れば打ち首だと聞けば、みんなおとなしくなるさ。それに・・・・」  嘉介親分は引手たちを見回し、 「町場の者たちは、加賀さまを怖がってるからな。言いつけには従うだろうさ」  親分は、指でこめかみのあたりをほりほりとかいた。 「加賀様お預かりが決まったときから、これについて噂をしちゃならんと、あれほどきつく言い含めてきたのに、人の口には戸を立てられねえと、昔の人はよく言ったもんだ」  引手たちは、それぞれに後ろめたいところを持っているのか、一様に目を伏せた。宇佐もそうせずにはいられなかった。 「加賀様の江戸での所行がどんなものだったのか、もう子供でも知ってる。おかげで大評判だ。あれは鬼だ、悪霊だ。おまえらも耳にしてるだろ?」 「へえ……」と、花吉が頭をかいた。「俺たちは、親分の言いつけを守ったつもりなんですよ。だけど、ホントにみんな早耳で」 「俺もおめえらを責めてるわけじゃねえ。今じゃむしろ、そんな悪い噂があるから、いよいよ加賀様が来るという段になっても、余計な騒ぎが起こらなくて、かえって良かったかもしれないと思ってるよ。みんなして怖がってりや、どれどれ、ひとつ加賀様のお顔を拝んでみようなんていう野次馬根性を起こしたりもしないだろうからな」 「どのみち、顔は見えないでしょう。お駕寵はぴっちり戸を閉めてるはずだ。流人ですからね」 「そういう意味で言ってるんじゃねえよ」嘉介親分は、ぴしゃりとやりこめた。  宇佐はぼんやりと心を泳がせ、井上啓一郎の言葉を思い出していた。彼が宇佐に頭を下げて頼んだことを思い出していた。  ——— いっそおまえも、加賀殿は鬼だ、悪霊だと思いこんでみてはくれないか。  結局のところ、加賀様について噂をするな、詮索するなというきついお達しが効力を発揮することはなかった。逆の目に出た。禁じられれば興味がわく。誰だってそうだ。  嘉介親分は・・・・ いや、町役所はそれを見越して、最初からこうなることを目論んでいたのではあるまいか。宇佐にはそうとしか思われない。今こうして (まったく、しょうがねえなぁ)という顔をしている嘉介親分だって、おなかのなかでは啓一郎先生と同じように考えているのだから。  それがお上の——将軍家の、幕府の偉い人たち——が望んでいることだから。悪霊となった加賀さまが、この丸海に封じられることが。  だけど、それで丸海の人びとはどうなるのだ? これから先、ずっと加賀さまという悪霊を抱えて暮らしていけというのか? 「港の方でも、いろいろ噂が立ってますよ」と、引手の一人が言った。「どだい、船乗りは迷信深いですからね。加賀さまが丸海に来ると、魚が逃げるんじゃねえかって」 「実際、ここんとこ不漁のようだぜ」 「そりゃ、みんながそわそわしているからさ」  宇佐は顔を上げて、親分に言った。「あたし、昨日の早太鼓のとき、潮見のおじさんのとこに行ってきたんですけど、おじさんは、加賀さまが悪霊だの鬼だのなんて、くだらない作り話だって言ってました。生きてる者は、悪霊にも悪いモノにもなれないって」  嘉介親分は表情を変えなかった。むっつりとしているだけだ。 「そうして、堀外の引手が港のことに首を突っ込むなって、あたしを叱りました。だけどあたしは ——— 潮見のおじさんがわざわざそんなことを言わなきゃならないのは、港や漁師町でも加賀さまの悪い噂が広がってるからじゃないかって思ったんだ」 「そういうことだよ。宇佐は鋭いな」花吉は大いに感心している。  宇佐は、さっと彼の方に顔を向けた。「あんたは信じてるんだよね。加賀さまはもう、生身の人じゃないって」  花吉はひるんだ。皆の顔色を、ちょっと窺う。「うん……」 「昨日、はっきりそう言ってたじゃないか」  宇佐は花吉より半歩前に出て、わざと嘉介親分だけを外し、皆に問いかけた。 「みんなはどうなんですか。やっぱり加賀さまは丸海に災いをもたらす鬼だって思ってるんですか」  男たちはなぜかしら軽く笑った。 「まあ、半信半疑だな」 「町の連中がそう信じてるとなると、厄介は厄介だけどさ」  嘉介親分は、笑みのかけらもないまま、切り返してきた。「そういうおまえはどうなんだ、宇佐よ」  宇佐の脳裏に、また啓一郎先生の言葉が蘇った。今度は顔まで見えた。宇佐に頭を下げているときの、あの悲しげに歪んだ口元まで、はっきりと思い出してしまった。  ——— それはすべて鬼のせいだ。 「あたしは…あたしも、ちょっと信じています」  身を縮め足元に目を落として、宇佐は答えた。もう、そう答えるしかない。頼まれたのだもの。 「だから、とっても怖い」と、宇佐はますます小声で付け加えた。 「なぁに、俺たち引手がいりや、大丈夫だ」 「宇佐、おまえも頑張りどころだぞ」  ぽんと背中を叩かれた。宇佐にはその仕草が、ひどくわざとらしく感じられた。 「厄介事は、まだあるんだ」  嘉介親分が低い声で言い出した。宇佐の思いこみだろうけれど、その口調は、内容にふさわしくなく満足げに聞こえた。 「加賀様が入ることになっている涸滝の屋敷なぁ。あすこにも、前々から因縁がある。そっちの方も、今になって蒸し返されてきてるんだ」 「ああ、浅木家の病の話ですね」  宇佐はため息をひとつついて、言った。 「あの屋敷に人が入ったので、眠っていた悪い気を起こしてしまったんじゃないかっていうことでしょう? あたしも聞きました」  そして、山内家の奥方の話をした。宇佐には意外なことに、驚いたのは花吉だけだった。他の引手たちは、それについて、宇佐よりもよく承知しているようなのである。 「涸滝の屋敷に憑いてるモノは、浅木家に憑いてるモノだけどさ、ただの病の気というわけじゃねえんだ。あっちも鬼なんだよ。もともとこの丸海の地にいた。古い古い鬼なんだ」と、古参の引手が、身振り手振りよろしく教えてくれた。 「つい最近、俺が聞き込んだ話じゃ、加賀さまお迎えで作事が入ったころから、あの屋敷のなかを、夜な夜な黒い影がうろつくようになったっていう話だぜ。頭に角の生えた、天井まで届きそうな大きな鬼の影がな。ときどき唸り声もするそうだ。商人や塔屋の織り子や、この目で見た、この耳で聞いたっていう連中が、何人もいる。そら、浅木様に憑いてる鬼が目を覚ましちまったぞってな」 「昔から丸海に棲みついてた古い鬼が、何だって浅木様にだけ崇るんです?」と、花吉が訊いた。  そんな由来よりも前に、町場の者が涸滝の屋敷に近づくことは禁じられているのに、どうして商人や織り子がそんなものを見たり聞いたりすることができるのか、そっちの方がおかしい。宇佐がそう言い返そうとしたとき、 「昔話だから、花吉と宇佐が知らなくても無理はねえんだ」  と、遮るように嘉介親分が割り込んだ。 「浅木家というのは、遠い先祖をたどると、日高山神社を奉じていた神官の家系なんだよ。畠山様が丸海の領主になる以前から、ずっとこの土地と、日高山の神様を守っていた家柄なんだ」 「へえ……そりゃ初耳だ」花吉は素直に目を丸くしている。「だってさ、日高山神社のご神体は、雷獣を倒した山犬でしょう?」  ご神体として祀られた後、この山犬の神は神官家の娘の一人と通じ、子供をもうけた。そしてその子に分家を継がせ、神官の地位から降りて弓矢を取り、丸海を治める代々の領主に忠義を尽くし、丸海を守ることを命じたというのである。それが浅木家の祖だ。  浅木家の祖は、この命によく従い、長い長いあいだ、丸海の人里を脅かす鬼や化け物を退治して、守護の役割を務めてきた。もともと地付きの郷士に過ぎなかった浅木家が、畠山家という外来の領主に篤く信頼されているのも、そういう謂れがあるからだと嘉介親分は語った。 「だから浅木家は、これまで退治してきた鬼や化け物たちからは、畏れられると同時に深く恨まれてるってわけだ」 「それが崇りになって憑いてるんですね」  花吉は大きくうなずいている。宇佐は訊ねた。「昔話はよくわかりましたけど、どうしてそういう鬼や化け物の恨みが、今の厄介事につながるんです?」  嘉介親分は、一瞬だけぐいと宇佐を睨んだ。それから、静かな口調で続けた。「悪いモノは、悪いモノを呼び寄せるんだよ」  長らく封じられてきた涸滝の屋敷の悪いモノが、加賀殿を招いたというのである。共に手を携えて、丸海に災いをなそうと企み、加賀殿の到着を今か今かと待ちかねて、動き始めたというのである。 「なるほど……」花吉は目を細め、考え深そうな顔をしている。思わず、宇佐は吐き捨てるような口調になってしまった。 「おかしいですよ。だったら何で、わざわざ加賀さまを涸滝の屋敷にお迎えするんです? 別の場所にすりやいいじゃないですか」 「バカだなぁ、宇佐」花吉が素早く言い返した。「別の場所って、いったい何処にそんな都合のいいところがあるんだよ」 「山を切り開いて、お屋敷を建てればいいじゃないの」 「あっさり言ってくれるよ。いったいどれだけの金と手間が要ると思ってるんだ? 畠山の殿様には、そんな余裕はねえんだよ」 「穢れには穢れをということだ」と、嘉介親分が言った。「悪いモノ同士がうち消しあって、潰れてくれるということもある」  ああ、そうそうと、花吉をはじめ皆がうなずく。宇佐は呆気にとられた。それが宇佐の求めている答えなのだろうか。お上もそれを望んでおられるのか? だからお上は、加賀さまを丸海に流したのか?  そういうことなのだ。宇佐は自分の問いに自分で答えた。今の公方様は、悪霊や崇りを、それはそれは恐れる方なのだから。恐れるということは、深く信じているということなのだから。  結局、宇佐たち丸海の者どもには、その考えを受け入れるしか、道はない。だったら、素直に信じてしまった方が楽だ。  啓一郎先生の言うとおりだった。 「宇佐よぅ」  気がつくと、花吉が不満そうに口をとがらせて宇佐を睨んでいた。 「おまえ、そんなふうに、ああバカバカしいってな顔してるけどさ。ちょっとひどいぜ」 「あたしは別に、バカバカしいなんて思ってないよ」  それは本当だ。琴江さまの死の真相に関わらず、ほうというあの女の子の必死の瞳をのぞきこむこともなく、何から何まで本当のことを知らずに、ただこうした一連の話を耳にしただけならば、宇佐だって何の疑いも持つことはなかったろう。  宇佐にしてみれば、自分と同じように琴江さまの死の真相を知りながら、いともたやすくそれを脇に除けて、美祢さまも加賀さまの毒気にあてられたんだなんて言い出して、これらの話を受け入れてしまうことができる花吉が、いっそ羨ましいほどだった。 「ホントに、バカにしてなんかいないよ」  花吉は引き下がらなかった。「してるぜ。顔に書いてある。だけどな、宇佐。おまえら漁師町の連中は、海の神様や化け物のこと、いつも話してるじゃねえか。自分の目で見てなくたって、話で問いてるだけだって、信じ込んでるじゃねえか。それなのに、俺たち堀外の町場の者が信じてる神様や化け物のことになると、頭っから受けつけねえってのは、ずいぶんだと思わねか?」  親分も含め、他の引手たちは苦笑いを浮かべている。それを自分への賛同ととったのか、花吉は勢いづいた。 「それって、所詮おめえは漁師町の者で、俺たちの仲間じゃねえってことだよな。おめえは掘外の引手にはなれねえよ。とっとと漁師町へ帰った方がいいな」  それぐらいにしとけと、嘉介親分が遮った。花吉はふんと鼻先を高くして、宇佐に背を向けた。 「さあ、おしゃべりはこれっきりだ。おめえら、ぱきぱきと働けよ。さっきも言ったが、ひとつ間違えば首が飛ぶ。笑い事じゃねえんだからな」  親分の太い声に、一同はへいと応じた。  皆が出払っても、宇佐は残れと言われた。  親分はしばらくのあいだ、宇佐の顔をながめて黙っていた。出方を考えているのか。  先回りして、宇佐は口を開いた。 「あたしなら大丈夫です。もう、余計なことはひと言だっていいやしません」  幕介親分は、ふっと両肩を落としてため息をついた。 「泉先生と話したそうだな」  知っているのか。宇佐はうなずき、 「昨日、井上の啓一郎先生ともお話をしました」と言った。 「そうか……」  親分は、年端のいかぬ男の子のように、指で鼻の下をぐいぐいとこすった。 「匙の先生方は、口が軽くて困る。口裏をあわせて嘘をつこうというのに、その嘘の裏側をおまえなんかにうち明けるとは」  本気で言っているとは思えなかったが、宇佐の心には刺さる言いぐさだった。 「先生方が悪いんじゃありません。あたしが強情だからいけないんです」 「そうだな」親分はあっさりと認めた。「頭ごなしに怒鳴られれば、はいそうですかとしおれるのが年頃の娘のいいところだ。おまえも少しは考えろ」  面白くはなかったが、宇佐は笑った。「これからはそうします」  嘉介親分は笑わなかった。「だったら、あの子を俺の家に帰せ」  ほうのことである。 「勝手に連れ出したろう。女房にもきつく叱っておいた。あの子は俺が面倒をみる。何か企んだのかもしれねえが、おまえにゃ無理だ」 「ほうをうちに連れてきたのは、別に企みがあってのことじゃありません。あたしにはそんな頭はないです。ただ、あの子が可哀相だったから」 「俺の家にいちゃ可哀相だっていうのか」 「おかみさんから聞いてないですか。お吉ちゃんが、あの子を気に入らないんです」  親分は初耳のようだった。顔をしかめる。 「何でだ? お吉はおめえのような強情娘じゃねえぞ」 「親分、ほうの機嫌をとろうとしてちやほやしたでしょう。お吉っちゃんはそれが面白くないんですよ。女の子の嫉妬《やきもち》です」  そういうことは、親分よりあたしの方がよくわかりますと言ってやった。  さすがに、親分も窮した。鼻の頭がちょっぴり赤くなった。 「おまえ、あの子を抑えられるか? 井上の琴江さまは梶原の美祢さまに毒で殺されたんだなんて、あの子が言いふらしたら大変なことになるんだぞ」 「わかっています」 「わかってるだけじゃしょうがねえ。どうするつもりなんだ」 「言い聞かせます。そんなことはなかったって。あんたが見たのは幻だって」 「ちゃんとできるか? あの子は阿呆だそうじゃねえか。大人の言うことがわかるかね」 「阿呆なら、言いくるめるのも易しいでしょう。あたしにだって何とかなりますよ」  宇佐の言葉を検分するように、口のなかでぷつぷつと繰り返してみてから、親分は言った。「井上のお家じゃ、あの子を江戸に帰そうとしておられるぞ」 「聞きました。でも、無駄ですよ。親分はあの子の身の上話を聞いてないでしょう? 江戸の家は、萬屋っていう結構なお店だそうですけど、丸海で置き去りにされた経緯からして、あの子を迎えに来るわけがありません」 「金比羅様への代参だそうじゃねえか」  そのくらいの話は知っているのか。井上家で聞いたのだろう。 「崇りを祓うためとかいう……」  言いさして、親分はロをつぐんだ。ほうの身の上にも崇りが絡んでいるという、皮肉な偶然を思ったのだろう。 「あんな歳の子を代参に寄越すなんて、本気のはずがありませんよ。そんなの建前で、本音はただあの子を厄介払いしたかっただけでしょう」  とにかく、ほうはあたしが面倒をみますと言って、宇佐は立ちあがった。 「みんなの迷惑にならないようにします。あの子は器用そうだから、暮らしに慣れて落ち着いたら、塔屋に預けてもいいと思ってます。織り子になれるかもしれません」  わかったというようなことを、嘉介親分はもごもごと言った。その暗い顔を背に、宇佐は番小屋を出た。 「今日明日は、あたしたちみんな駆けずり回らなくちゃならないから、親分、ずうっと番小屋で留守番ですね」 と、からかうように言い置いて。      六  宇佐はまっすぐ、自分の住まいに足を向けた。塔屋まわりをする前に、ほうの顔を見ておきたい。急に心配になってきた。  今朝会ったときは、嘉介親分の家にいたときよりは、いくぷん明るい顔をしていた。布団を干して、繕い物をしておくと言っていた。  長屋の入口にさしかかると、入れ違いに出てきた住人が、宇佐の顔を見て驚いたように目を見張り、袖をつかんで、 「宇佐ちゃん、あんたのところにお役人が来てるよ」と、早口で言った。 「お役人?」 「うん。町役所の。紅羽織を着てるもの」  宇佐は心の臓がどきんと跳ねるのを感じた。駆け足になった。  戸口の障子は閉まっていた。それだけでなく、雨戸も半分閉じている。丸海の町は海風が強いので、長屋の戸口にも雨戸があるのだ。 「ほう?」  呼びかけながら戸を開けると、こちらに背を向けて土間に立ちはだかっていた紅羽織が振り返った。  渡部一馬だ。ほうは、座敷の端に正座して小さくなっている。膝のまわりには、繕い物がいっぱい並べてある。 「渡部さま!」  恐怖が喉元までこみ上げてきて、宇佐の声が詰まった。とっさに思った。この人は、もしや、ほうを斬りに来たのか? この子の口をふさぐために? 「なんだ、おまえか」  渡部は物憂い口調で言い、すぐほうの方へ目を移した。宇佐はしゃにむに彼の前に割り込んだ。 「何の御用です?」  渡部は濃い眉をひそめた。琴江が死に、ほうが西番小屋に担ぎ込まれたときに会ったきりだが、ほんの数日のあいだに、げっそりと頬がこけていた。無精髭が浮いている。曇天を映す海のように、目がどろんと淀んでいる。 「用というほどのことでもない。どうしてほうがここにいるのか訊きにきたんだ」 「そんなら、あたしが申し上げます。この子を脅かさないでください」 「脅かす?」渡部はちょっと手を広げた。「俺は何もしとらんぞ」 「西番小屋では脅したじゃありませんか」  ほうは膝の上できゅっと両手を握りしめ、震えている。宇佐はそちらに身を乗り出した。 「ほう、お米が切れてるからね。買いに行ってきて。お米屋さんはわかるよね? わからなかったら、道で訊きな。おあしはこれ。ほら。入れ物は棚の上にあるから」  さ、お行き —— 手を引っ張り、せきたてて外に追い出した。  渡部は何も言わなかった。ただ、ほうをじっと見つめている。ほうが出ていった後も、戸口をながめていた。  宇佐はしゃんと背を伸ばし、町役人に向き合った。「今では、あたしも事情をよく存じております。けっして軽率なことはいたしません。ほうにもよくよく言い聞かせます。ですから、どうぞあの子のことはそっとしておいてくださいまし。お願いいたします」  切り口上に、渡部は面食らったのか黙っている。土間の真ん中に突っ立っている彼は、宇佐の小さな住まいでは邪魔なほどに大きく感じられた。 「事情を知っている?」  依然、眠たげな口調で呟いて、渡部はようやく宇佐の顔を見た。 「何をどんなふうに知ったんだ」  宇佐は喉をごくりと鳴らした。「あたしが申し上げなくちゃなりませんか」 「誰から聞いた」  少しためらってから、宇佐は泉先生と啓一郎先生の名をあげた。そして自分の知ったことと、今の考えを話した。宇佐はしゃべり慣れていない。話は行きつ戻りつした。それでも渡部は口を挟まず、途中で目を閉じてしまって、じいっと聞いていた。  宇佐が息を切らして口を閉じると、渡部は深々と息を吐いた。そして座敷の端、さっきまでほうがかしこまっていたところに、どっかりと腰をおろした。  そして目を開いた。白目が真っ赤になっていることに、宇佐は気づいた。 「宇佐、おまえはけっこう利口者だな」  抑揚のない声なので、褒められているのか皮肉られているのかつかみかねた。 「利口だ。俺よりずっと分別がある」  宇佐はどきどきする胸を片手で押さえた。 「心配するな」  渡部は宇佐を見あげると、口の端を下げて、かすかに笑った。 「俺はもう、ほうを怒ったり脅したりはせん。もちろん、斬りにきたわけでもない」 「それでは‥あの子に何を?」  震える声で訊ねた宇佐の顔から、また渡部の目がそれた。焦点を失ったようにぼんやりとしている。 「俺は、ほうに謝りにきたのだ」  思いがけない言葉だった。宇佐は解釈しょうとした。 「西番小屋で、あの子に大声を出したことをですか」  渡部は答えない。宇佐がそこにいることなど忘れてしまっているかのようだ。 「渡部さま」  え? と、まばたきをした。 「ああ……いやな、そうじゃない。謝らねばならないのは、もっと前のことだ。俺は、あの子におかしなことを言ってしまった」 「おかしなこと?」 「琴江殿が亡くなった直後のことだ。公事方が井上家に駆けつけて、俺もすぐに後を追った。手出しできないとわかっていても、啓一郎から報せを受けて、じっとしてはおられなんだ。それであの子を……ほうを、美祢殿を見たという薬草畑へ連れ出して、あれこれと聞き込んだ」  そのときに、頼んだのだという。 「俺は町役人だから、公事方のことには手出しができぬ。それでもこのままではおられんから誰か引手を頼んで何かをするかもしれん。そのときには手伝ってくれと」  宇佐は耳を疑った。 「そんな難しいことを、あんな……頑是無い子に?」 「おお、そうだよ」渡部はまたぐずぐずと崩れるように笑った。「俺はどうかしていた」  あの子は言われているほど阿呆ではないと、琴江殿から聞いていたからな —— と呟いた。 「ええ、それはおっしゃるとおりです。でも渡部さま、どんなに賢い子でも、そんな頼みは無理ですよ。大人にだって難しい」 「そうだな。おまえに頼めばよかったか」  笑う渡部の顔を、宇佐は見つめた。 「あたしなんかにも、手に負えることじゃありません」 「そうか。そうだろうな」  渡部は顎をさすった。無精髭がぞりぞりと音をたてそうだ。 「そんな益体《やくたい》もない頼みを子供の頭に吹き込んでおきながら、いくらも経たないうちに、西番小屋ではそれと正反対のことを言った。琴江殿は心の臓の病で亡くなった、美祢殿は井上家を訪れてはいない、おまえは見間違いをしたのだと決めつけた。ほうには済まないことをした」 「だから謝りに‥」  俺は小心なのだと、渡部は誰か他人をなじるような言い方で自分を評した。 「薬草畑でほうと話したときには、えらく勢い込んでいた。俺は何もわかっていなかった。手を尽くせば、真実を明るみに出せるとばかり思っていた」  だったら、つい昨日までの宇佐と同じだ。疑い、悩んでいた。本当のことを探り出し、大声で言いたくてたまらなかった。 「俺は事態を甘くみていたのだ」と、渡部は言った。「考えが甘かった。俺なんぞが一人でどう踏ん張ったところで、藩の意向には背かれない」  とんでもない思い上がりだったと、初めて、一瞬だけ怒りを露わにして言い捨てた。 「啓一郎に説かれて、やっと、その思い上がりから醒めたのだ。だが、ほうは裏腹な俺の態度に、さぞかし困ったろう。あの子の味方はどこにもおらん。だから謝って、これからはもうおとなしくしておれ、薬草畑で見たもののことは忘れろと言いにきたのだ」  胸の動博はおさまって、かわりに、静かな悲しみがこみあげてきた。宇佐は言った。 「ほうのことなら、あたしにお任せください。ちゃんと言い聞かせます」 「本当に、しっかりとわからせてやってくれろ」  渡部は真剣だった。目に光が宿った。 「そんなお顔をなさらなくても、ちゃんとします」 「おまえもまだまだ脇が甘い。命に関わるぞ。ほうの命も、おまえの命も」  宇佐はすっと寒くなった。渡部は、それを察したかのようにうなずいた。 「そうだ、命がけだ。おまえやほうの命など、加賀殿お預かりの一件の重さに比べるまでもない。ひとひねりだぞ、宇佐」  俺は小心者だと、渡部はもう一度言った。 「だから怖い。琴江殿にこんなざまを見られることがなくてよかったよ」  言いたいことを言ってしまうと、渡部は帰っていった。宇佐は、渡部が、彼の背負っていた何か汚くて重くて冷え冷えとしたものを、土間に残していったような気がして仕方がなかった。ほうが来てたったの二日で、見違えるほどきれいに片づけてくれたところだったのに、かすかな腐臭を放つものが、目には見えなくとも、確かに残されてしまったような気がしてたまらなかった。  その晩、並んで薄べったい布団に横たわり、枕に頭を乗せてから、宇佐はこんこんとほうに語り聞かせた。ほうの見たものは、ありはしない幻だったと。人は見間違いをすることもある。ほうはあの日、薬草畑で梶原の美祢さまの姿を見たと思ったかもしれないが、それは間違いだったのだと。  しかし、ほうはなかなか納得してくれなかった。言い返したりはしない。けれど、黙って天井を仰いでいる小さな顔は、どんどん頑なに強ばってゆく。  ほうは小声でこんなことを言った。「やっぱり、あたしは阿呆だから、そんな見間違いをしたんでしょうか」 「違うよ。それは違う。利口な人だって、見間違いをすることはある」 「だけど、ありもしないものを見るって、阿呆のすることじゃないですか」  いくら子供相手でも、いや、子供相手だからこそ、ただの見間違いだと押し切ってしまうことはできないのだ。宇佐は、自分が呑み込んだのと同じものを、ほうにも与えることにした。加賀さまは悪霊であること。その加賀さまが丸海に来ることを、涸滝の屋敷で待ちかねている、もうひとつの悪霊が丸海には棲みついているということ。 「だからね、ほう。あんたはたぶらかされたんだよ」 「たぶらかす」 「うん。そうだよ。加賀さまが来るんで、涸滝の屋敷で目を覚ました悪いモノが、丸海の人たちに仇をなそうと、琴江さまに目をつけて、命をとった。琴江さまは本当にお優しくて良い方で、だからこそ狙われたのかもしれない。それでも、涸滝の悪いモノは、琴江さまが亡くなったことをめぐって、あたしたちがたくさん悩んだり苦しんだりするように、あんたに美祢さまの幻を見せて、美祢さまが琴江さまを殺めたみたいに見せかけた。悪いモノは、人の心を操って苦しめるために、そういうことをするんだよ」  これからだって、まだまだ悪いモノは悪いことをするだろう。丸海の人たちを怯えさせ、困らせようと、いろんなことをするだろう。だからあたしたちは、気をしっかり持って、それを乗り越えていかなくちゃならないんだ。半ばは自分に言い聞かせるように、宇佐は話した。 「宇佐さん」消え入りそうな、小さな声だ。 「なぁに」 「そしたら、この世には悪いモノが本当にいるんですか」 「うん」 「丸海では、涸滝のお屋敷にいるんですか」 「そうだね。加賀さまも、明後日にはそこに入るんだから」  ほうが黙ると、夜風が鳴った。海鳴りも聞こえた。今夜は北風なのだ。こんな季節に、珍しいことだ。これもやっぱり、加賀さまのせいだろうか。いや、本当にそんな気がしてきてしまった。加賀さまは人外のモノだ。 「萬屋で、あたし」ますます細る声で、ほうは続けた。「おっかさんが崇りをなしてるって聞きました。あたしはそんなの、嫌だって思った。違うって思った。けど、悪いモノが本当にこの世にいるのならば、萬屋さんのお話も、嘘じゃないかもしれません。あたしが阿呆だからわからなかっただけで、それは本当なのかもしれません。あたしのおっかさんも、加賀さまみたいに、悪いモノになっちまったのかもしれないです」  哀れさに胸をつかれて、宇佐は何も言えなかった。しばらく風の音を聞いてから、やっとこう言うのが精一杯だった。 「何があっても、あたしが一緒にいるから、あんたは大丈夫だよ」  とうとう、加賀さまの船が着く ———  その朝、丸海の地は激しい雷雨に見舞われた。夜明け前の雷雨など、この土地でもきわめて珍しい。まるで、雷除けの霊験あらたかな日高山神社が、手強い敵の到来にひるんでいる証であるかのようにさえ思われた。  轟く雷鳴にかき消されそうな早太鼓が鳴ったとき、宇佐とほうはまだ横になっていた。雷が怖いなら、頭から夜着をかぶっているといいと宇佐は言った。どうせ外には出られないのだから。  自分も同じように布団をひっかぶった。しかし、心は外に飛んでいた。加賀さまはどこまで来たろう。今は港か、掘割か。明ノ橋に降りたか。この荒れ模様の空を、どんな目をして見上げるのだろう。江戸から遥か離れた鄙《ひな》の地である丸海の町を、どんな顔で見やるのだろうか。  宇佐は目を閉じ、すべてがうまくゆくように、すべてが早く過ぎ去るようにと、強く祈った。そしてその隣では、夜着の下に隠れながらも、ほうがしっかりと目を開き、雷と豪雨のなかを忍びやかに通過してゆく�悪いモノ″の気配を感じ取ろうと、耳を澄まし息を殺していた。             闇は流れる  加賀様が涸滝の屋敷に入ってしまえば、町場の暮らしはすぐに元通りになる。嵐が来たと思え ばいいことだ ———  嘉介親分の見通しに、間違いはなかった。  まるで何事もなかったかのように、丸海の城下町の暮らしは元に戻った。堀外でも漁師町でも、引手たちが耳をそばだてなければならないような変事は起こらなかった。  不思議なことと言えばただ一つ、あの日、加賀様が涸滝の屋敷に着くと、激しかった雷雨がぴたりと止んだことである。海うさぎが騒ぎ、にわかに風が立ち通り雨が降るのは、海辺の町では珍しくもないが、昼日中から雷が鳴るというのは、梅雨明けのごく限られた時季だけのことだ。それが、これからようよう梅雨雲を迎えようかという月に起こり、加賀様が涸滝の屋敷に押し込められてしまうと同時に止んだのだから、不可解が倍になった。町の人びとは、寄るとさわるとこの話で持ちきりで、話しながら、申し合わせたように、涸滝の屋敷のある山中の方向をそっと見やるのだった。  とはいえ、そんなひそひそ噂話が流行ったのも、ほんの数日のことだった。加賀様がやって来る以前にも増して、引手たちが厳しく目を光らせ、この手の ″根も葉もない ″ 噂話を咎めるようになったせいもあるが、もっとも大きな原因は、話したくとも話す種がないということだろう。  加賀様は文字通り、涸滝の屋敷から一歩も外に出なかった。しかも町の人びとは、厳重に張り巡らされた竹矢来の内側を覗くことはおろか、屋敷に通じる山道に踏み込むことさえ禁じられている。加賀様がどんな様子なのか、いやそれ以前にどんな相貌《かおかたち》の人であるのかさえ、これではまったくわからない。はるばる江戸から持ち込まれた悪い噂も、使い回し使い回しでふくらませるだけふくらませてしまい、今では根も枯れた。騒ぎたくてもその拠り所が失くなってしまった。  それでも宇佐は、それは堀外の町場でのことで、堀内の藩士たちにとっては、加賀様のことはまだまだ生々しい問題なのだと考えていた。が、十日も経つと、どうやらそれも考えすぎであったように思われてきた。堀内の藩士たちの家でも、女中や下男、中間たちは、町場から奉公人として雇われている。彼らがもたらす噂話のなかにも、加賀様は登場することが少なくなった。やはり、種が尽きてきたのである。  もちろん、加賀様お預かりが丸海藩の命運を左右する大事であることに変わりはない。だが、それに関わっているのは、藩のなかでもごく限られたひと握りの人びとであり、その口は石のように堅いらしい。  加賀様の存在は、丸海藩の内懐深く隠された。となれば、もはや民草《たみくさ》にとっては無縁のもの。藩の内々のことは、内々に任せておけばそれでよい。これまでもそうだったように、これからもそうしてゆくのだ。  心に痼《しこ》る時は、すでに過ぎた。  宇佐の心にも、一応の平穏が戻った。  今ではもう、気になることと言えば、ほうの身の上ばかりである。 「ねえ、ご飯が進まないね」  海風も止まり、ねっとりと凪いだ宵。宇佐は小さな住まいで、ほうと夕餉《ゆうげ》の膳を囲んでいた。麦飯に小魚、漬け物と、塩味の強い丸海の赤味噌でこしらえた味噌汁。粗末な飯ではあるが、宇佐一人のときには、これだけのものを整えるのも面倒で、鍋釜からそのまま飯と汁だけすくって食べることも多かった。それが、ほうが来て、箱膳も買ったし器も近所から分けてもらったりして、飯膳らしい体裁をつくるように変わってきたのである。  飯の中身はそのままでも、一人で食べていたころよりは美味しい。宇佐はそう感じていた。なのに、ほうは次第次第に食が細くなり、今夜など、お菜どころか飯さえ半分も食べるのがやっとのようだ。  もともとひ弱そうで痩せた子だったが、血色だけは良くて、頬もつややかだった。それが今ではどうだ。顎はますます尖り、頻はこけ、十やそこらの歳なのに、目の下の肌が荒れてがさついている。ここ数日、朝晩の布団の上げ下げの折、布団や夜着の襟にくっついた抜け毛が目立つようになってきたことも、宇佐は気になっていた。  何よりも、子供らしい澄んだ瞳から、めっきり明るさが失せている。  井上家が寄越してくれたほうの荷物は、小さな風呂敷包みひとつだったが、着物も下着も、おそらくは琴江があてがってやったのだろう、つましいながらも色柄がきれいで、ひとつひとつ丁寧に縫われていた。丸海では、梅雨前にはもう単衣に替えるので、今ほうが着ている青い小波柄の小袖は、麻の混じった薄手のものである。琴江が自らの古着をほぐし、仕立て直してやったのかもしれない。  本来なら子供には贅沢なほどのその青色が、ほうの土気色の顔を、なおさら暗くしているのが悲しい。  宇佐は箸を置くと、口に残っていた小骨をゆっくりと噛み砕き、呑み込んだ。それからそっと言ってみた。 「あんた、どんどん元気を失くしていくね」  ほうは飯椀と箸を手に、うつむいてしまった。 「もしかして、あたしが何か、あんたに辛く当たったりしたかしら」  ほうは家のなかのことはよくしてくれたが、読み書きや勘定は苦手のようだった。井上家では啓一郎や琴江から教わっていたという話だから、まったくできないわけはない。だから強いてやらせてみたのだが、ひらがなもすべては読み書きできなかったし、足し算引き算も怪しいものだった。そういえば、お遣いに出すと、お釣りを間違ってもらってきて、宇佐が言うまで気づかなかったこともある。  自分の名を書かせてみると、最初は「はう」と書いた。教えながら何度も直させて、やっと「ほう」と書いたけれど、しばらくしてもう一度書かせると、今度は「は」も「ほ」も書くことができない。  宇佐は驚いた。そこらの手習い所の先生よりも、啓一郎や琴江の方が、よほど上手に教えていたであろうはずなのに。  宇佐は元来、気の長い性質ではない。教えているうちに焦れてきて、言葉が強くなり、呆れ顔になったこともあろう。そんなこんなが、ほうには堪えているのかもしれない。  うつむいたまま、ほうは小さな背中を丸めて頭を下げた。「かんにんしてください」 「謝ることなんかないんだよ。あんたは何も悪くないもの」 「あたしは、あほうだから」と、ほうは口のなかで噛みにくいものを噛むようにして言った。 「誰もそんなことは言ってないよ」 「おあんさんがいろいろおしえてくれるのに、あたしはちっとも覚えられない」  丸海の、特に漁師町の言葉で、年上の親しい女に呼びかけるとき、「お姉さん」「姉さん」というような意味で、「おあんさん」と言う。宇佐が気心の知れた近所の女を呼ぶのを聞いていたのか、いつしか、ほうも宇佐をそう呼ぶようになっていた。そんなところは、ちっとも鈍くないのに。 「あんたがいけないわけじゃない。琴江さまや啓一郎先生は、あたしよりもずうっと立派な先生で教え上手だったはずだ。あたしが相手じゃ、あんたも勝手が違って上手くいかないのさ」  きっとそうだ。琴江と啓一郎は、どれほどほうの覚えが悪くても、褒めたり宥めたりしながら、ゆっくりゆっくりと進んでいったのに違いない。  琴江の名を聞くと、ほうはうなだれたまま激しくまばたきを始めた。涙をこらえているのだろう。 「井上のお家が恋しいの」  返事はない。 「我慢することなんか、ないよ。あたしだって琴江さまが懐かしいもの」  啓一郎先生のことも恋しい。井上家のそばの雑木林のなかで会って以来、もう半月近く経つ。以来、井上家に近づくことさえ、宇佐には憚られていた。あの時のやりとりと、宇佐に向かって頭を下げた啓一郎先生の姿が忘れられない。これまでは、とりたてて用などなくても井上家に立ち寄るのを楽しみにしていたのに、今では、たとえ引手の見習いとして用事を言いつかったとしても、誰か他の人に代わってもらわねばならないかもしれない。  お会いしたいけれど、会って啓一郎先生のお顔を見たら、どんなふうにふるまっていいのかわからなくて、でくのぼうのようになってしまうことだろう。先生、あたしは先生のおいいつけどおりにしていますと、殊勝な顔をすればいいのか。それとも、密やかな共感を込めてにっこりとでもすればいいのか。  どちらにしろ、啓一郎先生が、以前のように、宇佐を喜んで迎え、学問のことを易しく噛み砕いて話してくださるようなことはないだろう。宇佐の方からそれをねだれば、ひどく押しつけがましい感じになってしまうことだろう。  ほうの右目から、涙がぽとりと落ちた。箸を持った手の甲で、ほうがそれを拭うのを宇佐は見ていた。 「読み書き算盤なんか、できなくたっていいんだ」  宇佐は箱膳を脇に寄せ、ほうのそばに膝を乗り出した。 「あんたは働き者だから、働くところを見つけてあげる。先から考えないではなかったんだけど、あんたが一緒に住んでくれてると楽しかったから、言い出せなくてさ」  ほうは顔をあげた。両目いっぱいに涙が溜まっている。 「あんた、塔屋へ行ってみないか? 染め手でも織り子でも、あそこで働いてる人たちは、みんなあんたぐらいの歳から修業を始めるんだよ。頑張って一人前になれば、自分のロぐらい充分に養っていかれる」  丸海の特産物である紅貝染めの反物は、長いあいだの地道な努力が実り、近頃では、その色合いの上品なこと、品物の上質なことが、上方や江戸にまで知れ渡るようになった。今度の加賀様お預かりの一件だって、紅貝染めのおかげで丸海の内証が豊かになったから、それを妬んだお上の差し金だという噂もちらほら出ていたほどだ。実際には、この特産物は、藩の財政を少しばかり立て直すことには貢献したけれど、潤すまでには至っていない。だが、そういう噂の元になったことは、塔屋にとっては名誉だろう。  織り子も染め手も、丸海藩にとっては重要な存在だし、いつも新しい働き手を求めている。誰でもいいというわけではない。まず凡帳面で器用な者でなければならないし、染め汁の釜焚きは夏は暑く、反物の水さらしは冬場には厳しい仕事だ。水汲みという力仕事もある。根性と辛抱が第一に必要なのである。 「最初は釜場になんか入れないよ。磯へ行って紅貝を採って、それを選り分けるところから始めるんだ。夏は陽晒《ひざら》し、冬の磯は足が切れそうなほどに寒い。まずそれが我慢できなかったら、どうにもならない。磯子のうちは、みんなの分の飯炊きや掃除もやらなきゃならない。塔屋はどこも、ひとつの塔屋が一家族だから、大勢集まって暮らしているからね。でも、あんたなら大丈未だよ」 ″磯子 ″ というのは、磯で紅貝を選って集める仕事から来た言葉だが、つまりは塔屋の下働きのことである。大人もいるが、たいていは年若い子供たちだ。町場の子だけでなく、貧しい漁師や農家の子供たちが住み込みで働いていることも多い。それでも、磯子を振り出しに織り子や染め手にまでなれるのは、十人に一人といわれている。あとの九人は、仕事の厳しさに音をあげて逃げ出してしまうのだ。 「実はね、あたしの死んだおっかさんは、あたしを織り子にしたかったんだ。あちこちの塔屋に渡りをつけて、なんとかあたしを働かしてもらおうとしていた。あたしは不器用で辛抱が足らないから、駄目だったけどさ」  宇佐は首をすくめて笑ってみせた。 「あんたは飯炊きや掃除はお手の物だし、几帳面で器用だから、紅貝を選るのも、きっとすぐにコツを覚えられるだろうさ。どう? やってみないかい?」  ほうはようやく箸と飯椀を置いた。今までは、それを持ったままでいることを忘れていたようだ。そして小さな手を顎にやって、もじもじと掻くような仕草をした。 「そしたらば……もう、おあんさんとはいっしょにいられないんですね」 「そうだけど、あんたが慣れるまでは、ここから通ったっていいじゃないか」  そんなわがままが通るかどうかは怪しいが、そこは話の持っていきようだ。宇佐は請け合った。今は少しでも、ほうの不安を消して、元気を与えてやりたかった。 「おあんさん」 「うん」  ほうは上目遣いにおどおどと宇佐を仰いだ。 「塔屋には、たくさんの人がいるんですね」 「大勢いるよ。にぎやかで楽しいよ」 「その人……たちは」ほうはつっかえた。「あたし……あたしはあほうだから、またありもしないものを見間違いするかもしれません。悪いモノにだまされるかもしれません。そしたら、大勢いる人たちが、みんなで怒りやしませんか」  宇佐は板の間に手をつき、思わずちょっと身を引いて、ほうの顔を見つめ直した。  これはもちろん、琴江が死んだときの一件だ。ほうの心には、大人たちによってたかって、薬草畑で梶原の美祢の姿を見たというのはおまえの見間違いだ、ありもしない幻を見たのだと決めつけられたことが、こんなふうに溜まっているのだ。  痼《しこ》りはとれちゃいなかった。ほうの元には残っていたのだ。宇佐は心中、くちびるを噛んだ。宇佐だって同罪だ。何度も繰り返し繰り返し、ほうにそう言って聞かせたのだから。 「そんなこと、もう二度とありやしないよ」  空請け合いだった。どうしてと問われたら、説明なんかできやしない。だからこそ、言葉面だけ強気になってしまう。 「ないったらないよ。そんな心配はおよし」 「だけど」 「ないんだよ。大丈夫」  ほうの口元が、小さく震えた。 「あたしには、おっかさんの崇りもついてるし。あたし、崇りを背負い込んでるし。そのまんま塔屋へ行ったら、塔屋にも悪いことが起こるかもしれません」  そしたらあたし、萬屋を追い出されたと同じように、また塔屋からも追われてしまいますと、最後の方は泣き声がかすれた。  宇佐の心はふたつに割れた。割れたところのぎざぎざが血を流していた。心の半分は、いつまでもそんなことでメソメソしてるんじゃないよと、ほうを怒鳴りつけようとしている。もう半分は、ほうの頭を抱えてやって、ごめんよごめんよと謝ろうとしている。  あれは嘘だ。すべて作り話だ。琴江さまは本当に梶原の美祢に殺されたのだ。あんたは確かに美祢を見たのだ。悪いモノにたぶらかされたなんてことじゃない。あんたこそ、本当に真実のことを見て知っているのだ。だけど、それを明らかにすることができないから、あたしたちはみんなであんたに嘘を言い聞かせたんだ。  あんたが悪いモノにたぶらかされたと言い聞かせるには、この世には悪いモノがいて崇りや災いをするって、言い張らなくちゃならなかった。あんたは嘘の拠り所の嘘をまた背負わされて、こんなにも辛い思いをさせられている ———  一度は無理に呑み込んだ嘘が、宇佐の喉元までこみ上げてきて、今にも吐きそうだ。  だけどこれには、ほうの命がかかっている。先にここを訪ねてきたときの、渡部一馬のあの血 走った目。  ——— ひとひねりだぞ、宇佐。  磊落《らいらく》そうなあの町役人が、実は芯から怯えていた。  ——— おまえの命も、ほうの命も。  真実と命と、どっちが重い。  宇佐がもう一度嘘を呑み込み、腹の底に収めてしまうまで、しばらくかかった。 「あんたをたぶらかした悪いモノは、もう涸滝のお屋敷に封じ込められちまった。心配ないよ」  やっとそう言って、無理に頼笑んだ。 「涸滝のお屋敷も、元から悪いモノがいるって噂だ。嘉介親分が言ってた。だから加賀さまはあそこに入れられたんだって。悪いモノ同士が、同士討ちしておとなしくなるようにって。だからもう安心なんだ」  ほうは、宇佐の言葉の意味がわかっているのかわからないのか、まだ指で顎をかいている。その様子は、確かに頼りない。 「それとね」言葉を探して間をとり、そのとき、宇佐の頭に天啓が閃いた。 「あんたのおっかさんの崇りの話。そんなら、いい手があるよ」  あたしと一緒に、日高山神社にお参りに行こうと、宇佐は言った。 「もともと、あんたは金比羅様にお参りするはずだったんだよね。あたしじゃ、とてもあんたを金比羅様まで連れていってあげることはできないけど、日高山神社ならすぐにも行かれる。それに、金比羅様は偉い神様だけど、丸海をお守りくださるのは日高山神社の神様だ。よく拝んでくれば、おっかさんの崇りだって、きれいに浄めてくださるよ。あんたはもう、丸海の子なんだもの」  そうだそうしようと、宇佐は手を打った。ようやく、笑顔を大きく広げることができた。     二  翌朝、宇佐は早々に起き出して、西番小屋へ向かった。泊まりの引手を起こし、番小屋の内外を掃除して、備え付けの捕り物や火消し道具の手入れも済ませた。ようよう嘉介親分が顔を出す頃には、ひととおりのことが終わっていた。 「なんだ、今朝はえらく早いじゃねえか」  宇佐は、ほうを心当たりの塔屋へ連れて行こうとしていることをうち明けた。親分は、いかつい顔をほころばせた。 「おまえ、先にもそんなことを言ってたもんな。うまく話がまとまるといいが」  宇佐は勇んで長屋に帰ると、ほうの手を引いて出かけた。宇佐の母親と長年親しくしていた、おさんというおばさんが織り子頭を務めている塔屋が、町筋を二丁ばかり北に行った角にある。まずはそこにあたってみるつもりだった。  おさんのいる塔屋は、もともと丸海で最初に紅貝染めを手がけた塔屋のさきがけともいうべきお店の分店で、だから町場では皆に「離れ屋」と呼ばれていた。離れ屋の染めは他の塔屋のそれよりも苦味が強く、その特徴をよく活かした �清流に 柳 ″ の流れ葉模様が売り物だ。  ほうは相変わらずのぼんやり顔で、足取りにも元気がなかったが、宇佐はもういちいち気遣うのはよしにして、おさんが優しいおばさんであること、織り子としての腕は丸海でも三本の指に入るというようなことを、しきりにしゃべった。  塔屋は、その呼称そのままに、釜場の天井に塔のような高い煙突を立てている。そこから立ち昇る煙と湯気は、一年中絶えることがない。正月でさえもだ。だから、加賀様の丸海入りの際の厳しいお触れには、塔屋の人びとはさぞかし当惑したことだろう。  見上げるような塔屋の煙突は、宇佐の中指の長さほどの幅しかない細い木の板を組み合わせてできている。煙と湯気で煙突が傷むと、八年から十年ほどを目処に、足場を組んで造り直す。しかしその建て直しの折にも染料を煮る煮釜の火は消さないので、窓や戸口を開け放つ。これを ″塔屋開き ″と呼び、煙や湯気の臭いで近隣に迷惑をかけるので、塔屋ではそれぞれに工夫した菓子や小間物をつくって近隣に配って歩くという風習ができた。  紅貝染めが始まってからの年月がまだ浅いから、塔屋開きも丸海では新しい風習である。宇佐が覚えているのは、八つの秋のことだ。離れ屋が塔屋開きをするというので、母に連れてきてもらい、金平糖の入った小さな包みと、離れ屋で染めた反物で作った前掛けをもらった。このとき初めて、おさんにも会った。漁師町の女たちとは違って色白で、ころころと太り、大きな声でよく笑うおばさんだと思ったものだった。  塔屋のなかでは、染料造りから糸の染めつけ、染めた糸を乾かし、巻いて反物に織り上げるという作業がすべて行われている。染めから織りまですべてひとつの塔屋で行い、だからこそ塔屋ごとに違う風合いが出せることが売り物であるからだ。だから建物はどこも大きい。釜場のある棟と、糸巻きや機織りをする機場の棟のあいだに、干し物をする中庭を挟んだ平屋建てで、たいていの場合は、同じ敷地のなかに、塔屋で働く人たちの住まいである寮が建てられている。大きな塔屋だと、下級藩士が住まっている柵屋敷よりも立派な構えの建物である場合も珍しくない。  離れ屋は分家だから、塔屋としては中程度の構えだけれど、それでもここの角地をでんと占めてしまっている。  井上家にいるときも、宇佐のところに身を寄せてからも、ほうは一人で歩き回ることはごく少なかったから、塔屋の建物を間近に見るのは初めてなのだろう。表戸の前で宇佐が足を止めるとほうは宇佐と手をつないだまま、しげしげと煙突を仰いでいた。離れ屋の煙突は、つい去年の春に建て直したばかりである。下の方では、まだ板きれの節目が見えている。これが建て直しも寸前のころになると、煤と湯気と、蒸気になって立ち上った染料の色を吸い込んで濃い飴色に変色し、板と板の継ぎ目さえ見えなくなってしまう。  五月から八月までのあいだは、塔屋の表戸の障子には紙を貼らないので、骨ばかりがむき出しになっており、そのあいだから中の様子がうかがえる。声をかける前に、釜場で立ち働いていた女衆の一人が気がついて、こちらを見た。宇佐は会釈をした。 「ごめんください。西番小屋の宇佐でございます。おさんおばさんはおられますか」 「おさんさんなら機場だよ。さっき磯から帰ってきたから、今はもう座ってる頃合いだ」  織り子頭ともなれば、座って機を織っているだけでよさそうなものだが、おさんを始め、塔屋の織り子を束ねる女たちは、こぞってよく磯へ出てゆく。より優れた紅貝染めを織り上げるには、貝を見る目を失くしてはいけないからだと、おさんは言っている。 「機場の方におじゃましたいんですけども、中を通っていってもよございますか」  釜場にはもうもうと湯気が立ちこめている。話している相手の顔も見えにくくて、宇佐は声を張り上げた。 「いいけど、気をつけな」  はいと返事をして、宇佐はほうを連れて歩み入った。これなら、通りしな、ほうに塔屋のなかを見せてやれる。  離れ屋にはざっと十ばかりの釜がある。土を固めて盛り上げ、裾のところに穴を開けて焚き口をつくり、上から丸底の釜を置くという形の据え釜だ。 「蓋をしてある釜では、貝を煮てる。染料を煮出してるんだ。蓋をしてない釜では、そうやって煮出した染料で糸を煮てる。よくごらん。湯気に気をつけてね」  熱気と紅貝の臭気に、ほうは顔をくしゃくしゃにしている。宇佐は笑った。 「慣れないうちは、この臭いがちょっと辛いかもしれないね」  釜を並べて煮ていると、染料だけのときと、糸を入れたときと、どんな違いが出るかすぐにわかる。だからこうして同じ場所で煮るのだと、宇佐は話してきかせた。  釜場を横切り、棟の反対側の障子を開けると、中庭に出た。木の杭を打ち竹竿を渡したものが何本も並んでいる。そこに、中途をくくって輪にした糸が、数え切れないほどたくさんぶらさがっていた。 「あっちにも建屋が見えるだろ」  宇佐は右手を指さした。藁葺き屋根が棟から張り出している。 「あそこには、貝を煮出してつくった染料を瓶に入れて、寝かせてあるんだ。十日から半月ばかり寝かせて、それから染めにかかる。で、染めた糸をこうやって陽に干すわけさ」  その糸を糸巻きで巻き、織るのが機場だ。宇佐は、とりどりの濃淡に華やかな紅色の糸の束のあいだを縫うように進んだ。 「機場で織り上げた反物は、水洗いをしなくちゃならない。昔は、堀の水で洗ってたんだけど、それだとお堀が汚れるから禁止になってね。今では井戸水を汲み上げて使ってる。だから、磯子にとっては水汲みも大切な仕事なんだ。あんた、水汲みは得意だよね? こんなに細い腕だけど、けっこう力はあるもんね」  中庭の右手端に井戸があり、今もそこで、若い女が二人、袖はたすきがけ、裾もからげて膝までむき出しにして、勇ましく水洗いをやっている。大きな盥に水を張り、そのなかにゆるくたたんだ反物を浸けて、足で踏んで洗うのだ。それを二、三度繰り返す。乱暴なやり方に見えるが、こうしないと、優雅な風合いの紅貝染めの唯一の欠点である染料の臭いを洗い出すことができないからである。  機場の戸口でまた声をかけ、宇佐は戸を開けた。入ってすぐのあがり口は畳敷きになっており糸巻きが三台据えてある。その先は板敷きで、六台の機が二台ずつ左右に並び、ぱたんばたんと音をたてていた。 「おや、宇佐ちゃんじゃないか」  糸巻きの前に座っている老婆が声をかけてきた。宇佐が子供のころから年寄りで、今も年寄りだ。これだけ歳をとってしまうと、十年やそこらでは、かえって見かけが変わらなくなる。  「こんにちは」  機場は釜場よりさらにひと周り広い。それは、機場の左手、三分の一ほどの場所が土間になっているからだ。そこに、水さらしの終わった反物が、平らに長々と吊し干しされている。糸と違って外に干さないのは、反物にしてからは、雨と陽射しを嫌うからである。  いちばん手前に、鮮やかな胡蝶模様の反物が干されている。ほうはそれに見惚れたのか、ようやく表情が動いた。紅貝染めの特徴である淡い紅色に、離れ屋の売りものの青味を噛み合わせ、虚空に飛ぶ幻の蝶を織り上げたものだ。目を奪われるような美しさだった。 「綺腰だろ、ね?」  宇佐はかがんで、ほうの耳元に言った。 「織り子になって、あんなものが織れたらどんなに誇らしいだろうね」  奥の機の動きが止まり、小太りの女が降りてきて、にこにこしながら宇佐たちに近づいた。首に巻いた手ぬぐいで汗を拭っている。おさんであった。色が抜けて裾のほつれた古着に、芯のないくたびれた帯を締めている。美しい反物を織る織り子は、自分の身にはかまっていられないのだ。 「ずいぶんご無沙汰だったね。元気にしてたかい?」 「すみません。近くだから、かえっておじゃましにくくって」  おさんは頬ばかりかまぶたまでふっくらしているので、小さな目がその奥に隠れてしまっている。しかしその目は聡く、宇佐に手を引かれたほうをちらりと見ただけで、何かしら察するところがあったようだ。 「おや、お客さんだ」  おさんはにっこりして、ほうの方へ身をかがめた。 「見かけない子だね。宇佐ちゃん、いつ妹分ができたんだい?」  妹分 —— 。宇佐は照れ笑いをした。  おさんは、話なら、寮の方でしょうと案内してくれた。機場を出て建物の裏に回り、早くもしげり始めた夏草のあいだに、人の足で踏みしめられた道がついている。その先に、塔屋よりはずっとこぢんまりした二階家が建っていた。戸も窓も閉められているが、二階の正面の窓だけが開け放たれて、そこに日除けがかかっている。通りがけにちらと目をあげた宇佐は、日除けの裏にも疫病除けの赤絵が貼ってあることに気がついた。  さては疱瘡《ほうそう》だろうか。誰か寝ついているのだとしたら、ほうを近づけたくはない。  通されたのは、ぶち抜きの広い板敷きの部屋で、隅には円座がいくつも重ねて積んであった。寮に住む者たちが、朝夕の膳を囲む場所だという。おさんは手ずから台所へ行って麦湯を注いでくると、宇佐とほうに勧めながら、まず自分がごくごくと呑んだ。 「あたしはどうも暑がりになっちまって、まだ梅雨前だっていうのに、喉が渇いてしかたがないんだ」  他愛のない世間話を口切りに、まだ本題にとりかからないうちに、宇佐は頃合いをはかって、二階の赤絵のことを持ち出した。 「誰か具合が悪いんですか」  おさんは勢いよくうなずいた。隠し立てをする表情ではなく、話したがっていたようだ。 「病っていうのじゃないのかもしれないんだけどね。お菊さんとこの八ちゃんが、ずうっと寝込んじまってるんだ」  お菊というのはここの織り子である。八太郎はその息子で、歳は九つ。お菊は行商人の亭主とのあいだに五人の子供がおり、上の四人はそれぞれに奉公に出たり所帯を持ったりしているが、末の八太郎は母親と一緒に寮に住んでいるのだ。塔屋では、こういうことは珍しくない。 「どんな具合なんですか」 「それがねえ……」  おさんはちらとほうを横目で見て、手ぬぐいで顔を拭いた。ほうはおとなしく正座して、両手を膝に、またぞろ放心したような顔に戻ってしまっている。 「何だか言いにくいね。宇佐ちゃんは引手なんだものさ」  そんな言い方をされては、かえって気になる。 「嫌だな、おばさん。あたしはまだまだ見習いですよ。それに、他所へ洩らしちゃいけないようなことならば、きっと口をつぐんでいますから」  それはわかってるけどさと、おさんはなおももじもじした。 「実はね、涸滝のお屋敷」  宇佐はどきりとした。「ええ、はい」 「あすこがまだ空いてるうちに、このへんの塔屋の子供たちが、陽が落ちてから、肝試しだって出かけていったことがあるんだよ。八ちゃんもそのとき、一緒に行ったんだけどもさ」  肝試しか。いかにも子供らの思いつきそうなことではある。 「いつごろのことです?」  おさんは指を折って数えかけたが、途中でかぶりを振った。「何目前になるかねえ。八ちゃ人たちが肝試しに出かけた翌日に、あそこで竹矢来が倒れて怪我人が出たとかの騒ぎがあって」  宇佐はうなずいた。それならば、半月は前のことになる。  隣でほうが身じろぎをした。涸滝の屋敷で竹矢来の倒れた日 —— 井上家の琴江が亡くなったのもその日だ。肝試しはその前日だったわけである。 「五、六人でわいわい騒ぎながら出かけてさ、半刻もしないうちに、みんなして真っ青になって帰ってきたんだ。あたしはね、あそこにいたお徒《か》歩《ち》さんにでも叱られて、逃げ帰ってきたんだろうって思ったんだよ。涸滝のお屋敷には修繕が入っていたしさ。夜も篝火《かがり》を焚いて、見回りもしていたし」  加賀さまお迎えの作事をしていたのだ。 「だけど、子供らを宥めて聞き出してみても、叱られたとかそういうことじゃないっていうんだ。だいいち、涸滝のお屋敷には近づいてないって。お屋敷の見える山道までは行ったけど、そこから逃げ帰ってきたっていうんだよね」  月夜だったから、明かりがなくても、子供たちには道も見えたし、遠目に涸滝の屋敷の瓦屋根が月光を映しているのも見えたという。 「その……屋根の上にね」  おさんはぐっと声をひそめ、また口元を手ぬぐいで拭いた。 「鬼がうずくまってたんだってさ」  身体は真っ黒。頭には角が生え、らんらんと光る目を剥いて。 「みんな腰を抜かしちまって、すぐには動けなかったんだそうだよ。そしたら、鬼の方が子供らを見つけて、屋根から飛び降りて追いかけてきたんだって」  子供たちはどっと逃げ出した。狭い山道でこけつまろびつ、前後に押しのけあうようにして。 「八ちゃんは草履の緒が切れて、取り残されちまったんだ。わあっと逃げた子供たちも、山道を降りきったところで八ちゃんがいないのに気がついて、あわてて戻ってみてね。そしたら、八ちゃんが白目を剥いてひっくり返ってたんで、みんなで担いで帰ってきたっていう話なんだよ」  我が子を抱き取ったお菊は、八太郎の右の肩口から背中にかけて、鋭い爪のある手で引っかかれたかのように、着物が裂けていることに気がついた。脱がせてみると、肌には無残な擦り傷が残っていた。  八太郎はその腕から高熱を出して寝込んでしまった。幸い、三日ほどで熟は下がったものの、いまだに様子がおかしく、夜はうなされ、昼も呆然として譫言《うわごと》を口走るという有様で、お菊は心配のあまり痩せてしまっているという。  西番小屋で、嘉介親分が、町の商人や塔屋の織り子たちのあいだにも、涸滝の屋敷でおかしなものを見た、聞いたという噂が流れていると話していたことを、宇佐は思い出した。そうか、こんな事が起こっていたのか。 「だから肝試しなんかやめなさいって言ったのに」  愚痴るように、おさんは口元を歪める。 「そんなことがあったすぐ翌日に、竹矢来が倒れる騒ぎがあったりして、おばさんたち、なおさら気味が悪かったでしょうね」  宇佐はそう言って、なだめるようにおさんに微笑みかけた。おさんは苦り切っている。 「もともと、悪い噂のあったお屋敷だからさ。子供は臆病じゃ困るけど、向こう見ずもほどほどにしないとね」  二階の赤絵は、鎮西八郎為朝さまの絵なんだよとおさんは言った。 「強いお侍さんだからね、鬼を退治してくれるよ、だからもう怖がらなくていいよって、八ちゃんに言い聞かせてさ。同じ八郎だし」 「おばさんは……その鬼は、どこから来たんだと思いますか」  おさんは小さな目を見張った。「どこって、あのお屋敷に棲みついてるんだろうさ」 「昔、浅木家の人たちに仇をなしたのと、同じ鬼ですか」 「そうそう、そうじゃないの。宇佐ちゃんも、浅木様の家で病人が出て大変だったって話は、知ってるんだね?」 「ええ、話で聞いただけですけど」 「十五年も前のことだからね。でもあのときも、えらい騒ぎになったんだよ」  宇佐はほうの表情が気になった。ずっとおとなしくしていたのに、今はまたしきりとまばたきをしている。 「あのお屋敷は、あのとき焼いちまえばよかったんだ。それなのにずっと放ったらかしておいてさ、今頃になって修繕なんかして人を入れるから、せっかく寝ていた鬼を起こしちまったんだ」 「でも今は、人が住んで・・・・ 」  おさんは、棘で刺されたみたいな顔をして、短く笑った。 「江戸から流されてきたあのお人も、鬼だっていうじゃないか。加賀さまだっけね。いっそ、お屋敷ごと焼いちまうってのはどうかね。鬼を二匹、いっぺんに退治できるじゃないか」  おさんにほうのことを頼むという用件は、どうにか伝えることができたけれど、来たときほど弾んだ気持ちではなくなって、宇佐は離れ屋を出た。都合のいいときに、いつでもその子を連れておいで。うちで面倒を見るよ・・・・と、おさんは請け合ってくれたけれど、そんな事情で寝込んでいる八太郎という子供のいるところに、今の今、ほうの身柄を預けるなんて……。にわかに気が進まなくなってしまったのだ。  道に出ると、つないだ手を引き寄せてしゃがみ込み、宇佐はほうの顔を見た。 「ねえ、怖い話だったね」  ほうは黙って宇佐の顔を見返した。 「八太郎って子も、悪いモノにたぶらかされたのかもしれないよ」  ほうは目を伏せて、宇佐の手を離した。 「それで、ありもしないものを見たのかもしれない。そういうことはあるんだね。あんただけじゃない」  ほうは、小さな拳をつくった。それをじいっと見つめている。 「さ、日高山神社へ行こう」  宇佐は立ち上がった。一緒になってふさぎこんでいては駄目だ。 「よくお参りするんだ。そしたら、あんたはもう大丈夫だからさ」  手を引っ張って歩き出す。ほうは、振り返って塔屋を見た。宇佐は気づかなかったが、ひどく思い詰めて、頑なな光がその目に宿っていた。     三  日高山神社は、その名のとおり、丸海の城下町から見て南東方向の日高山という小高い山のてっぺんにある。  宇佐が母親から聞かされた話では、神社への参道はかなりきつい山道で、松の根が放縦に張り出し、岩や石がごろごろしていたのだという。ところどころに丸太を並べ、少しでも歩きやすいようにという計らいはしてあったが、大雨が降ればそれが流され、道が崩れてかえって始末の悪いことになったものだと言っていた。丸海の冬は、ほとんど雪を見ることがないが、宇佐の母親が若かったころ、大晦日から元日にかけてたまげるような大雪が降り、日高山神社に初詣しようという人びとを、大いに困らせたこともあったと聞いたことがある。その年は寒さも厳しく、降った雪が凍りついてしまって、一月の半ばを過ぎるまでは、女子供や老人の足では、神社に通じる山道を歩くことができなかったそうだ。  今ではその道は、おおかたの部分が立派な石段になっている。山道は見事な参道へと変えられ要所要所には石灯籠も建てられた。参詣口のとっつきに立ち、葛折りにうねうねと上へ上へ延びている石段を、目を瞠って見上げているほうに、宇佐は笑いかけた。 「こんな立派な石段の参道があるのは、金比羅様だけだと思ってたかい?」  しかしほうは、金比羅様のあの有名な石段のことを知らないようだった。江戸から代参に出されるとき、そんなことも教えてもらえなかったのだろう。宇佐はほうと手をつないで石段を登りながら、讃岐の金比羅様が海上を守る神様であることや、この日高山神社の謂れなど、自分の知っている限りのことを、ほうにも判りやすいように噛み砕いて話して聞かせた。  話しながら、ふと思った。  宇佐は子供のころから、日高山神社に詣でるときには、この石段を登ったものである。それを母の話と照らし合わせると、さてこの石段はいつ造られたものなのだろう。  傍らの石灯籠に目をやると、それは塔屋の寄合いが寄進したもののようで、塔屋頭の名前が数人分刻み込まれている。寄進の日付はと見ると、十四年前の二月だ。さらに何十段か登り、次の石灯龍を見ると、それにも同じ日付が入っていた。  日高山神社は、浅木家と係わりが深い。浅木家の祖は、代々日高山神社を守ってきた神官なのだ。つい最近、宇佐はそのことを嘉介親分から教わったばかりである。  その浅木家に、不気味な流行病が跋扈《ばっこ》し、多くの人が病み、涸滝の屋敷が建てられたのは、十五年前のことである。また、石灯寵に刻まれている日付は、この石段が造られたころと、そう大きく食い違っているわけはあるまい。となると、浅木家に災厄がかかったその翌年に、参道が立派に整えられたということになるまいか。  あて推量ながら、宇佐は納得し、石段を登りながら一人で小さくうなずいた。正体不明の流行病に怯えた浅木家が、あらためて日高山神社の加護を強く祈り、大枚の金子を投じて神社の体裁を整えることに取りかかり、それが翌年に完成を見たということは、大いにあり得るだろう。まあ、こういう大がかりな作事は、どれほど強く望もうと浅木家だけでできることではなく、丸海藩の内証 ——— 懐具合にゆとりがあることが肝心なので、一概には言い切れないけれど。  幼いほうの足には、石段の登りがきつい。半分ほど来たところで、ひと休みをした。この高さからだと、もう、松林のあいだから城下町を広く見おろすことができる。港の桟橋の上を飛び交う鴎《かもめ》の白い翼に、陽光が跳ね返る。岸にもやってある漁船の数も、ひとつふたつと数えることができるほどによく見える。朝から雲ひとつない好天だ。海は凪ぎ、うさぎも飛んではいない。 「気持ちがいいね」  宇佐はうんと背伸びをしながら言った。ほうはふうふうと息をはずませながら、にっこり笑って宇佐を見あげた。宇佐は、町並みのあいだから頭を突き出し、白い湯気を立ちのぼらせている塔屋の塔をひとつひとつ指さし、午前に二人で訪ねた、おさんおばさんのいる塔屋はあそこだと、ほうに教えた。 「西番小屋は小さいから、ここからじゃ見えないね。でも、おさんおばさんの塔屋のちょっと下 ——— あのへんかなぁ」  高みから見おろせば、宇佐の生まれ育った港の漁師町から西番小屋へのあいだなど、ほんのひとまたぎのように見える。指で示しても、一寸ほどの長さでしかない。それでも、漁師町を出て引手の仲間に加わることで、宇佐の暮らしはずいぶん変わった。  ましてや、ほうははるばる江戸から流れてきたのだ。あの海の彼方、まず大坂の港があって、そこからずうっと東海道をくだり、何十日も旅をして、やっとたどりつくような遥か遠くから、ほうはこの小さな足でやって来たのだ。  急に切なくなって、宇佐はまばたきをし、すぐ隣で小さな手を額にかざし、楽しそうに景色をながめているほうに目をやった。  本当に、遠いところからよく来たもんだね、ほう。縁あってこの地に来たあんたを、丸海の山と海とお目様が、こうして温かく迎え取ってくれている。  ほうはこれから丸海に根をおろし、一人前の女に育ってゆくのだ。そうだよ宇佐、だからもうこまこまと気に病むことはないと、この美しく穏和な景色が、心に語りかけてくるのを感じた。  ほんの思いつきだったけれど、神社に来てよかった —— と思った。 「さ、もうひと頑張りだよ。行こう」  宇佐はほうの手を引っ張った。  石段は最後の十五段ばかりでひときわ急になり、二人は汗をかいて登った。てっぺんの一段に足を乗せると、一緒になって、うひゃあというような悲鳴まじりの歓声をあげた。 「ふう、きついきつい」宇佐は笑った。「あたし、太って身体が重くなったのかな。あら、ほうったら、顔が真っ赤だよ」  境内には人気がなく、二人のはしゃぐ声が真っ青な空に響き渡った。  懐から手ぬぐいを出し、自分とほうの顔をふいた。これからお参りをするのだから、乱れた襟元や裾を整え、髪も撫でつける。  ほうは宇佐に世話を焼かれながら、首をめぐらせて、珍しそうに日高山神社の境内を見回している。朱色が褪せて、裾の方では地の木目が見えている大きな鳥居。その向こうの本殿は、こぢんまりとしてはいるが、反り返った四面の瓦屋根と、宇佐の腕では抱え切れそうもないほど太い柱に支えられた重厚な造りだ。山のてっぺんなので、境内をぐるりと囲む松や銀杏や栃の木立は一様に背が低く、横へ横へと、優美な踊り子のように枝を張り伸ばしているが、鳥居のすぐ後ろに一本だけ、天まで届きそうな松の巨木が立っている。幹はひび割れ、灰色に皮がむけて、樹齢はすぐには見当がつかないほどだ。だが、何百年もここに立っているであろうこの松は、一度も落雷を受けていない。これがまたご神体である山犬の雷獣退治の謂れにふさわしく、この松は神木として仰がれている。  手水場《ちょうずば》で手を洗いロを漱ぐと、二人は本殿に向かって、念入りに参拝した。宇佐は頭のなかにいろいろな願い事を考えていたのだが、いざ手を合わせてみると、それらのすべては消えてしまい、あたしとほうが元気で暮らせるようにお護りくださいと、一心に祈ることしかできなかった。  宇佐が身を起こし顔を上げると、ほうはうんと背伸びをして、本堂の壁に掛けられている大きな板絵に見入っていた。山の頂上に尾を振りたてて身構える真っ白な山犬が、雲の隙間から駆け下ってこようとする金色の獣に牙を剥き、迎え撃とうとする有様を描いた絵である。古びて色褪せ、雲の金も松の緑も、山犬の純白の毛並みも煤けてはいるが、見つめる者の目の前で今にも動き出しそうな迫力がある。喰り声さえ聞こえてくるようだ。 「あの白い山犬が、お目高さまだよ」指差して教えてやった。「金色の獣が雷獣だ」 「らいじゅう?」 「雷を自由自在に操ることのできるケダモノなんだって。天の上に住んでいて、雲のあいだを駆け回る。雄たけぴをあげると、それがそのまま雷鳴と稲妻になるんだって」  ほうは魅せられたようになっている。 「おあんさん、この絵を描いた人は、本当にこういうケモノを見たのでしょうか」  宇佐は笑った。「これはお目高さまの雷獣退治の絵なんだ。うんと昔に起こったことだし、この絵を描いた絵師が、その場にいて見ていたわけじゃないだろうね。きっとこんなふうだったんだろうって、考えて描いたんだよ」  金色の雷獣の口は耳まで裂け、目には鋭い光が宿る。その身は雷光をまとい、尻尾は炎と化している。 「でも、雷獣を見たっていう言い伝えならあるよ」 「本当ですか?」  ほうは怖がっている。宇佐はまたあははと笑った。 「心配しなくても、お目高さまがここにいらっしゃる限り、雷獣が丸海に降りてくることなんかありっこない。言い伝えも、雷獣が雲の上を駆けていったとか、風を巻いて通り過ぎたとか、そんなようなお話だもんね」  宇佐はほうを連れて、本殿脇の小さな社に向かった。そこには畳半畳ほどの大きさの平たい石が祀られている。石の真ん中あたりに、大きな山犬の足跡の形に似た、窪みと傷のようなものがある。 「これは�力石″っていうんだ。犬神様が、雷獣を倒すために天から降り立ったとき、うんと力を込めて足を踏ん張ったから、足跡が残ったんだって。よく拝むと、足腰が丈夫になるよ」  ほうは膝を折ってしゃがむと、手をあわせた。宇佐は自分もそうしようと屈みかけたが、すぐに身を起こした。  本殿の後ろには、小さな神楽《かぐら》殿と神官の詰め所の建物が、鉤《かぎ》型に建ち並んでいる。詰め所の方の表戸が開き、そこから見覚えのある人が姿を現したのだ。  井上家の舷洲先生である。  ここで、�匙� の先生を呼ぶような病人が出たのだろうか。とっさに、宇佐はそう思った。日高山神社の禰《ね》宜《ぎ》を務める家は、城下に屋敷を与えられている。ここの詰め所には住みついていない。それでも、たとえば参拝に来た藩の重鎮の誰かの気分が悪くなったとか、怪我をしたとかいうことがあれば、匙が呼ばれてもおかしくはないからだ。  しかし、舷洲先生はお一人のようだ。薬箱を持った中間を連れていないし、他のお供もいる様子がない。表戸を開けて送り出しているのは、間違いなく禰宜の老人だが・・・・。  舷洲先生は、宇佐には気づいていないようだ。宇佐はほうをせき立てて立ち上がらせ、くちびるに指をあて「しいっ」と示してから、急いで手近な木立の陰に隠れた。  禰宜の老人と舷洲先生は、同じくらいの年輩である。片や見事な禿頭で、白い神衣を着込み、磨き込んだようなつるつる頭に、陽射しが照り映えている。一方の舷洲先生は、ふさふさした白髪を総髪にして、灰色がかった着物と羽織、黒い袴を着けている。袴は足首でくくれるような紐のついた形で、舷洲先生が町中を歩くときに着用するものであることを、宇佐は知っていた。  舷洲先生と禰宜の老人は挨拶を交わし、先生は詰め所の建物の先の方に顔を向けて、ひと言ふた言声をかけた。と、野良着に小さな風呂敷包みを背負った男が、大急ぎで駆け出してきた。 「あ」と、ほうが声を出した。 「あんた、知ってる人?」宇佐は小声で訊いた。 「大《おお》先生です」 「うん、舷洲先生はあたしもわかるよ。あっちの野良着の人は? 井上のお家の人?」  ほうはうなずいた。「盛助さんです」  では、身なりからして井上家の下男だろう。宇佐は顔を合わせたことがないが、下働きならばそれも不思議はない。  舷洲先生は下男の盛助一人をお供に、日高山神社の禰宜を訪ねてきたのだ。何の話だろう。宇佐は自分でも知らぬ間に目を細め、険しい顔つきになっていた。 (そういえば……)  盛助は、井上の琴江さまが殺された日、彼女を訪ねてきた梶原の美祢の姿を、ほうと一緒に目撃しているはずだ。宇佐は横目でほうの表情を窺った。思いがけず盛助の顔を見て、ほうがまた、あの日のことを禍々しく思い出していなければいいのだが。あれはなかったこと、起こらなかったこと、幻なのだから。  禰宜の老人に見送られ、舷洲先生が先に立ち、盛助が後ろに従って、こちらに向かって歩き始めた。宇佐は首を引っ込め、ほうの頭にも手を乗せて、ぐっと身を縮めさせた。  陽射しがまぶしいのか、舷洲先生は少し目を伏せて、玉砂利に草履を鳴らしながら、早い足取りで歩いてくる。後ろの盛助も、叱られたみたいにうなだれている。二人とも、宇佐たちには気がつかないようだ。  宇佐はほっとした。今さらほうが井上家の人と顔を合わせたところで、好いことはひとつもない。  舷洲先生が目の前を通り過ぎてゆく。先生は小柄で地黒、こうして横顔を拝むと、少ししゃくれ気味の顎がとても目立つ。この顎の形のせいで、舷洲先生はいつも口をへの字に結んでおられる。ぱっと見れば、気むずかしくて意地悪そうな老人に見える。それが、お話をしてみれば、実は優しくて患者思いで、洒脱《しゃだつ》な言葉遊びを考えるのが大好きなので、だから自分の屋敷の塀に落首などを書かれても、それが面白いものならば、もったいないから消すなと命じるような人柄だということがわかると、宇佐はいっぺんで先生が好きになった。城下でも先生は人気者だ。「叱られ舷洲」という通り名だって、親しみがいっぱいこめられたものなのだ。  舷洲先生の羽織に織り込まれている銀糸が、陽を受けてきらきらと光る。その様子が、先生の真っ白な総髪によく似合っていた。しかし羽織を着込んで来られたということは、なにがしか大事な話があったのだろうか。  先生と盛助は、宇佐たちの前をさっさと通り過ぎ、鳥居の近くにまで行ってしまった。と、そこで舷洲先生がつと盛助を振り返り、のんびりとした口調で話しかけるのが聞こえてきた。 「うさぎが飛んでおるな」  宇佐はどきりとした。さらに身を低くする。 「はあ?」と、盛助は足を止める。鳥居のそばまで行けば、退か眼下に広がる海がよく見える。盛助は舷洲先生よりは頭ひとつ背が高いが、さらに背伸びをするようにして、青い海を見やった。 「はて……今日は凪いでおりますよ、先生」 「いや、飛んでおるよ。子うさぎもおる」舷洲先生は言った。「丸海のうさぎは元気がいちばんだ。好い日和じゃな」  それだけ言うと、またとっとと歩き出して鳥居をくぐり、石段の方へと進んでゆく。ちょっとぽうっとした盛助は、まだ海を見渡していたが、あわててその後を追っていった。  宇佐はゆっくりと立ち上がった。まだ律儀にしゃがんでいるほうの手をとって起こしてやると、にっこり笑った。 「今の、聞こえたかい?」  ほうは盛助と同じようにぽかんとしている。 「先生は、あんたが元気にしているようでよかったとおっしゃったんだよ」  ほうは宇佐の顔を仰いだ。「おあんさん、あたしたち、隠れていたのじゃないですか」 「うん、そのつもりだったんだけどね。先生には見つかっちゃったみたいだ。それで好かったみたいだよ」  さて、雷除けのお守りを買って帰ろうと、宇佐は言った。「あんたは縫い物が上手だから、自分で着物の襟に縫い込めるだろ? 梅雨も近いしね。これからはゴロゴロぴかぴかすることが多くなるよ。雷さまに打たれないように、ちゃんとしておかなくちゃ」 「はあい」  琴江さまを失って、舷洲先生も気落ちされたのだろう。後ろ姿がひと回り小さくなってしまわれたよ —— そう思いつつも、ここに来たときよりもずっと、宇佐は心が軽くなっているのを感じた。      四  それから五、六日ばかりのあいだ、宇佐はまめにおさんの塔屋に顔を出しては、八太郎を見舞った。  子供の様子には、あまり変わったところはなかった。ただ母親のお菊の言うところでは、夜も悪い夢にうなされることがなくなって、今寝ついているのも、半分はご飯も食べずに寝ついていたことで足腰が弱ってしまったせい、残りの半分は甘え癖がついてしまったせいじゃないかしらという。  お菊は宇佐が見舞うのを、とても喜んでくれているようだった。 「八太郎に言ってやったのよ。毎日ここに顔を見せてくれる宇佐さんは、女ながらに引手なんだよ、だからあんたはもう怖がることなんか何にもない、もしもまた鬼が出たって、あんたには番小屋の引手衆がついているんだからねって。どうやら、それが効いたらしいんだよ」  宇佐としては、八太郎が元気を取り戻し、肝試しの夜に見たことも聞いたことも、すっかり心の隅に片づけてしまってくれないと、安心してほうを預けることができないから、気にかけていたのだった。それがこんなふうに受け取られるなんて、もっけの幸いだ。それに、一人前の引手として頼りにされるのは、くすぐったくも嬉しいことだった。  その日は梅雨の走りの小雨が降っていた。冷たい雨で、梅雨独特の蒸すような陽気ではなかったけれど、空にはどろんとした雲が蓋をし、湿気が身体にまとわりついて、うっとうしいことは同じだった。それでも、この分ならもう、ほうをおさんの塔屋に連れてさても大丈夫だろう・・・と、宇佐は明るく考えた。  番小屋に戻る前に、涸滝の屋敷へ通じる山道へと足を向けてみた。山道の登り口には、袴の腿立ちを取り、白襷をかけ、槍をついた番士が見張りに立っている。近づくと怖い顔で睨まれた。  加賀さまが涸滝に入って以来、ずっとこの様子である。町人はもちろん、藩士たちでさえ、用のない者はけっして近寄ることを許されない。許可を得て出入りする者どもも、出と入りの時刻がきっちり定められているのだそうである。 (御牢番の人たちは、大変だろうなぁ)  誰かに何かひとつでも不調法があったら、即座に首が飛ぶ。これはそれほどの大事だと、嘉介親分は言っていた。もっともその口調は、加賀さまが涸滝入りする以前に比べれば、ずっと気楽なものになっていた。 「ああして納まってしまえば、もう俺たち引手衆には関わりようのねえことだ」  幽閉というのがどういうことなのか、宇佐には見当もつかないので、加賀さまはやっぱりお仕着せを着せられて、板敷きの牢に閉じこめられているのだろうかと口に出してみたことがある。すると嘉介親分ばかりか他の引手たちも大笑いをして、そんな馬鹿なことはないと教えてくれた。 「罪人は罪人でも、そこらの盗人や人殺しとはわけが違うんだ。もとは勘定奉行を務めていた偉いお方だよ。もっと立派な扱いを受けているに決まっているさ」 「でも、それじゃあ逃げられませんか」 「逃げられるもんかね。涸滝の屋敷にはいつだって見張りの目が光っているんだ。それに加賀さまだって、今さら逃げ出すような見苦しい真似はなさるまいよ」 「それじゃあ、加賀さまは涸滝の屋敷で、何をしているんでしょうね。ただ裃《かみしも》を着て座っているだけ?」  嘉介親分にもわからないのだろう。そりゃあおまえと勢いよく言いかけて、にわかにロをもごもごさせた。 「だからよ・・・・・・難しい書物でも読んでいるとか、そのへんじゃねえか。うん、きっとそうに違いねえ」 「軍記物のなかの身分の高い流人は、たいていお写経をしてるじゃねえですか」と、花吉がロを出した。 「おう、そうだ、それよ」 「御牢番の人たちと、話をしたりしないのかしら」 「それは禁じられてるって話だぜ。御牢番は、加賀さまとしゃべっちゃいけないし、たとえ加賀さまから話しかけられても、絶対に返事をしちゃいけないんだってさ」  嘉介親分は、急に険しい目つきになった。 「花吉、おまえそんな話をどこで聞き込んできたのけ?」  花吉は笑ってごまかした。「ま、そのへんでね。いいじゃねえですか、親分」  心に浮かんだ疑念を、宇佐はぽつりと言ってみた。「そんなふうに誰とも口をきかすに閉じこめられていたら、いろいろ思い出したり、考えたりすることばっかりだよね。加賀さまだって、自分のしたことを思い出したりしないかな」  妻子と部下を手にかけたのだ。発見されたとき、加賀さまの端座していた座敷は血みどろで地獄絵のようだったというのだ。  生きている限り、忘れられまい。それだけのことをする原因となった怒りや恨みだって、そう簡単には晴れるまい。 「宇佐」と、嘉介親分は叱るような声を出した。「おまえは何でまた、そんな用もねえことばっかりを考える?」  ごつんと頭をぶたれてしまった。 「そんなことより、とっとと見回りにでも行ってこんか」  そういえば・・・・と、思い立って、宇佐は堀内の柵屋敷に、山内の妻を訪ねることにした。思い出せば、十五年前の浅木家での出来事と涸滝の屋敷の由縁を、宇佐に教えてくれたのは山内の妻女である。加賀様お迎えで涸滝に人が入り、また何か起こるのではないかと怯えていたあの妻女も、今ではもうすっきりしているだろうか。  紅半纏を着込み、内堀を渡ると、今日はこの雨のせいか馬場には馬番たちの姿もなく、雨を吸った黒い地面には足跡さえも残っていない。これも天気のせいだろうが、柵屋敷全体が眠ったようになっている。  丁重におとないを入れると、応じて出てきた小女に続いて、すぐに妻女が現れた。はずした襷を忙しげに袂《たもと》に入れて、宇佐の顔を見るとふと訝《いぶか》るような表情を浮かべ、それから、「ああ、あのときの引手の人ですね」と笑顔になった。 「あれ以来、ご様子をお伺いすることもなく、失礼をしておりました。その後いかがでございましょうか」  土間のあがり口に正座して、笑顔のまま、山内の妻は、おかげさまで皆本復《  ほんぷく》しましたと答えた。 「それはよろしゅうございました。奥様も、お顔の色が戻られましたね」  山内の妻は少しはにかんだ。「あの折は、わたしも無用に取り乱してしまって、取り越し苦労をいたしました。砥部先生にも、あとでお叱りを受けたのですよ」 「皆様がお元気になられたのでしたら、何よりのことでございます」  気に病むことはなかったようだ。宇佐はもう一度丁寧におじぎをして、去ろうとした。と、妻女がそれを呼び止めた。宇佐はふと先にここへ来たときのことを思い出し、また髪の結い方を訊ねられるのかと思った。あのときにも、ずいぶん興味を持っていたようだったから。  が、山内の妻は別のことを訊いた。「ねえ、あなた、またどなたかのお指図があって、ここに来たのですか」 「は……?」 「砥部先生?」 「いえ奥様。どなたのお指図でもございません。あれきり、お加減を伺うこともしておりませんでしたので、思い立って参ったのでございます」  そうですかと呟いて、妻女は小首をかしげている。 「何かお気持ちに障ることがございましたのでしょうか」宇佐は心して問いかけた。 「いえ、そうではないのですよ」山内の妻は急いで微笑みを浮かべた。「そういうことではないのです。ただ一昨日、町役所からも人が来たものですから」  宇佐はつと目を瞠った。「こちらで食あたりが出たことをお調べに?」 「いいえ。そのお話も、結局はすることになりましたけれども、お訊ねがあったのは、別のことでした」  つい先頃まで山内家で雇われていた老下男が、堀外の町家で急死し、その死にように少々おかしいところがあるので、こちらでの働きぶりについて教えてほしいという用向きだったという。  宇佐は訝った。西番小屋には、町中で変死があったという話など入ってきていない。他の番小屋で扱っていることなのだろう。それでも、よほど不審な死に方なら、回状が回るほどではなくとも、耳に入るはずである。大したことではないのか…。 「そのことでお伺いしたのは、わたくしのような引手ではなく、町役所の役方の・・・・・」  ええ、ええと山内の妻はうなずく。「同心の渡部様という方でした」  渡部一馬だ。宇佐の脳裏に、彼の血走った目と急《せ》き込んだ嗄《しゃが》れ声が蘇った。  (俺は事態を甘く見ていた)  (ひとひねりだぞ、宇佐)  渡部は震えあがっていた。涸滝の屋敷のことからも、加賀様のことからも、井上の琴江様の一件からも、すべて手を引くと。  言葉どおりにして、渡部は自分の職務に戻り、励んでいるのだろう。柵屋敷に関わることなら、これも井上家と同じく公事方の仕事だが、死んだ老下男がすでに山内家の奉公から退き、堀外に住んでいたので、彼が関わることになったに違いない。引手を遣らず、自ら足を運んできたのは、山内家に気を遣ったからであろう。  宇佐はちょっと引っかかった。気を惹かれたと言ってもいい。死に方がおかしいとは、どうおかしいのだろう。 「その人は、いつごろまでこちらにご奉公していたのでしょうか」 「本当に先頃までですよ。先にあなたがこちらを見舞ってくれたときは、まだ働いておりました」 「それでは、その者もやはり食あたりにかかったのでございますか」 「ええ。わたしたちよりはよほど軽かったと思いますが、なにしろ歳が……七十に近いはずでしたから」  食あたりは治ったが、身体に力が戻らず、これではもうお役に立てないと、自らお暇を申し出たのだという。彼が山内家を去ったのは、先に宇佐がここを訪ねた二日後のことだったそうだ。 「下働きだけでなく、畑を作る手伝いもしてくれて、頼りにしていた爺やだったのですが、致し方ありませんでした」  老下男は茂三郎という名で、山内の子供たちも茂《しげ》爺と親しんでいたという。妻女は本当に残念そうな顔であった。 「死んだことは知りませんでしたから、わたしも驚きました。よく働いてくれましたし、当家で患ったことがきっかけになったかもしれないのに看取ってもやれず、可哀相なことをしてしまいました」と、萎《しお》れている。 「軽かったのですし、一度は治っているのですから、食あたりのせいではございませんでしょう。寿命でございますよ、奥様」  そうですねとため息を吐いた。「新しい女中が来てくれたのはいいのですけれど、爺やほどは働いてくれませんでね。難しいものですわ」  指でこめかみを挟む仕草が疲れていた。  山内のような軽輩の家では、どこも、藩からいただく俸禄だけでは生計が立ちゆかない。妻女たちは皆、こっそりと内職にいそしんでいる。柵屋敷のなかでは公然の秘密だが、塔屋の織り子として、身分の低い町人である塔屋頭に追い使われながら働いている妻女もいるほどである。  茂三郎が彼の長屋の一間で死んでいるのが見つかったのは、四日前の朝のことだという。それだけ聞き込んでおいて、宇佐は山内家を出た。さて、渡部一馬はどこにいるのだろう。  あちこち歩いてみたが、結局はこの日、宇佐は渡部一馬を見つけることができなかった。一人前の引手であっても、他所の番小屋の仕事に首を突っ込んでいると思われるのは剣呑だし、ましてや宇佐はまだ見習いの身であるから、山内家の茂三郎の一件についても、あからさまに訪ね回ることはできない。ちょっとばかり胸がつかえるような心持ちで、陽が暮れかかってから西番小屋に帰った。 �おかしな死に方 ″という言葉に興味を惹かれるなど、気分だけはもう充分に遣り手の引手である。何か面白い事件があり、それに関わって忙しくなれば、いろいろなことが吹っ切れる。短い間ではあるが、ひとつ屋根の下で仲良く暮らしたほうと別れる寂しさも、まぎらすことができるだろう。不謹慎ではあるけれど、目先の変わった出来事が起こるのを望む気持ちがあることは、自分でもわかっていた。  西番小屋には花吉がいて、夕餉なのだろう、がつがつと弁当をつかっていた。宇佐の顔を見ると、飯粒を飛ばしながら大声を出した。 「ああ、やっと帰ってきたけ。探してたんだぜ。どこをほっつき歩いてたんだ?」  妙に居丈高である。宇佐は彼が土間に飛ばした飯粒を踏んづけないように脇に避けて、片手を腰にあてた。 「あたしに何か用があったの?」 「何だよ、その口つきは」  花吉はぶりぶりしている。怒りながら飯を食うのはよくない。 「そんなら言い換えましょう。すみません、あたしに何か御用でしたか、花吉さん」  意地悪そうな上目遣いをして、花吉はふんと言った。「こまい仕事がいろいろあったのに、みんな俺に押しつけやがって」 「だから謝っているじゃないか。なんでそんなに機嫌が悪いのさ」 「だいたいおまえは生意気だぜ。女だてらに引手になりたがってるのが、まず考え違いなんだ」  宇佐は睨みつけるような花吉の視線から目をそらし、土間の隅に設けである小さな竈のところに寄って、湯を沸かしにかかった。 「そんなに怒らないでくださいよ」  鉄瓶をかけて、ゆっくり間をとってから、宇佐は言った。 「あたしが何か気に障ることをやったなら、謝りますから。今夜、泊まりなんでしょう。昼間勝手に出歩いていた分、あたしが代わりますよ」  花吉は、弁当がらを脇に放り出した。「見習いなんぞに、小屋の泊まりを任せられるもんか」  宇佐は黙って花吉の顔を見た。処置なしだ。気が済むまでぶりぶりさせておくしかない。  花吉も、根っから意地悪な男ではないのだ。ぶつぶつとひとしきり文句と宇佐の悪口を並べると、自分の言葉に悪酔いしたみたいに顔を青黒くして、口を尖らせた。 「おまえ、ずいぶんと舷洲先生に気に入られてるじゃねえか」  唐突だったので、宇佐は 「え?」と言った。 「どういうこと?」 「いつ取り入ったんだよ。まったく油断がならねえな」 「取り入ってなんかいないよ」 「一時はしきりと通ってたじゃねえか。ここんとこ、足が遠のいてるようだけどさ」  花吉は宇佐をよく見ている。 「啓一郎先生と琴江さまに、いろいろ教わりに伺ってたんだよ。でも琴江さまが亡くなってしまって、行きにくくなって」  琴江のことを思い出したのか、花吉はにわかに神妙な顔つきになった。投げ出していた弁当がらを拾い上げ、片づける。 「お優しい方だったよな」 「うん」 「俺、憧れてた」 「あたしもだよ」  花吉はじっと手元に目を据えてから、やっと宇佐の顔をまともに見た。目尻がひくひくしているが、もう睨んではいない。 「おまえが留守のあいだに、井上家の家人の金居様って方がここに来て、舷洲先生が御用があるから、宇佐を寄越してくれって言づてしていったんだ」  宇佐は驚いた。「何の御用だろう?」  花吉はぺっと吐き出した。「知るもんか。引手に御用なら、俺が伺いますって言ったのに、宇佐でないと駄目だって、木で鼻をくくったみたいな返答だったぜ」  なるほど、だから気を悪くしているのだ。 「あたしにはさっぱり心当たりがないけれど……」  呟きながら、宇佐は、日高山神社で舷洲先生とすれ違ったときのことを考えていた。あのときのご様子からは、宇佐に急ぎの用があるような子細は、まったく感じられなかった。 「きっと急に女手が要るとか、そんなことだよ。今はほうがいないから」  それで思い当たった。目が晴れた。何かしらほうに関わる事柄なんじゃないか。渡部一馬は、井上家ではほうを江戸に帰したいという意向だと言っていたではないか。 「そうだ、きっとほうのことだよ」  宇佐の明るい声に、ああそうかというような表情が、ふっと花吉の顔をかすめた。だが強いてそれを押し返し、わざとらしく拗ねている。 「あの子の身柄のことなら、親分に話が来そうなものじゃねえか。何でおまえなんだよ」 「知らないよ。ほうがあたしのところにいるからじゃないかな。それで、あたしはいつ井上家に伺えばいいの?」  今夜五ツに訪ねてくるようにというおおせだったという。まだだいぶ間がある。 「女中や下男を寄越すんじゃなくて、わざわざ家人の金居様が来たんだぜ。おまえがいなかったんで、がっかりしていたみたいだ。本当なら、すぐにも一緒に連れて行きたいって、迎えに来たみたいな様子だった」  宇佐は眉をひそめた。啓一郎先生のところにお邪魔するとき、金居様にはきちんと挨拶を欠かさないようにしていた。あの家では、他の誰よりも、金居様がいちばん、匙家の格式というものにうるさそうな感じがしたからだ。啓一郎先生も、爺はむやみに角張っていて、困りものだと笑っておられたことがある。その人が直々に来るとは、確かに大事だ。 「匙の家から迎えを寄越されるなんて、おまえはいったい何さまなんだ?」  花吉はまた、思い出したように機嫌を悪くしている。 「俺に内緒で、ひそひそこそこそ動き回ってさ。汚ねえよ」 「花さん。あたしはそんなことしてないよ。本当にしていない。何か大事なことがあったら、必ずあんたに相談する。約束するから」  本気ではないのに、スラスラと嘘が口をついて出てくる。これも世渡りだ。しかし、花吉にこんなふうな見られ方をしているとは驚いた。茂三郎のことで渡部一馬に食いついてみるにしても、花吉に漏れると厄介なことになりそうだ。これからは、もっと注意深くしなくては。 「きっとだぞ。一人で先走って手柄をたてたって、そんなのは認めてやらねえからな。俺だけじゃねえ。番小屋のみんながそう思ってる。おまえは半端もんだってことを、忘れるんじゃねえぞ、宇佐。これまでだってな、俺はいろいろとおまえのせいで割を食ってきたのに、ずっと我慢してきたんだぞ」  ここを先途とばかりに始まった花吉の愚痴と説教を、宇佐はおとなしく、はいはいと聞いていた。心は外へ泳いでいた。舷洲先生の御用がほうのことであり、江戸へ帰されるというお考えならば、思いとどまっていただくようにお願いしなくては。あの子を塔屋に預けるという考えを聞いていただこう。  花吉の言葉が宇佐の頭の上を流れてゆくうちに、時は経ってゆく。宇佐は五ツになるのが待ち遠しく思われた。舷洲先生の用向きは、宇佐にもほうにも思いがけない内容であり、その底には、今しも丸海の町を包み込もうとしている宵闇に似た、ひそやかで音もない、しかし押し返しようのない闇が流れていることを、知る由もなく。      孤独の死     一  堀外の北東の町筋に、通称「飯炊き長屋」と呼ばれる十間長屋がある。  表長屋には八百屋やお菜屋、小間物屋などが並んでおり、どこも「飯炊き」などという看板を掲げてはいない。裏長屋に回ってみても、こまこまと並ぶ障子戸に、ずらり「飯炊き」と書かれているわけでもない。だいたい、飯炊きが独立した生業《なりわい》になるとは思い難い。  では、この珍しい通称の由来はどこにあるのか。  この長屋で一人、ひっそりとつましく暮らす老人たちには、元は丸海藩の藩士たちの屋敷で働く下男であった者が多いのである。それも、ある程度以上の家格の主人を持ち、屋敷のなかに住み込みで奉公していた者たちだ。  丸海のように小さな藩では、藩士といっても、ひと握りの上層部とそれより下の大多数の者たちとでは、懐具合が大いに異なる。どんな役職であれ、そこに「頭」という肩書きがつくくらいの身分でなければ、おいそれと住み込みの奉公人など抱えられるものではないのだ。下働きの小女であろうと、抱えるということは即、養う口がひとつ増えるということなのだから。  それだから、逆にいえば、こうした住み込みの奉公人たちというのは、それなりに食いっぱぐれのない立場にいるということもできる。主人がよほどの不祥事を起こし、禄を失う羽目にでもならない限りは、最低限の暮らしは保証してもらえるのだから。  しかし、彼らとて歳はとる。なまじ長生きをし、老齢になり、足腰が弱って働けなくなれば、当然のことながらおひまを出される。すると、彼らは仕事と同時に住む家も失ってしまう。  日々の暮らしの大半が主人の屋敷のなかだけに限定されていた彼らは、自身の家族を持っていない場合も多いので、頼るあてもない。もちろん、雇い主たちもそれ相応の家格だから、働けなくなった下男を塵芥のように捨てるというのでは世間体も悪いので、いくばくかの金は包んで持たせる。しかし、その程度の金子では、老いさらばえてからいきなり堀外の町場に放り出されて、これからはすべて一人で何とかしなくてはならないという不安を、買い支えることなど到底できるものではない。  飯炊き長屋の家主《いえぬし》は巴《ともえ》屋八郎兵衛という五十過ぎの男で、彼の家は代々、はるばると金比羅様にお参りに来る旅人たちを相手に、飯屋や土産物屋を営んできた。もとより丸海という小藩に大商人がいるはずもないが、そこそこ裕福であることに間違いはない。また丸海では、土産物屋という商いは、藩の勝手方や勘定方という重職にある藩士たちと、実はけっこう密なつながりがある。  さて、この八郎兵衛は面倒見のいい男でもある。気がきいて腰が低く、目先の損得にばかり目尻をぴりぴりさせる気《た》質《ち》でもないから、何かとつながりのある藩の役人たちに、あれこれと用を頼まれることも多い。そんななかで、勘定方の書記役を務めるある役人から、代々当家に奉公していた老下男がすっかり衰え、暇をとらせることになったが、今後のことが案じられる故、何とか身の振り方を考えてやってはくれないかという相談を持ちかけられたのは、八年ばかり前のことであった。  先方は、八郎兵衛が十間長屋の家主であることを承知した上で相談している。八郎兵衛も快く引き受け、当時はまだ八郎兵衛の土産物屋の屋号をとって「巴屋長屋」と呼ばれていたところに、老下男を迎え入れた。  相手は爺さまである。さすがに足腰は弱っており、力仕事はとうてい無理だ。しかし頭はまだまだはっきりしているし、本人も、些少な蓄えを食いつぶしながら不安に暮らしてゆくよりも、できれば働きたいと願っていた。  そこで八郎兵衛は頭を使った。塔屋というところには、大勢の織り子や染め手たちが住み込んでいる。だいたいが女たちだが、子供も多い。一年を通して寝る間も惜しいほどに忙しいこの女たちは、家事も助けあってこなしているが、ひとつの塔屋でも多いところでは三十人からの寄り合い所帯だから、日に二度の食事の支度だけでもたいへんな負担だ。  だから、そこへ爺さまを送り込もうというのである。薪割りだ水汲みだという仕事は無理でも、炊事ならばできるのではないか。老人だけに、朝は途方もなく早起きだというのも向いている。  本人に訊いてみると、奉公していた屋敷では、台所仕事は女中たちの分担だったが、爺さまにもひととおりの心得はあるという。下男というのは、細かいことなら何でもやらねばならない立場だから不思議はない。ぜひ働きたいというから、八郎兵衛は勇んで、心当たりの塔屋に話を持ちかけてみた。  塔屋でも喜んで爺さまを呼び入れた。ひとつのところで事が上手く運ぶと、並びの塔屋でも、うちの方も手伝ってはもらえないかと言い始める。爺さまは喜んで働く。三軒、四軒と塔屋を掛け持ちし、五軒目はさすがに無理だと嬉しい悲鳴をあげるほどの上首尾であった。  丸海の城下町では、口入屋はもっぱら藩士たちに奉公人を世話するのが専門で、町場での人のやりくりにはロを挟まない習慣がある。そういう周旋は、堀外の町では家主の、漁師町では潮見の仕事なのだ。だから、八郎兵衛の計らいが上手く当たると、口入屋のなかには小うるさい文句を言ってくる者もいたのだが、八郎兵衛は相手にしなかった。これから藩士のお屋敷にあがろうという者を周旋したのならば差配違いだが、お暇を出されて町場に戻った奉公人の身の振り方を考えてやるのならば、こちらの仕事だ。  それに口入屋の連中は、看板こそそう掲げてはいるが、こんな小藩では、それだけで喰っていくことなどできないから、実は藩士相手の小金貸しこそが本業なのである。町場にあっても、町の暮らしとはほとんど切れている。周旋しようにも、伝《つ》手《て》がないではないか。  そのうちに、「実は当家の女中頭が」「当家でも下男が」というような話が、八郎兵衛の元に舞い込むようになった。八郎兵衛はこれらの話にも、喜んで骨を折ってやった。丸海には塔屋は数多い。そこで働く女たちは、飯炊きだけでなく、長い武家暮らしで行儀のひととおりを身につけた老奉公人たちに、子供の世話や躾も頼みたい。下男や女中では、武家の行儀といってもたかが知れているが、それでも「あたしたちよりはずっとましなはずだから」というのが気持ちだ。  こうして、いつの間には巴長屋には、三人、四人、五人と、元下男や女中たちが住み暮らすようになってしまった。八年の間に、八郎兵衛が最期を看取ってやった者も、すでに三人いる。  これが、「飯炊き長屋」という通称の由来であった。  山内家でよく働いた下男、子供たちにも茂爺と親しまれていたという茂三郎も、飯炊き長屋の住人であった。彼が四畳半一間の小さな家で死んでいるのを見つけたのも、八郎兵衛本人である。  茂三郎が山内家から下がってきたのはほんの半月ばかり前のことだから、飯炊き長屋では新参者である。かなり身体が弱っているようだった。それだから八郎兵衛も、すぐには塔屋務めは無理だろうと思っていた。ただ本人は働きたがっていたから、具合をみながら、うまく折り合いのつく塔屋を探してやろうという腹づもりでいた。一日に一度は足を運び、あるいは店の者を遣って、茂三郎の顔を見るようにも心がけていた。これが八郎兵衛の面倒見のいいところだ。  それが四日前の朝のことである。前日、遣いにやった店の者が、茂三郎さんは何やら萎えて元気がなかったというものだから、八郎兵衛は自ら御神輿をあげて、飯炊き長屋にやってきた。声をかけても返事がないので、戸口を開けてのぞいてみると、煎餅布団を敷いてきちんと仰向けになり、茂三郎が事切れているのを見つけたのだった。夜着に乱れもなく、顔も寝顔そのままだったので、すぐには死んでいるとわからなかった。痩せた手を取ったら冷たかったので、ようやくこれはと悟ったのだ。そして仏に合掌して、そのまま近くの番小屋に向かったのである。  あれほど弱っていたのだから、病死だろうと思った。気の毒なことではあるが、寿命だろうと。番小屋に行ったのは、あくまでもそれが手続きだからだ。  八郎兵衛が駆け込んだのは東番小屋で、ここの頭である常次という親分とは顔馴染みである。朝のことでまだ常次親分はいなかったが、手下の報せですぐに駆けつけてきて、一緒に飯炊き長屋に行ってくれた。一方で引手を町役所に走らせ、検屍のお役人を呼んでくれるよう計らってもくれた。  常次も、茂三郎を病死と見た。歳はいくつだ。七十と申していました。それじゃあ不足もあるまい。そこへのっそりと検屍のお役人が来た。井崎というこの同心に、八郎兵衛は先にも会ったことがある。町役所ではもう二十年以上も検屍役を務めている御仁なので、店子がひっそり一人で死んでしまったような場合には、嫌でも顔を拝むことになるし、また城下では流行病の死人が出たり、大勢がいっぺんに食あたりにかかったような時でも、この旦那がやってくるからである。  井崎は、茂三郎の亡骸をひととおり検めると、八郎兵衛に、この男も飯炊きの一人かと尋ねた。飯炊き長屋の由縁を承知していたのである。そこで八郎兵衛が子細を話すと、井崎の茫洋として見ようによってはしまりの無い顔が、つと歪んだ。 「山内家にいた下男か」と、彼は呟いた。 「そこで奉公しているうちに、食あたりにあったということを言ってはいなかったか? ごく最近だ。やはり半月ばかり前だから、茂三郎が暇乞いをする直前だろうと思うが」  八郎兵衛には初耳だった。茂三郎は、そんなことはまったく口にしていなかった。ただ寄る年波で身体が弱り、下男奉公が務まらなくなったと話しただけである。  しかし、確かに山内家の者たちは食あたりで悩まされたのだ。砥部先生が診察して薬を出したのだから間違いない。自分はそれを、先生から直にうかがったと井崎は言った。 「少し調べてみねばならんな」と、井崎は言うのだった。八郎兵衛も常次も驚いた。 「病死ではございませんか」 「少々怪しい節がある」  八郎兵衛と常次は、今度はただ驚くのではなく、大いに驚いて恐れた。手練れの検屍役である井崎が言うのだから、徒《あだ》やおろそかな「怪しい」ではない。  しかしなぁ‥‥‥と、井崎は茫洋として、長屋の低い天井を仰いだ。 「私は今御用繁多で、このことに深入りするわけにはいかんのだ。私が見込んでいる若い同心を代わりに探索に寄越そうと思うのだが」  渡部一馬という男だと、井崎は言った。 「常次は知っているか」 「はい、町場の見回りをしておいでの方でございますね」 「うむ。少々短気が損気のところのある男だが、なかなかどうして勘がいい。まだ本人に訊いてみたことはないのだが、検屍役には向いている」  誰も気づいてはくれないが、私ももう歳なのだと井崎は言う。検屍と言えば井崎だと頼りにされてここまで来たが、そろそろお役を退く年限も見えてきた。後継者を育てねばならない。 「もっとも、検屍役などに就いてしまうと、出世の道からは遠のくからなぁ」と、井崎はのんびり笑った。この旦那はどういうわけか、いつも髷の結い方が緩いので、身体を揺すって笑うと髷も一緒に頼りなげにずれる。 「私らは、井崎の旦那のお見立てでしたら間違いないと存じますので」 「それなら、すぐに渡部を寄越そう。亡骸はまだこのままにしておいてくれ。茂三郎の身の回りの物にも手を触れてはいかん。戸口には見張りに引手を置いてくれ。誰もなかに入れぬような」  それから、誰か山内家に人を遣り、茂三郎が死んだことを報せてくれと付け加え、井崎は引き上げていった。  渡部一馬は、それからすぐにやって来た。小柄ながら引き締まった体躯にぐりぐり眼、太い眉毛は、確かに短気そうであった。歳はまだ三十前だろう。ただ、尖った顎や目のまわりの薄い隈に、妙に窶《やつ》れたような気配が漂う。八郎兵衛には気になった。  半刻かそこら、渡部は茂三郎の亡骸と、彼の住まいを調べていた。やっと出てくると、忠犬のように控えていた常次に、手下の引手を一人貸してくれと言った。 「格別|切者《きれもの》でなくていい。いわれたことをちゃんとできる者なら誰でもかまわん」  この言い様も短気である。 「亡骸はまだそのままにしておけ。葬ってはいけない。この家も、当分のあいだ閉め切りだ」  まだまだ調べることがある、という。そして八郎兵衛から、茂三郎が飯炊き長屋に来たときのいきさつを、ひととおり聞き出して帰っていった。  が、それきり一日経っても二日経っても、渡部は何も言ってこない。亡骸はそのままである。これには困った。さすがに往生して、常次親分を通して頼んでもらうと、それなら葬ってもいいという返事がきた。またぞろ短気なもの言いだったと、常次親分は眉根を寄せていた。 「あの旦那、本当に頼りにしていいもんかね」  店子を冥土へ送る手配は初めてでないので、八郎兵衛はてきぱきと動いた。渡部の切って投げて寄越すようなもの言いに、常次もとりつきようがないのだろう、ただハイハイと応じていた。  八郎兵衛の計らいで、茂三郎は本條寺に葬られることになった。事が起こって三日目の昼に、彼は土の下に永眠した。山内家からも格別の見舞いはなく、身寄りも見つからなかったので、住職の読経を聞いたのは、結局八郎兵衛一人であった。  そのときになって、ぼんやりと思った。もっぱら検屍役を務めてきた井崎の旦那の、「御用繁多」とはどういうことだろう……と。        二  渡部一馬は躊躇《ためら》っていた。  茂三郎が死んで、今日はすでに四日目である。井崎からは、この件はすべておまえに預ける、あんじょう解決してくれと言い渡されたきりだ。 「検屍役などごめんこうむるというのならば詮無いことだが、少しでもやる気があるならば、ひと働きしてみせてくれ」  丸海の町役所では、検屍役の仕事は、ただ変死者の死因を見分けるだけに終わらない。その後の探索と指揮をとる —— というのは大げさだが、道をつけるところまでやらなければならない。  町場で起こる事件に、前後の事情のよくわからない「人死に」というのは数少ない。喧嘩で相手を殴り殺すとか、男女の諍《いさか》いでカッとなって刃物で刺してしまうということならば、下手人はその場であがる。また押し込み強盗や辻斬りにも——これもまた起こること自体が稀だが——検屍役の出番はない。町役所には、その手の探索を担う「番方」という係があるからだ。  亡骸があって、どうも不審な死に方だ —— という時に限って検屍役の出番となるのである。だからこそ、これまでずっと、井崎一人で用が足りてきた。  渡部は、その跡継ぎに見込まれてしまった。  もとより渡部も、栄達の道など望んではいない。彼の父親も町役所の同心だったが、ずっと今の渡部と同じように町廻りをしていて、晩年の数年、諸式目付係という、諸物価を監視するお役目についただけだった。これは主に参拝客の旅寵賃などをめぐって不正が起こらないように睨みをきかせるのが仕事だが、実は閑職である。丸海の町は金比羅様への通過点でしかないので、店賃、駕籠賃、馬代、人足の手当のいずれにしても、金比羅様のお膝元の旅籠町や仲兄世でつけている以上の値をつけることはできない。それが自然に監視の役目を果たしている。  父と同じような役人人生を歩む。道はそれで決まりだと、渡部は思っていた。自分に跡目を譲ると、ほっとしたようにすぐ死んでしまった父親も、それ以上のことを望んではいなかったはずだ。だいたい、町役所の同心や同心小頭になる家柄の者は、藩政の主流に関わるようなところに達することなど、最《は》初《な》からできないようになっている。昨今、飛び抜けて財政に長けているということでもなければ、そこから引き抜かれて上へのぼることなどできはしない。剣の腕前など、鍛えても何の意味もないのはもちろんだ。  どうせ頭打ちであるならば、柵屋敷に居並ぶ小役に混じって、日々決まり切った登城と下城を繰り返しては、畳に額を擦りつけながら、少ない禄に汲々とし、妻女を内職に励ませる。そんな窮屈貧乏に暮らすよりも、町役人の方がずっと気が楽だ。それが渡部の腹のくくりようだった。  そんな自分が身の程を忘れ、つかの間でも夢を見たのは、匙の家の娘に心を寄せた、あの一時のことだけだった。しかしその夢は破れた。井上の琴江が渡部の元に嫁ぐなど、何をどう逆さまにしても起こるはずのないことだから、どのみち早晩敗れる夢ではあった。しかし、琴江の横死という形で破られるとは、せいぜい世間を知ったつもりになっている渡部にも、さすがに予想のつかない結末だった。  それは深く彼を傷つけた。琴江の悲惨な死に方と、それに対してまったく手出しをすることのできない己の惨めさが、彼の心を底から破った。  琴江の死を隠そうとする闇の深さと、その凶暴さに、怖気をふるって逃げ出してしまった。そんな自分に愛想がつきた。それでも夜眠って朝起きればまた一日が始まり、ふらふらと町を見回らなければならぬ。琴江のいなくなった丸海の町に、もう何の守る甲斐も感じられはしないのに。  深酒が過ぎると、上役から注意されることもしばしばである。度の過ぎた飲酒は肌を荒らし、目を傷めるから隠しようがない。  そんな渡部を、検屍一筋で生きてきた井崎が「見込んでいる」という。  鬱々としていた渡部は、最初、井崎の話を鼻先で聞き流していた。このところ井崎が妙に忙しげであることには気づいていたが、彼の動きに格段の興味を持っていたわけではないので、自分でやればいいではないかと思っていたのだ。ところが井崎はやたらと渡部を焚きつける。そしてこんなことを言った。 「おまえは匙の井上家と親しいそうじゃないか。若先生の啓一郎殿と懇意だと聞いている。町役所の検屍役にとって、匙の家とのつながりは大切だ。日頃からいろいろと学び、それを御用に活かすことができる。俺も砥部先生や、それ以前には香坂の先生に教えを請うてきた。俺がおまえを見込むのには、そのことも含まれているのだ」  とっさに渡部は、私と井上の家とのつながりは切れましたと言い返しそうになった。しかし、その言葉が出なかった。琴江の優しい笑顔が、ふと脳裏を横切ったからである。 (そのように捨て鉢になられるのは、短気な渡部様の損気のところでございますよ)  井上家に啓一郎を訪ねて語らい、時には一緒に酒を飲み、そんな席で渡部が尖ったことを言い放つと、琴江はいつもそんなふうにやわらかく諫めてくれたものだった。  琴江が殺され、その真相を押し隠したことで、啓一郎と渡部は共通の暗い秘密を抱くことになった。  琴江の件は公事方の差配だから、そも渡部には手の出しようがないことはわかっていた。それでも手の打ちようはある。あのほうという娘の話を聞いただけですぐに、下手人は梶原の美祢だと確信を持ったから、そのときは本当にそのつもりだったのだ。証拠を固めて働きかければ、公事方とて知らん顔はできなくなるだろうと思っていたのだ。  だから公事方が井上家から引き上げるとすぐに、渡部は啓一郎と会った。そして彼に、事が渡部の考えているほど単純ではないこと、琴江の件の真相を明らかにすることが、そのまま丸海藩の浮沈につながると説き聞かされた。  最初は、妹を殺されたというのに、何を腑抜けたことを言っているのかと、渡部は憤った。しかし諄々と説く啓一郎の話を聞いているうちに、次第に煮えていた腹が冷え、やがては背中まで寒くなってきた。  加賀殿お預かりにからみ、江戸表でもすでに不穏な出来事が何度か起こっているという。加賀殿が無事に丸海に入るまで、いや、入ってからも、一時たりと気を緩めることはできないのだと啓一郎は言った。  ——— 琴江のことがなかったら、これは本来、おまえの耳に入れるべきことではない。丸海の町の治安を与るおまえには、おまえの役分を果たしてもらえばそれでいいのだから。  しかし、梶原の美祢をひっとらえたいと頭に血をのぼらせている渡部を鎮めるには、深い事情をうち明けるしか方法がないのだと、啓一郎は謝るように述べたのだった。  短気者は皆似たようなものだが、渡部も本来は小心である。怖がりだから、すぐ怒るのだ。琴江の仇を打ちたいという思いを燃やしつつも、付け入る隙のない啓一郎の抗弁に、心が頭から水をかぶるような思いを味わった。  これは俺などの手に負える事柄ではないのだ。  だからその後、本篠寺で錯乱してしまったほうを相手に、必要以上に強面に出てしまったのだった。あの子には、事件の直後に会ったときには、高ぶるままに、自分を手伝ってくれとまで持ちかけた。その子供に向かって、舌の根も乾かぬうちに、まるで逆の態度をとったのだ。隠さねばならぬ。すべて隠さねばならぬ。これは大事なのだ。関わるな。知らぬ顔をしろ。上がったり下がったり、半日のうちに乱高下した渡部の心は、彼自身の内から飛び出して、勝手にふるまっていたのかもしれない。  だから引手の宇佐という小娘にも、同じようなことを言って脅しつけた。自分が怖がっている分、宇佐も怖がらせてやりたかったのだ。  何という小心。  情けなく恥ずかしく、口惜しい。しかし恐ろしい。そのぐるぐる回る出口のない想いが、半月足らずのあいだにすっかり渡部を憔悴させてしまった。  琴江のことは、強いて思い出さないように務めてきた。会わせる顔がない。  だから井崎の申し出に、それを後押しするように蘇った琴江の笑顔に、渡部は心底驚いたのだった。まるで、俺の卑怯で惨めったらしい変節を、許そうとするかのようではないか ———  もちろんそれも、渡部の勝手な思いこみに過ぎない。琴江はもう死に、死者は語らぬものなのだから。  それでも脳裏に浮かぶ琴江の笑顔は、渡部が鼻先で聞き流そうとしていた井崎の言葉を、ちゃんと聞き取り、受け入れるようにと語りかけてきた。  だから渡部は引き受けた。自分が井崎の跡継ぎになれるとは思えないが、とにかく目の前の茂三郎の変死という事件に向き合ってみようと。  そして今、躊躇い迷っている。  茂三郎の周辺は、ひととおり聞き込んだ。彼が山内家を去る直前、おかしな食あたりがあって、家人たちも茂三郎も苦しんだという事実も確認した。茂三郎は山内の妻女に、その食あたりですっかり身体が弱ってしまったので、もうお役に立てないと暇乞いをしたのだという。  井崎は、毒物を疑っていた。茂三郎が自分で呑んだのか、知らないうちに誰かに盛られたのかはわからないが、あれは病死でも老衰でもない、と。 「口元から、妙な臭いがした。おまえも鼻を近づけて嗅いでみろ」  毒と聞いて渡部がすぐに思いあたるのは、鼠退治に使われる石見銀山くらいのものである。が、あの臭いとは違うと井崎は言った。 「これまで嗅いだことのない、酸っぱいようなおかしな臭いだ。俺も毒死はそこそこの数を見てきたつもりだが、あの臭いには思い当たるところがない」  本来なら、すぐ砥部先生におうかがいするのだがと、ここで井崎は声を潜めた。 「おまえは知らぬだろうが、砥部先生は今、加賀殿付きのお世話医師という大役を務めておられる」  匙七家では、新参者の砥部家が加賀殿のお世話医師に選ばれるまでに、かなりの紆余曲折があったのだという。幕府からお預かりした流人の脈をとるのだから、もちろん藩の御典医である匙の家の医師でなくてはならない。しかし、加賀殿は大罪人である。藩主の主治医と言える匙の筆頭を世話医師にしては、幕府に対して非礼にあたるかもしれぬ。かの大逆人を、藩主と同じように厚遇するのかと問われたら、言い訳ができない。  当初、井上の舷洲先生が自らお世話医師になることを申し出たが、退けられた。井上家は匙筆頭の杉田家に継ぐ家柄である。流人の係医にはふさわしくないと、当の杉田家から反対が出た。さんざん侃《かん》々《かん》諤《がく》々《がく》やって、結局は砥部先生がお世話医師を務め、歳若く経験の浅い先生を、舷洲先生が後見するという二段構えの形に決まったのだそうだ。 「もともと舷洲先生は、砥部先生と師弟のような間柄だからな」  長く検屍役を務めてきた井崎は、匙家の事情にも通じているらしい。 「砥部先生はご心労が多いことですね」  やっとそれだけしか言えなかったのだが、井崎は深くうなずき、 「だから俺も、今先生を煩わすわけにはいかないのだ。おまえは井上の啓一郎先生を頼るといい。若先生も腕がいいと評判だ。茂三郎の死にようと、毒物の疑いがあることをよく話して、お知恵を借りるのだ」  できれば、若先生に茂三郎の亡骸を検めていただくといいだろうとも言った。 「井上の家では町の診察もされているし、舷洲先生ではなく若先生だから、出てきていただいても、さほど大事には見えまい。ただ、町場の者の口に戸を立てることはできないからな。目立たぬようにすることだ」  琴江が死ぬ以前の渡部なら、それを聞いてすぐに井上家に足を向けていたろう。まず啓一郎に事情を話し、それから一緒に飯炊き長屋へ赴く。  しかしそれができなかった。琴江にあわせる顔はないが、啓一郎とは互いの顔を見たくない。そこに後ろめたさが映っている。少なくとも渡部にはそう思えてならない。  できるだけ啓一郎に頼らず、自分の頭で何とかしよう。そう考えた。が、気ばかり焦って上手くいかない。毒物のことなど、素人が調べてもすぐ壁にぶち当たる。そうこうしているうちに、亡骸を置きっぱなしにしてある飯炊き長屋から泣きつかれて、ここでも短気の虫が飛び出し、それならもう葬っていいと答えてしまった。確か葬儀は昨日の昼に行われたはずだ。本篠寺だと聞いている。あそこには無縁仏を葬る投げ込み墓があるのである。  空回りだと、自分でも思う。  そして今、ようやく井上家に通じる坂道を登りながら、まだぐずぐずと後じさりしそうになる己が、渡部は心底嫌になっているのだった。  何事もなかったような顔をして、啓一郎に会えるか。啓一郎は大丈夫だろう。あれはそういう奴だ。おとなしげだが、実はもともと腹が据わっている。大切な妹を失い、その傷を覆い隠した時に、それがさらに重く深いところにまで座ってしまった。それでも、きっと進んで渡部の力になってくれるだろう。渡部がしゃんとしてお役目に戻ったことを、喜んでさえくれることだろう。  しかし、俺は自信がない。啓一郎と相対したら、くどくど言い訳をしたり嘆いたり、琴江の死を蒸し返してしまいそうな気がする。  今度こそ、井崎と話したときにふと蘇った琴江の笑顔を、強いて思い出そうとしてみる。せっかくやる気を取り戻したのだから、これまでと同じように、お兄さまと親しい間柄に戻ってください。琴江がそう言ってくれていると、心に言い聞かせてみる。  重たい足を引きずって、渡部は歩く。井上家の門が見えてきた。  と、そのとき、たぶん勝手口の方から出てきたのだろう。井上家の塀の角を曲がって、あの引手の娘、宇佐がこちらにやって来ることに気がついた。  何の用があったのだろう。宇佐もまた、ずるずると足を引きずっている。俯いた顔はまだよく見えないが、けっして陽気な風情ではない。  嫌だな —— と思ったが、隠れるのもおかしい。渡部は立ち止まって待ち受けた。  距離が詰まってくると、宇佐が小娘には似合わぬ険しい表情をして、眉間にしわまで刻んでいるのがわかった。何か深く考え込んでいるらしく、そこに渡部がいることに、まったく気づかない様子である。 「おい」と声をかけた。  宇佐は文字通り飛び上がった。道の脇の下草の方までぱっと飛んで、身構える。渡部は思わず吹き出してしまった。 「さすがにうさぎだな。よく跳ねる」  宇佐はまだ飛び出しそうなほどに目を瞠っていたが、頬には血がのぼってきた。奥歯を噛みしめているらしい。顎が強ばっている。 「すまん。脅かすつもりはなかった」  謝る言葉にも耳を貸さない風で、目をそらし、すぐ脇を通り過ぎてゆく。渡部は少したじろいだ。 「啓一郎に会ってきたのか?」と、宇佐の痩せた背中に向かって問いかけた。 「俺もこれから御用の向きで——」  宇佐はどんどん行ってしまう。生意気で癪にさわるというより、何やら不穏なものを感じて、渡部は二、三歩追いかけた。 「おい、挨拶ぐらいしたらどうだ!」  宇佐は振り返りもせず、むしろ足を速めた。  とっさに、渡部は思いついた。声を張りあげる。「なあ、おまえのいる西番小屋には、飯炊き長屋の一件は耳に入っちゃいないか?」  宇佐はとっとと足を運んでいたが、つんのめるようにして停まった。首だけよじってこちらを見る。 「飯炊き長屋?」 「うむ」渡部はもう二歩近寄って、うなずいた。「常次から何か聞いてないけ?」  宇佐はちょっとまばたきした。向き直る。 「東番小屋で扱ってることなら、あたしらは知らないこともあります」  真面目な口調ではあったが、頬の強ばりもそのまま、心ここにあらずという目の色にも変わりはない。 「そうか」渡部は言って、少し声を和らげた。「おまえ、元気がないな。さっきはまるで鬼のような顔をしていたぞ。啓一郎に叱られたのけ」  ようやく、宇佐の表情が本当に動いた。また赤くなる。 「渡部さまには関係のないことです」 「まあ、そうだ」渡部は笑ってみせた。そして、飯炊き長屋のことなどではなく、宇佐には本当に尋ねたいことがあるのを思い出した。 「あの、ほうという子な。元気か。今どうしてる? 嘉介親分のところに厄介になって——」  とたんに宇佐の顔がくしゃくしゃになり、今にも泣き出しそうに歪んだので、渡部は言葉を言いきることができなかった。 「何だ。どうした」砂利を踏みながら近づいて、渡部は宇佐の肩に手をかけた。胸に不安の黒雲がたちこめた。もしやあの子に何かあったのだろうか。それで宇佐は取り乱しているのか?  しかし宇佐は、肩を振って渡部の手を払いのけた。「何でもありません」 「嘘をつくな」 「嘘じゃないです。渡部さまには関わりのないことだって言ってるだけです」 「あの子がどうかしたのけ? 俺は・・・・俺はあの子にはちとすまんことをしたから、気になっているんだ」 「ほうのことは、あたしが面倒みますから大丈夫です」宇佐は語気を強めて言い捨てたが、語調とは裏腹に、瞳には涙が溜まり始めた。 「おまえが世話をしてるのか。で・・・・そうか、あの子が病気なのだな」  だから宇佐は啓一郎を訪ねてきたのだ。持ち前の短気さで、渡部は一途にそう思いこんでしまった。 「啓一郎は何と言ってる。病は重いのか?」  宇佐は出し抜けに拳を握ると、しゃにむにそれを振り上げて叫んだ。 「そんなんじゃない! 違います。放っておいてください!」  荒々しい動作に、溜まっていた涙が転がり落ちた。宇佐は泣きながら、肩で息をしている。渡部は、本当に拳で打たれたわけではないが、それと同じくらいに驚いてしまい、ただまじまじと宇佐を見つめるばかりであった。 「す、すみません」  あわてて手の甲で顔を拭い、宇佐は渡部に頭を下げた。うわっと怒鳴ったことで、我にかえったようだ。 「失礼をいたしました。あたし、早く番小屋に帰らないと、嘉介親分に叱られます」  背を向けて、逃げるように駆け出した。渡部は宇佐の後ろ姿が木立の向こうに消えてしまうまで、呆気にとられて見送った。     三  久しぶりの訪問であるし、琴江のことでは、井上家の誰に対しても悔やみを述べずに今まできてしまったから、今日はきちんと玄関で訪《おとな》ないを入れるつもりだった。が、宇佐のあの様子に心が騒いでしまい、どうにも落ち着かなくなってしまった。  結局、これまでずっとそうしてきたように、塀を回って、屋敷の裏手にある生け垣の切れ目からなかに入ることにした。こうすると、啓一郎の診療室のすぐ脇に出る。勝手知ったる他人の家だ。  こうして訪ねるとき、診療室に琴江もいると、すぐに目聡く見つけて、 「お兄さま、渡部さまがおいでですよ」  優しい声で啓一郎に呼びかけたものだ。啓一郎は、診療で忙しかったり、書物を読みふけっていたりすると、渡部が診療室の縁先まで来て声をかけても、気づかないことがあった。一度、渡部は彼の来訪に気づいた琴江に、(内緒、内緒)と指を立ててみせて、琴江もいたずらっぼくうなずいて、いったいいつになったら啓一郎が目を上げて渡部を見るか、試してみようとしたことがある。そのときの啓一郎は、後で聞いたら長崎から取り寄せたばかりだという医学書を読んでいたそうで、渡部が縁先に腰をおろしても、こほんと咳払いをしても、一向に反応しない。そのときの琴江は、別の医学書を筆写しているところだったのだが、とうとうこらえかねて筆を置き、口元に手をあててころころと笑い出してしまった。つられて渡部も笑った。それでようやく啓一郎も気がついて、 「何だ、そんなところで何をしている? 何を笑っているのだ」  まるで寝ぼけたように言ったので、琴江と渡部はさらに笑い転げた。  懐かしい思い出だ。琴江は笑顔も美しかった。のびのびと心を広げて、大らかな声で笑ったものだ。  啓一郎は診療室にいた。縁先の明るい場所で薬研を使っている。一人きりである。患者たちを診る時刻ではないようだ。あるいは日が違うのか。足が遠のいていたのはひと月足らずのことなのに、もう渡部には見当がつかなくなっていた。  驚いたことに、渡部が声をかけかねているうちに、啓一郎の方から先に呼びかけてきた。 「一《かず》さんじゃないか」  啓一郎はいつも、渡部をそう呼ぶ。道場で同門のよしみの親しさがにじみ出ている。  うんと応じて、渡部は植え込みを回って近づいた。 「久しぶりだ」啓一郎は乾いたぎしぎしという音をたてながら、慣れた手つきで薬研を動かしている。彼の様子だけを見るならば、何の変わったところもない。今にも琴江が、「あ、渡部さま」と言いながら、そこの障子の陰から出てきそうな気がする。  確かに久しぶりである。不義理が続いている。それ以上に気まずく辛いものもある。渡部は、それらの入り混じった感情の山に押しつぶされそうな気分だった。胸が重い。 「急ぎの用かい? 済まないが、この薬を作ってしまったら、往診の約束がひとつあるのだ。柵屋敷まで行かねばならない」 「かまわんよ。こっちこそ邪魔してすまん」 「何を他人行儀な」啓一郎は穏和に目を細めて笑った。「琴江がいたら、渡部さまはどうしてそんな堅苦しい顔をなさっているのですかと、心配するところだ」  いきなり琴江の名前が出たので、渡部は思わず目を伏せてしまった。  突然、後悔の雲がにわか荒れのようにむくむくと巻き起こって、渡部の心を押し潰す。琴江は毒死した。その傷を抱えつつ、別の毒死と疑わしい変死について啓一郎の意見を聞こうとするなど、やはり無謀なことだった。できぬ。俺にはできぬ。  棒立ちになっている渡部に、啓一郎は声をかけてきた。 「どうしたんだ。鬼のような顔をして」  渡部は何も言えない。 「わかっているよ」と、啓一郎は続けた。「私も一さんとは顔を合わせにくいと感じていた。何とかしたいと思ってはいたが、こっちから身軽に会いに行くことも難しいし、かえってそんなことはしない方がいいかとも思った。もっと時が経って・・・・いろいろと癒えるまでは」  だが来てもらえて良かったと、啓一郎は言うのだった。渡部に先回りして地《じ》均《なら》しをしているのだ。 「それは何だ」と、薬研の中身を指して、ようやく渡部は尋ねた。乾燥させた木っ端のようなものが入っている。 「匙の井上家秘伝の熱冷ましだ」 「へえ、ごたいそうじゃないか」 「そりゃそうさ。匙家にはそれぞれ、一子相伝の秘薬があるのだ。これは我が家だけの秘密の処方だ」 「そんな大切なものを、俺なんかに見せていいのけ?」 「一さんは、見たってわかるまい」  啓一郎は笑っている。 「御用の向きのお尋ねかい? 何か私で役に立てることがあるのだろうか」 「……察しがいいな」 「気まずさと気億劫を押して一さんが尋ねてくるなら、お役目がらみと決まっている。いずれそういうことがあるだろうと、待つ甲《か》斐《い》もあった」  本当によく頭の回る男だ。 「そうだ。そうなのだが……ここに来てやはり、俺はすくんでしまった。おまえを訪ねてきたのは、検屍役の井崎様に勧められたからなのだが……しかし……」  言いよどむ渡部にまたも先回りをして、穏やかな口調のまま、啓一郎は尋ねた。 「では、毒死の疑いがある変死かな」  渡部は黙っていた。口元がひくひくと引きつるのを感じる。 「だったら、話してごらんよ」啓一郎は、気さくな朋友の口調になって言った。 「そうか、井崎殿は砥部先生を煩わせまいと、気をかねているのだね。いかにも井崎殿らしい」  見抜いている。渡部は強ばった身体のまま縁先に腰をおろした。 「井崎様が砥部先生と懇意であることは、よく知られているのか?」 「ああ。匙家のなかでも古参の家は気位が高くて、町役所の小役人など相手にせぬという気風がある。だが砥部先生はいちばんの新参だから、大らかなのだ」 「おまえのこの井上家だって、古参の家のひとつじゃないか」 「そうだね」と、啓一郎はまた笑った。「しかしうちの父は �叱られ舷洲 ″ だ。今さら気位も何もあったものではない。例外さ。だから砥部先生とも気があうらしい」  古参の変わり者と、型破りの新参者か。  ままよ、今はそれよりも先に用件がある。ひとつ息をついてから、啓一郎に、飯炊き長屋の茂三郎の一件を逐一語って聞かせた。  話がひととおり終わるころには、薬研の中身はさらさらの粉になっていた。啓一郎は脇机の上にきちんと並べた焼き物の匙を取り上げると、軽くその粉をかき回した。それから膝をついて立ち上がり、後ろの小引出しから薬を包む薄く白い紙を取り出して戻ってきた。  これらの作業も、かつては琴江が手まめにしていたことである。  正確に焼き物の匙のすり切り一杯ずつ、薬をすくっては包みながら、啓一郎は言った。 「それで一さんは、何を知りたいのだ」 「何って……」 「井崎殿は、茂三郎には毒死の疑いがあると睨んでおられるわけだろう。そして、その毒に、あれほどの手練れの人でも思い当たるところがない、と」 「うむ、そうだ」 「だからその毒の種類の目星をつけてほしいということであるならば、申し訳ないが私では役に立てない。毒死のことなら、私よりも井崎殿の方がよく知っているはずだ。それに私は亡骸を見ていないし、直接その″酸っぱいようなおかしな匂い″も嗅いでいない」  渡部はくちびるを曲げて、軽く膝頭をつかんだ。だからもっと早いうちに啓一郎を訪ねておればよかったのだ。亡骸がいたまぬうちに。 「ただ……」と、啓一郎は言葉を切り、掌の上に乗せた薬包をちょっと持ち上げてみせた。 「薬と毒とは、実は根を等しくするものだ。たとえばこの熱冷ましにしても、風邪などで高熱に苦しんでいる患者には素晴らしい効能をみせる良薬として働くが、必要のない者に飲ませると、場合によっては逆に病気にしてしまうことがある。悪寒や腹痛、目眩を起こさせたりするのだ」  そんな話は初めて聞いた。渡部の頭のなかでは、良薬は常に良薬、毒はいつでもどこでも毒だ。その線引きははっきりしている。 「だから、毒死を扱い慣れた井崎殿を当惑させたそのおかしな匂いというものは、もしかしたら、石見銀山や鳥《う》頭《ず》などの激しい �毒 ″ ではなく、何らかの�薬″の匂いだったのかもしれない——と、当て推量することはできるよ」 「それはつまり、茂三郎が何かの病にかかっていて、その治療のために薬を飲んでいたということか? それが効きすぎて、死んでしまったと」  啓一郎は手を動かして作業を続けながら、うなずいた。 「茂三郎は、山内家を下がる理由となった食あたりで、ずいぶんと身体が弱っていたそうだな。その状態なら、そういうこともあり得るという話だ。さっき、薬と毒の根はひとつだと言ったけれども、言い換えればそれは、毒の作用を穏和にしてやると、薬として役に立つ場合も多いということだから、身体の方が弱っていれば、それまでは薬として具合良く効いてくれていたものが、強く効きすぎて毒になってしまうということも起こり得るわけだよ」  渡部は納得し、深くうなずいた。啓一郎はちらりとその顔を見て、 「ただこの場合は、茂三郎が何らかの持病を持っていて、薬を飲み続けていたということが前提になる。住まいを調べてみたのだろう?」 「ああ、すっかり調べた」 「薬包は出てこなかったか」  渡部は腕組みをした。「見あたらなかった——と思う」  そんなつもりで調べたわけではないから、今ひとつ歯切れの悪い返事になった。 「念を入れて確かめるにしても、それほど難しいことではないと思うよ。医者をあたってみればいいと言ってから、啓一郎は白い歯を見せた。 「私は茂三郎という老人を診てはいなかった。薬も出していない。これで匙家はひとつ省けるわけだな」 「違いない」と、渡部は大真面目に受け止めた。啓一郎が、そんな友の顔を、微笑を頬に残して見つめている。 「死顔は安らかだったのだよね?」 「まるで眠っているかのようだった。見つけた家主も、手を取ってみて冷たいとわかるまで、死んでいるとは思わなかったそうだ」 「それならばなおのこと、激しい苦しみを与える毒を飲んだということはなさそうだ」  啓一郎はそこでちょっと考え、 「茂三郎が自ら死を選んだということもあるかもしれないよ」と、呟くように続けた。 「覚悟の自死か」 「さっきから言っているように、これも当て推量に過ぎないが」  前日、家主の八郎兵衛が茂三郎の様子を見に遣いをやったときには、ひどく萎れて元気がなかったという話だった。渡部は思う。身体が弱り、奉公もやめ、老齢の独り身に、心細さが身にしみて———  啓一郎が尋ねた。「茂三郎は、自分で生薬を調合することができたのだろうか」  思いがけない問いだったので、渡部は座ったまま目を剥いた。「どういうことだ?」 「そんな顔をしないでくれよ。ふと思いついただけだ。医師でなくても、自分で生薬を調合する者は、そう珍しくはないよ。腹痛の薬や熱冷まし、傷薬などだ。町場と違って、山の村では医者などそうそう見つからない。反面、薬の材料になる野草や茸などは豊富にあるからね。それぞれに工夫をこらして作るのだ。それがまた、なまじ医師が処方する薬よりよく効いたりすることもある」  もともと我々が処方する薬だって、長いあいだのそうした経験則の横み重ねによって完成したものなのだから、何の不思議もない、という。 「しかしそれには道具が要るだろう。こういう薬研とかさ。茂三郎の住まいには、そんなものはなかった」  小さな薬包は見落としたかもしれないが、そんな大きなものまで見逃したはずはない。 「小網ひとつにすり鉢、七輪があれば作れる薬もあるさ」と、啓一郎は軽くいなした。「いずれにしろ、茂三郎という老人のこれまでの暮らしぶりを、もう少し詳しく調べてみる必要があるんじゃないだろうか」 「そうだな。すぐに取りかかろう。いや、助かった」  膝をぽんと打ち、着物の裾をはらって立ち上がろうとした渡部を、啓一郎の声が呼び止めた。 「井崎殿は、茂三郎が奉公していた山内家での食あたりのことを気にしてはおられなかったか?」  中腰のまま、渡部は啓一郎の顔を見た。 「どういう意味だ?」 「いや、何でもない」啓一郎は急いでうち消した。「何も言っておられなかったのなら、いいんだ。私の考えすぎだ」 「気になるな。教えてくれよ」渡部はもう一度座り直してしまった。 「迂閥なことは言えない」 「気をもたせるのも良くないぞ」 「だったら先に、私の問いに答えてくれ。井崎殿は、食あたりのことは気にしておられなかったのか?」  特に何か言われた覚えはない。井崎が腹のなかで何か考えていたとしても、渡部には察する機会がなかった。  そう答えると、啓一郎は細い顎を撫でた。 「ならば、これはあくまで私の考えとして聞いてくれよ。山内家で食あたりが出て、それが元で茂三郎は奉公をやめた。そして半月ばかりで、疑わしい変死を遂げた。この順番が気になる。実はさっき、茂三郎は生薬を調合することができたのだろうかと尋ねたときにも、このことが頭にあったのだ」  そこまで噛み砕いて言われれば、渡部にも察しがついた。目を瞠ってしまった。 「それじゃ啓一郎、おまえは、山内の食あたりも、実は食あたりなんかじゃなくて毒のせいだというのか? それに茂三郎が関わっていると?」  ちょっと躊躇ってから、しかし啓一郎はうなずいた。「そう考えることができなくもない」 「まどろっこしいな」 「茂三郎のいるところに毒の存在が匂う。そういう意味さ。その食あたりの原因はわかっていないのだろう?」 「調べてもいない。山内家に聞いてみればわかるかもしれんが」 「どんな症状だったのだろうね」 「そりゃ……かかった家人が食あたりだと思ったのだから、腹痛とか腹下しとかだろう」 「山内家だけで済んだのだね」 「それも‥‥‥聞いていない」  手配が悪いのを暗に安められているような気がして、渡部は渋面になってしまった。 「しかしな、そもそも食あたりと毒にやられるのでは、全然違うじゃないか」  啓一郎はあっさり退けた。「違わないよ。一さんは、毒というものを特別なものに考えすぎている。もちろん、普通にしていたらロにするはずのない毒というのもあるよ。だが、数や種類からいったら、そうでない毒の方が圧倒的に多い。毒茸がいい例だ。間違って食べることがあるだろう? 食べ物が腐って食あたりを起こす場合だって、あれは、腐ったことによって、食べ物のなかに生じた毒にあたっているのだ」  この場で聞いただけでは、渡部にはどうにも判然としなかった。ただ頭のなかで、茂三郎という人物の行動を調べてみる必要がある、過去を洗ってみなければならないという確信だけはふくらんでゆく。 「井崎様に、おまえの知恵を借りにいったらこういうことを言われたと話してもいいか」 「一向にかまわないよ」  わかったと言って、渡部は再度立ち上がった。と、広くなった視界の隅、勝手口に続く植え込み越しに、この家の大柄な女中の後ろ姿、正確には首から上がちらりとよぎった。  確かしずとかいう勝手賄いの女中だ。そしてそのすぐ後に、金居新右衛門も続いて歩いていた。 「金居殿が女中を連れてお出かけだぞ」と、啓一郎に言った。「俺はまた、琴江殿のお悔やみを言いそびれてしまった」  そのとき、啓一郎の顔がふっと曇った。それに気づいて、渡部はあわてて続けた。 「おまえにも言っていなかった」 「そんなことはいいんだよ。言葉など、儀礼的なものだ。一さんはもう充分に琴江を悼んでくれているじゃないか」  啓一郎はかぶりを振ってそう言った。しかし、表情の陰りは消えない。何かあるのだろうかと、渡部は訝った。  植え込みの先に目を戻すと、金居新右衛門は家のなかに戻ってくるところだった。しずを従えて出かけるのではなく、見送っただけなのか。おかしな話だ。家守が女中の外出を見送ってやるとは。  誰か客でも来ていて、女中はその客を送っていくのだろうか。しかし匙家に訪れる客ならば、金居新右衛門が送ってゆく方が筋だ。  今日はこの家で、妙なものばかり続けて見るなと思ったら、その疑念が宇佐の泣き顔に結びついた。 「啓一郎、ここに来るとき、入れ違いに出てきた引手の娘に出くわした」  渡部の言葉に、なぜかしら啓一郎はひどくひるんだ。尋ねた渡部の方がたじろぐほどに。 「あの宇佐という勝ち気な娘だ。それが今日はどういうわけか、泣きべそをかいていた。心配だからどうしたのかと尋ねたら、渡部様には関わりのないことだと剣突をくわされてしまったよ」  啓一即は眉間にしわを寄せ、包み終えてきれいにならべた薬包に目を落としている。黙ったままだ。 「あの娘、何かここで失態をやらかして、金居殿に叱られでもしたのか」  小さく息を吐き、啓一郎は顔を上げて渡部を見た。「まあ、そういうところだ。この家のなかのことだから、それで勘弁してくれ」 「そうか」渡部はうなずき、うなじを掻いた。「俺も悪気はなかったのだ。あいつがやけに怖い顔をしていたので、声をかけただけなのだ。それにそら、あのほうという子供のことも気になって、様子を聞きたかったしな」  啓一郎も「そうか」と応じた。話はそれきりだと、暗に告げていた。そうだ往診に行くのだったなと、渡部は場をつくろうようなバツの悪さを覚えながら、縁先を離れた。      四  渡部はいったん町役所に戻った。  市中見回りを役目とする同心の詰める座敷は、当然のことながら、昼間はがら空きで他には誰もいない。隣あわせの番方の座敷からは人声がする。検屍役の井崎は番方に属しているので、帰る早々に、いるかどうかのぞいてみたのだが、出かけていて不在だった。井崎が戻ったら声をかけてくれるように頼んでおいて、渡部はひとり、小机に向かった。これまでの経過と、啓一郎から聞いた話を(当て推量も含めて)書き留め、まとめておきたかったのだ。  茂三郎の過去を調べる。振り出しは、山内家に奉公する前はどこにいたのかということになるだろう。やはり山内家のときと同様、下級藩士の家が何軒か持ち寄りで彼を雇っていたのだろうから、柵屋敷へ行って訊き歩けば、すぐにあたりをつけることができるはずだ。手間はかかるまい。彼が生薬の調合に長けていたのかどうかも、昔の奉公先がいくつか判明すれば、そこの誰かが知っている可能性がある。でもその前に、茂三郎の住まいも、もう一度調べてみよう。  見回り役をしていると、こうした書き物はついつい書き役に任せることが多いので、渡部の文箱に入れっぱなしの筆は先が荒れ、ひどく書きにくくなっていた。舐めては墨をつけて書き、また舐めては墨をつけてと繰り返しているうちに、口のなかが苦くなった。  ——— 墨は毒だろうか?  これを飲んだらどうなるのだろうと、ふと思いついた。すっかり啓一郎の講義に影響されてしまったようである。誰が好きこのんで墨汁など飲むものか。  ——— いや、それよりも、たとえばこういう筆の先に毒を塗っておいたら?  筆を舐めるときに、毒も一緒に舐めてしまう。他人に毒を盛る方法は、存外たくさんあるのではないか。  ——— そしてその毒が、食あたりと似たような症状を起こすものだとすれば、誰も毒のことなど疑わない。今朝食べたものが怪しいのではないか、いや水が悪いのではないかと、見当違いのところを探すことになる。  毒を盛った者は安全だ。  つらつらと考えているところに、井崎の声がした。唐紙を開けてのぞいた顔を見て、渡部はぎょっとした。青白い。疲れ果てているようだ。  町役所の唐紙に張られている紙は、すべて丸海で作られたものであり、裾のところが、紅貝の染料で淡い紅色に染められている。ただ、奉行や同心小頭の詰める座敷は年に一度必ず張り替える唐紙も、渡部たちのような下級役人のところでは、見苦しく破れない限り、何年もそのままになっているので、今では紅色がすっかり越せ、そのうえ陽に焼けて、うっすらとした茶色気の方が強くなっている。渡部に近づいてきて、小机のそばに座り込んだ井崎の両の目は、白目のところが、その唐紙そっくりの色になっていた。どこへ出かけていたのか知らないが、よほど芯の疲れる検屍だったのだろう。しかも、昨夜は寝ていないに違いない。  しかし渡部が何か言い出す前に、井崎が先に切り出した。「井上の若先生のところには行ってきたか?」  渡部は話した。そして話が啓一郎の提示した茂三郎への疑念へとさしかかると、井崎の目元がみるみるうちに強ばった。 「やっぱりそうか」と、唸るように言う。 「すると井崎さんも、山内家の食あたりが茂三郎の仕業ではないかと疑っておられたんですか」 「俺のも当て推量だがな。だから、あの場ではうかうかと口にすることができなかったのだ。しかし若先生も、とっさに同じことを考えられたとなると……」  懐手をして顎を下げる。その肩が骨張っている。 「いずれにしろ、私は茂三郎の身辺を調べてみます」 「うむ、そうしてくれ。実はな、俺はどうもあの顔に見覚えがあるのだ」 「は?」 「茂三郎の死顔を見て、昔どこかで一度見かけたことがあるように思ったのだ」  渡部は考えた。「渡り奉公の下男ですからな。しかもいくつかの藩士の家を掛け持ちしている。かつて、そのうちのどこかで井崎さんが出張るような変死があって、そのときに見かけたということではありませんか」 「俺もそう思う。変死の場合は、その家の者たちから、くまなく話を聞くことにしているからな。きっとそういうことだろう」  ただ、はっきり思い出せんのだと首をひねる。 「茂三郎が、もっと若いときのことだったのかもしれぬ」  井崎は二十年も検屍役を務めているのだから、そういうことは充分にあるだろう。十歳違うだけでも、人の印象はずいぶんと変わってくるものだ。 「ところで、真っ黒だぞ」と、井崎が言った。顎の先で渡部の顔を指している。「舌だ、舌。筆を舐めるなど、子供のすることだ」  照れ隠しに、渡部は笑った。「私は書き物は苦手なんですよ」 「確かに下手な字だ」と、今度は渡部の記した手筋を見ながら、井崎は言った。 「それより井崎さんこそ、ひどい顔です。よほど骨の折れる仕事なんでしょう。私を見込んでくださるのならば、ついでだ、そちらも少し手伝いましょうか」  渡部としては何気なく言ってみたのだが、井崎は急に表情を険しくして、畳に目を落としてしまった。 「余計なことを申しましたか」  急いで言い足して、しかしそれ以上はどうしようもなく、渡部も黙った。  井崎は懐手を解くと、両膝の上に手を置いた。そして渡部の方に身を乗り出した。肩越しに隣の番方の座敷をちらりと気にして、声をひそめる。 「私がおまえに仕事を任せていることを、誰かに話したか」  つられて渡部の声も低くなる。 「いいえ、誰にも話していません」 「それならいい。今後も黙っていてくれ。見回り役との兼ね合いは大丈夫か」 「差し支えありませんよ。もともと、市中をぶらぶらするのが私の仕事ですから、調べ事はそのついでにすればいいのです」  うんうん、と井崎はうなずく。 「私が・・・・・今拝命しているお役目は、おぬしが推察したとおり、かなり骨が折れる」  渡部の小机の角あたりに目を据えて、井崎はゆっくりとそう言った。 「これにはおまえを巻き込むわけにはいかない。というのは、事と次第によって・・・・この件の始末のつけようによっては・・・俺はお役目を退くことになるかもしれぬからだ。それどころか」  ちょっと息を止めてから、思い切って吐き出した。 「腹を切らねばならぬかもしれない」  それまで、とりあえず調子をあわせて首を縮め、声を落としていた渡部は、心の臓が停まりそうになるほど驚いて、本当に言葉を失った。 「どういう・・・ことなのです?」  町役所の役人は、丸海溝の藩士としてはもっとも下級の身分である。時として足軽頭にさえ鼻先であしらわれるような軽輩の身だ。狭い丸海藩のなかでも、さらに小さい生《い》け簀《す》のようなところにかたまって、そこから出ることなくぐるぐる泳いでいるのが町役所の役人たちである。だから、町役所の同心頭や同心が、不始末の咎を受けて腹を切ったという事例など、これまで聞いたことがない。むろん、賄賂を取ったり喧嘩沙汰を起こしたり、不祥事はいくつもあるが、たいていは謹慎や減俸、降格で片づけられてきた。お役御免になったという例でさえ、渡部が一人前の町役人として努め始めてからは知らない。それなのに———  井崎は、いったいどんな大事を扱っているというのだ。  渡部の脳裏に、遠い雷鳴のように不穏で激しいものが閃いた。 「それは・・・・あるいは、井崎さんが扱っている一件が、涸滝の屋敷に関わるものであるからですか」  井崎はぐっと固まった姿勢のまま、目玉だけを動かして渡部を見た。ゆっくりと、ほとんど恐る恐るという様子でうなずいてみせた。  それしか考えようがない。そんな大事、今の丸海藩に、他にありようがないのだから。 「これは他言無用だ。けっして他の者に漏らしてはいけない。本来なら、おまえにうち明けることも控えるべきなのだ」  しかし俺には荷が重いと、井崎は絞るような声を出した。 「誓って誰にも話しません」 「うん。こんなことになる以前から、俺はおまえに検屍役としての仕事を教えたいと思ってきた。おまえは筋がいいと、見込んでいたのは本当なのだ。前々からそう思っていた」  井崎は言った。ささやくような小声である。 「もっと早くに取りかかっておればよかったよ。せっぱ詰まってからでは、おまえだってあわただしいだろう」  済まんなと、ひとつ頭を下げた。  「私のことなどかまいませんよ」 「ありがとう。とにかく、短い間でも、俺はおまえにできるだけのことを教えよう」  渡部は訊かずにいられなかった。「涸滝の屋敷で何が起こったのです?」  井崎の顔の上を、逡巡と怒りと不安と、数え切れないほどの暗い感情が、よぎっては消えた。最後に残った表情は、 「さっぱりわからん」  という言葉と同じ、疑問のそれだった。 「何が原因なのか、見当もつかんのだ」と言って、目を上げた。「涸滝の屋敷で、下働きの御用を承っていた女中が頓死した。四日前のことだ」  渡部は総毛立った。小心者の魂が、逃げだそうとして身体のなかで暴れている。俺はもう・・・・加賀殿はたくさんだ。関わりたくないと言っているのに! 「立ち働いている折に、突然ひと声悲鳴を発し、そのまま倒れて死んでしまったのだよ。病死なのか、毒死なのか。まずそれがわからぬ。病死ならば、なぜそんな危ない者を涸滝の屋敷に入れたのか、御牢番役が責任を問われることになるだろう。毒死ならばさらに難儀だ。いつどこで、どうして毒を飲んだのか、飲まされたのか。その毒は、きっと加賀殿を狙ったものであるに違いない。あるいは、次は加賀殿だぞという脅しであるのかもしれぬ。それはおまえもわかるだろう? 加賀殿がこの丸海で死に、それによって畠山家が幕府のお咎めを受けて、お取り潰しになるのを願っている勢力が、確かにいるのだ。いや、そもそも幕閣が丸海藩に加賀殿を託したのは、老中諸氏のなかに、紅貝染めなどの派手な振興策で懐を肥やす我が藩を、これを機会に誅《ちゅう》してくれようという考えがあるからだとも言われている。外にも敵、内にも敵だ。我が藩は、加賀殿お預かりを命じられたその時から、首の皮一枚でようよう生きながらえているようなものなのだ」  井崎の目の焦点が小さくなる。 「何としても、女中の死因を突き止めねばならない。こんなことが幕府の放っている密偵に嗅ぎつけられれば———いや、すでに嗅ぎつけられているかもしれぬ。そして我が藩の始末の仕様を、意地悪く見張っているのか——— 」  額に汗が浮いている。 「それなのに、死因がわからぬということなのですね」  渡部の問いに、井崎は目を閉じてうなずいた。 「わからぬ。どうにも闇のなかだ。こんなことを言いたくはないが・・・・まるで・・・・まるで加賀殿という悪霊に、命をもぎ取られてしまったかのようなのだ」  渡部は、身の内側からこみあげる寒気を、じっとこらえて座っていることしかできなかった。   涸滝の影          一  道々、しずさんは何もしゃべってくれなかったので、ほうは小さな風呂敷包みを背に、ただその後をついてゆくしかなかった。  井上の家を出ると、しずさんは堀内へと向かった。橋を渡るときには、橋番の詰め所へ行って、何か書いたものを差し出しながら、丁寧にお辞儀をしていた。ほうは道端でおとなしく待ち、初めて足を踏み入れる堀内の景色を眺めていた。  丸海のお城の姿は、もちろん町のどこにいても仰ぐことができる。井上家の庭先からは、お城の石垣の上から天守閣までが、すっかり見えた。町場に入って宇佐と一緒に暮らしていたときには、塔屋の煙突の隙間からのぞく金のしゃちほこが、朝に夕に茜色の陽を受けて輝くのが見えた。  ここでこうして仰ぐお城は、何しろ今まででいちばん近い場所にいるのだから、一段と立派に見える。将軍様のお城よりはうんと小さいけれど、美しさでは見劣りしないと思う。  そういえば琴江さまに伺ったことがある。お城のあのきれいな白壁や天守閣のしゃちほこは、どうやって掃除するのでしょうか。壁をくまなく拭くのは大変な仕事だし、しゃちほこを磨くにはあそこまで登らなくてはならない。すると琴江さまは笑って首をかしげ、  ——— そうですね。今まで考えたこともなかったわ。掃除しているのを見たこともないし。  そしてほうに、  ——— 江戸のお城を掃除しているのを見かけたことはありますか。  とお訊ねになった。  ほうも見かけたことはなかった。  ——— 将軍様のお城は、神様に守られているので、お掃除なんかしなくても、いつもきれいになっているんじゃありませんか。  そう答えると、琴江さまはたいそう喜んだ。  ——— それなら丸海のお城も、丸海の神様のご守護があって清められているので、お掃除は要らないのだわ。今日は、ほうにひとつ教えられました。  褒められたのが嬉しくて、ほうはそのことをよく覚えていた。  しずさんに連れられて、お堀を渡る。手前には柵屋敷の板葺き屋根が延々と連なり、その先には瓦屋根のお屋敷が並んで、屋根と屋根との隙間を、濃い緑の木立が埋めている。お城がそびえているのは、さらにその向こうだ。青空を区切る白壁の真っ直ぐな線。空に描かれた絵のようだ。  左手には広々と馬場が開けている。今しもそこには二頭の馬が駆けている。それぞれに、白い鉢巻を締めたお侍を背に乗せて、蹄が地を打つ音も軽く、長い首を前方へとさし伸ばし、馬たちは気持ち良さそうに半弧を描いてゆく。あんなふうに速く走る馬を見るのは初めてなので、ほうは見とれてしまった。と、しずさんに小突かれた。 「何をぽうっとしてるんだい? そら、しゃんとして。口を開けないの」  ほうはあわててはいと答え、歯がかちりと鳴るくらいに強く口を閉じた。  これからほうは、新しい奉公先に行くのだ。井上のお家では、もうほうを置くことができないので、舷洲先生がそう計らってくだきったのだそうだ。  ありがたいことだと思っていた。  宇佐のところにいるときも楽しかったけれど。おあんさんは一人暮らしで、ほうにはあんまりすることがなかった。ほうが飯を炊いたり部屋を掃いたり、洗い物をしたりすると、宇佐はそのたびに「助かる、助かる」と言ってくれたけど、本当はそのくらいのこと、自分で全部できるはずだった。最初のうちこそ、働くことができてやっとおまんまがいただけるとほっとしたけれど、何日か一緒にいると、本当はほうの手なんか要らないところを、無理して用事を頼んでくれてるんじゃないかなぁとわかってきて、辛かった。  もっとも、それだからこそ、おあんさんもほうを塔屋に遣ると言ったのだろう。おあんさんの知り合いのおさんというおばさんに、あんじょう頼んでくれたという話だった。そこで働けばいつかは織り子になれる。  そしてほうを日高山神社に連れていってくれたのだ。あんたが案じているおっかさんの恨みと崇りとやらを、日高山の神様が祓ってくださるからって。これでもう安心だよって言っていた。  境内では、久しぶりに舷洲先生と盛助さんのお顔を見た。ほうには意味がとれなかったけれど、後でおあんさんは喜んでいた。舷洲先生は、あんたとあたしが元気そうでよかったっておっしゃっていたよ、と。  それなのに、この新しい奉公は、その舷洲先生が見つけてくださったものなのに、おあんさんはひどく嫌がっていた。  昨日の夜、宇佐はいつもよりかなり遅くなってから長屋へ帰ってきた。そしてほうに、丸海からどこかへ逃げろと言った。薮から棒の話なので、ほうはぽかんとするばかりだった。だいいち、どこへ逃げるというのだ。逃げるというのはどういうことか。 「これから塔屋へ働きに行くんですか」 「違う、違う」  おあんさんは焦れていた。泣いたような顔をしていた。 「あんたに奉公の話があるんだ。井上の舷洲先生のお世話なんだ。というか……断りようのないお話なんだ。だけどあたしは嫌なんだ。あんたをあんなところに遣りたくない。だからどこかへ逃げようって」  言いさして顔を覆い、 「だけど、どこにも行けっこないよね」  ぐったりと元気を失くしてしまった。そしてほうに、明日になったらしずさんが迎えに来るから、支度をしておきなと言った。夜の間じゅう、すっぽりと布団をかぶっていたけれど、眠っているようには思えなかった。  夜が明けると、本当にしずさんが迎えに来た。あいかわらず厳しくて、ビンシャンと怖かった。でも懐かしい気もした。奉公先に行く前に、金居様があんたに会いたいとおっしゃっているから、井上家に寄ると言った。 「あたしも付いていきます、ほうを送って行きます」  おあんさんがそう言うと、しずさんはフン勝手にするがいいと答えた。三人で井上家まで行くあいだ、誰もロをさかなかった。  それが気詰まりだったし、事の転がりようがあんまり急で、いまだにわけがわからなかったので、ほうは宇佐に尋ねた。 「おあんさん、この奉公のお話は、あたしが塔屋に行くお話とは違うんですか」  うなだれたまま、宇佐は「違うよ」と答えた。「あの話は失くなったんだ。せっかくおさんおばさんに頼んだのにね」  それから、さも憎々しげにしずさんを睨んだ。背中を睨んだのに、驚いたことに先を行くしすさんがさっと振り返って、 「こんなに頼りない子が、塔屋で働くことなんかできるもんか」と言い放った。 「あんた、一人前に顔がつぶされたぐらいに思っているのかもしれないけど、それは間違いもいいとこだ。塔屋だって、こんな子を押し付けられたら大きに迷惑したろうさ」  しずさんの勢いに押されて、おあんさんは、呆気にとられたみたいに息を呑んでいた。でもすぐに言い返した。 「何だって! もういっぺん言ってごらんよ」 「ああ、何度だって言ってやる」  しずさんは太い腰に両手をあてると、おあんさんの上にのしかかるようにして見おろした。 「あんた、女だてらに引手の真似事なんかやって、手前じゃ肩で風切って歩いているつもりだろうけど、何もできやしないし、誰の役にも立ってないんだ。この子の面倒だって、まともにみれなかったじゃないか。おや、その顔。あたしが気に入らないのかい? いいさ、だけどあたしにたてつくってことはね、舷洲先生にたてつくってことなんだよ。半端者の分際で、匙の井上家に逆らうってことなんだ。わかっておいでなんだろうね?」  おあんさんが真っ青になるのを、ほうは初めて見た。おあんさんの袖を引き、一生懸命謝った。この言い争いは、自分のせいだと思ったからだ。 「あんたが謝ることなんかないよ。バカ」  おあんさんはそう言って、ほうと手をつないでくれた。震えていた。  井上家に着くと、金居さまが待ち受けていて、おあんさんとはそこでお別れだった。 「ご苦労だったな。おまえはお役目があるのだろう。早く西番小屋に行ったらどうだ」  金居さまにもそっけなく突っぱねられて、おあんさんは勝手口からあがることさえ許されなかった。振り返り、振り返りしながら出て行った。井上家の門のところまで行って足を止め、こらえかねたみたいに「ほう!」と呼んだ。 「はい!」  ほうは応じたけれど、おあんさんが続けて何か言おうとするのを制して、金居さまが大声を出した。「この卑しい引手が! もう我が家に出入りすることは許さん。去ね!」  おあんさんは、突き飛ばされたみたいによろめいて、立ち去っていった。その背中に、ほうはようやく呼びかけた。 「おあんさん、ありがとうございました」  ここでお礼を言っておかないと、二度と言えないという気がした。そのときになって、ようやくほうも、これが深刻な揉め事なのだということがわかったのだ。  でも、もう遅かった。ほうはやっぱり「阿呆のほう」だ。  金居さまは、ほうが最初に井上家に奉公することになったとき、折々に難しいお説教をした。口調の厳しいのは感じられたけれど、言葉遣いが難しすぎて、中身はよくわからなかった。今度もそういうお説教をされるのかと思ったら、違った。金居さまは、ただほうをこざっぱりと着替えさせるためだけに待っておられたのだった。ついでに、ほうの手荷物を検めて、着古したもをすべて捨て、新しいのを包んでくださった。しずさんではなく、金居さまが手ずからそれをして、そのあいだじゅうむっつりと怒っていた。  新しい着物は嬉しいものだけれど、捨てられてしまった古着は、琴江さまがくださったものたったから、惜しかった。拾って持って行きたかったけれど、どこに捨てられたのかも知らないし、そんなことが言い出せる様子でもなかった。  早々に、しずさんに連れられて、ほうは井上家を出た。 「のろのろしないでついて来るんだよ」  出掛けに、しずさんはぴしゃりと言った。だから今もほうは懸命に歩いている。しずさんの速い足取りに遅れないよう、小走りになって歩いている。  柵屋敷を通り過ぎ、お屋敷の灰色の瓦屋根が並ぶところに入った。新しい奉公先は、丸海藩の偉いお方のお家なのだろうか。てっきり柵屋敷のどこかだと思っていたのに、違うのだろうか。しずさんは、塔屋でさえ務まらないほうが、そんな立派なお家で奉公できると思っているのだろうか。思っていないのに連れていかなくてはならないから、こんなに不機嫌なのだろうか。  見知った顔が、みんな怒ったり泣いたりしている。ほうのせいだ。涙がにじんで、目の前がぼやける。でも、足が遅れるとしずさんがますます怒るだろうから、ほうはばたばたと急ぐ。  ようやく、しずさんが立ち止まった。  目を上げてみると、左右に板塀が連なっている。ただ木の板を打ちっ放しにした塀ではなく、表面を丁寧に削ってならし、幅も揃えて打ち付けて、てっぺんには小さな瓦屋根まで乗せてある大きなお屋敷だ。ほうの目の届く限りでは、板塀の折り曲がっているところが見えない。うんと広いのだ。勝手門の脇に番人の詰め所があって、しずさんはそこでご挨拶をしている。ほうは、詰め所の後ろに立っている桜の古木を仰いだ。青々と生え揃った葉が、そよ風に括られている。  ここまで通り過ぎてきたお屋敷には、立派な瓦屋根だけれど、白漆喰で修繕をほどこした痕が目立つものが多かった。でもこのお屋敷は違う。一面の瓦だ。ところどころに、ほんの少し色合いの淡い部分が混じっているのは、そこだけ新しいのだろう。つまりは、新しい瓦を葺くことができるお金持ちなのだ。  しずさんに呼ばれた。勝手門が半分開いて、その向こうにお侍さんが立っている。つるりとした月代《さかやき》に、ほっべたが赤い。刀をさし、三つ紋の着物にきちんと袴をつけている。  しずさんは、畏れ憚《はばか》るように、開いた勝手門から三歩分くらい下がって、きつい目をしてほうを見ていた。  「さあ、お行き」と、ほうに命じた。「あたしはここから先には入れない」  そしてほっべたの赤いお侍さんの方に向き直り、深々と頭を下げた。  「よろしくお取次ぎをお願い申し上げます」  「あいわかった。ご苦労であったな」  赤いほっべたのお侍さんは、ちょっと高い声でそう応じた。すぐにほうを手招きした。  「こちらにおいで、私についてきなさい」  勝手門の高い敷居をまたぎそこねて、ほうは転んだ。急いで起き上がろうとするのに、膝が痛くてうまくいかない。顔から火が出そうで泣きそうだ。今にもしずさんの怒鳴る声が聞こえてくる———  強い手がほうの二の腕をつかんで、助け起こしてくれた。赤いほっべたのお侍さんだった。少し笑っている。ほうはあわてて着物についた土埃をはたき落とした。お侍さんが、背中の荷物のずれたのを直してくれた。 「あわてなくてよい。足元をよく見て歩くのだ」  そう言って、四角い敷石の並んだ通路を、先に立って歩き出した。  背の高い木立に、刈り込まれた植え込み。石塔や風変わりな形の石が転々と並んでいる。手入れの行き届いたお庭だ。お侍さんはそのあいだをうねうねと延びている敷石を踏んで、ずんずんと歩いてゆく。履物の裏に鋲が打ってあるのか、カチカチと音がする。  勝手門の先、正面にそびえて見えたお屋敷に向かっているのではない。同じ敷地のなかにある、平屋建ての離れに行こうとしているようだった。なだらかな三角屋根が見えてきた。こちらも瓦葺である。  離れの玄関口には、沓《くつ》脱ぎの石があり、戸が開いていた。そこにも袴をつけたお侍さんがいて、張り番をするようにすっくと立っていた。赤いほっべたのお侍さんは、その人とうなずき合うと沓脱ぎ石の手前に膝をついて、あがってすぐのところに立てられた屏風の向こうへと声をかけた。 「石野でございます。井上家より、使いの者が着きました」  すぐに、奥から返事があった。「通せ」  赤いほっペのお侍さんは、ほうを促して先にあがらせた。ほうが脱いだ履物を揃えるのを、ちょっと驚いたように見ていた。  清潔な青畳の匂いがした。煙草も少し香った。ぶち抜きの広いお屋敷の上座の方に、男の人が三人座っている。  二人はまったく知らない人だったけれど、一人は舷洲先生だった。 「ほう、ご苦労だったな」と、声をかけてくださった。舷洲先生のお声もお顔も、怒ってはいなかった。      二  三人の男の人は、ほうを囲むように座り、それでいてほうがそこにいるのを忘れたみたいに、あれやこれやと話している。ほうの身の上について、舷洲先生がお話ししている。 「それにしても幼い子だ」  歳は舷洲先生と同じぐらいに見えるけれど、どうやらこの場でいちばん偉いお方のようであり、舷洲先生に「船橋様」と呼ばれているお侍さんが、さっきからしきりとそう繰り返す。この方は裃《かみしも》をつけていた。 「このように頑是無い子供で、果たして務まるものだろうか」  舷洲先生は、にっこりとほうに微笑みかけて、すぐに船橋さまに顔を向ける。 「我が家ではよく働いておりました。躾もひととおり済ませております。下働きであるならば、充分に務まりましょう」 「しかし……」 「まだ物の道理のわからぬ子供の方が、いっそ都合がよいというお話でありました」  女のように優しい声で、もう一人の人がなだめるように言う。こちらはお侍さんではなく、舷洲先生と同じお医者さまなのだろう。総髪だし、舷洲先生に「砥部先生」と呼ばれている。船橋さまは、舷洲先生のこともこの方のことも、「井上殿」「砥部殿」と呼んでいる。 「それはそうだが、母親を恋しがって泣いてばかりいられては困る」  船橋さまの言葉に、砥部先生が笑った。 「船橋様はお優しいのですね」  そこで初めて、砥部先生はほうに顔を向けた。真っ直ぐに見た目は、澄んでいた。 「おまえは一人で江戸から来たのだよね」  ほうは舷洲先生を見た。お答えしなさいというように、うなずいておられる。 「はい」と、ほうは答えた。 「父と母はどこにいる?」  ほうはまた舷洲先生を見た。またうなずかれた。 「お、おりません」 「死んだのか」 「はい」 「丸海では、井上家で奉公をしていたのだね」 「はい」 「そこに、身寄の者が訪ねてくることはなかったかね? 誰かおまえの帰りを待って、心配している者はいないのかね」  どういうお訊ねなのか、ほうはわかりかねた。またぞろ舷洲先生を見ると、先生が代わりに答えてくださった。 「ですから、申し上げたように、ほうは江戸の家を追われてきたのです。身寄りなどおりません。天涯孤独なのですよ」  砥部先生はゆっくりとまばたきをした。目もとの優しい線も、女のようだ。 「この子はそういう自分の身の上をきちんと理解していないようですね」 「そうです。それも申し上げたとおりです」 「本当に知恵が足りないのだな」と、船橋さまがおっしゃった。舷洲先生はすぐにはうなずかず、少し顎を引いて黙っている。 「ならば、なおさら都合がいいか」  船橋さまはため息を吐く。 「どうやら、井上殿のお薦めに従うより道はないようだ。この子なら、口が堅いというよりも、語るべきことが何なのかもわからぬだろうからな」  苦いものを噛んだような口つきだ。金居さまが持病の薬を飲むときに、いつもこんな顔になったのを、ほうは思い出す。 「そうですね。余計なことを思い煩う知恵がなければ、悪気にあてられることもないでしょうし怖いものもないでしょう」と、砥部先生がおっしゃった。どういう意味だろう。 「この子を涸滝に入れてしまえば、梶原の娘のことも、しっかり封じられるだろうし。梶原の娘を見たというのも、この子なのでしたな?」  問われた舷洲先生は、「それはもうすっかり収まったことでございますよ、船橋様」と、静かに応じた。船橋さまは短くうんうんとうなずいている。  カレタキ ——— 涸滝。  江戸から流されてきた加賀さまという怖い悪霊が封じられているお屋敷だ。この子を涸滝に入れるとおっしゃるのは、つまり、ほうの新しい奉公先は涸滝のお屋敷だということなのか。  先から鬼が棲んでいるという涸滝のお屋敷で、悪霊のお世話をすることになるのか?  先ほどの砥部先生のお言葉は、鬼と悪霊と、ふたつがかりで襲ってきても、ほうなら怖くないという意味だったのか。 「阿呆のほう」だもの。  おあんさんは、だからほうをここに寄越したくなかったんだ。  ——— 断りようのないお話なんだ。 「ぐずぐずしていてもきりがない」と、船橋さまが顔を上げ、戸口で控えていたさっきの赤いほっぺたのお侍さんに声をかけた。 「石野、支度をしてくれ」 「かしこまりました」  立ち上がろうとする船橋さまと砥部先生に、舷洲先生が言った。「少しの間、ほうと話をさせていただけますか」  二人は承知して座敷を出てゆき、ほうは舷洲先生と向き合った。 「ほう、おまえは少し覚えが遅いが、それでも今の話はわかったな?」  わかりましたと、ほうは答えた。涸滝へ行くのだということで、頭がいっぱいだ。お返事が上の空になっている。 「おまえは井上の家でよく働いてくれた。涸滝でも、同じように働けば、それでよい。難しいことをやれというわけではない。掃除をしたり、水を汲んだり、我が家でしていたようにすればよいのだ」  ほうはぱちぱちと目をまたたいた。舷洲先生が、乾いた掌をほうの頭の上に置き、ぐりぐりと撫でた。 「涸滝のお屋敷が怖いかね?」  尋ねる舷洲先生の口調はいかにもゆっくりとしていて、噛み砕いているという感じがした。ほうには、「涸滝のお屋敷」の意味がわかっていないだろうと、思っておられるのかもしれない。  でも、ほうにはわかっている。わかっている ——— つもりだ。 「怖くはないです」 「そうか。偉いぞ」  それも、本気で褒めてくださったのではなさそうな感じがする。 「おあんさんが」 「うむ?」  えーと、違う。おあんさんじゃなくて、宇佐さんだ。 「宇佐さんが」 「引手の宇佐だな」 「はい。ほうを、日高山神社に連れていってくれました。ほうはおっかさんの崇りを背負ってるけれど、祟りは神様が清めてくださるからって。それでお参りして清めていただいたので、ほうのことは日高山神社の神様が守ってくださると言っていました」  だから怖くないですといいたかったのだけど、しゃべっているうちにこんがらがってきて、言えなかった。だいいち、それは芯から本当のことではなかった。やっぱり、鬼や悪霊は怖かったのだ。  涸滝へ行くのは嫌だった。  それでも、おあんさんは追い払われてしまったし、泣いていたし、しずさんは怒っていたし、舷洲先生はほうが奉公をすることを望んでおられるのだし、これは断りようのないことだとおあんさんが言っていたし、だからほうは行くのだ。  舷洲先生は、しげしげとほうの顔を見ていた。そしてもう一度、頭を撫でてくださった。 「良い子だな。そうか、あの日はそれで参拝に来ていたのだね。うむ、おまえにはきっと、日高山神社のご加護があろう」  我らにもあるといいが……と、小さく呟いて言い足した。ほうに聞こえていてもかまわないという、独り言だった。 「おまえはこれからすぐ涸滝の屋敷に行くのだよ。駕寵で行くのだ。駕龍に乗るのは初めてだうう?」  あやすような口調で、笑みを浮かべる。こうして間近に見ると、目鼻立ちが琴江さまによく似ておられる。父娘なのだから当たり前だけれど、初めて気づいた。  駕籠の支度ができるあいだ、ほうは離れの前で待たされた。舷洲先生がその場を離れると、入れ替わりにほっべたの赤いお侍さんが戻ってきた。 「石野、子守りはご苦労だな」  張り番のお侍さんが、ひやかすような声を出した。 「こんな子供が役に立つのかなぁ」と、ほうの頭をちょっと小突いた。石野と呼ばれるほっぺたの赤いお侍さんは、ほうをかばって、 「北島さん」と、諫めた。 「何だ、もう子守りの始まりか」 「この難事に、匙の井上家からお借りした働き手ですよ。子供といえども軽んじてはいけません」  へっと唾を吐くように笑って、張り番のお侍さんは、横目になった。 「哀れなもんだよな。使い捨てだ。牛や馬より悪いぜ」 「北島さん!」 「まあおまえはよ、この餓鬼が取り殺されてくれれば、その分、自分の番は遅くなるからな。せいぜい大事にしてやることだ」 「もう、行こう」  赤いほっべたの石野さまは、ほうの耳をふさぐようにして、勝手門へと歩き出した。  ほうは一人で駕龍に乗せられた。  先の駕龍には船橋さまが乗り、中の駕龍には砥部先生が乗った。それぞれの駕龍の脇にはお供が付き、ほうの駕龍のそばも誰かが歩いていた。足音だけで、姿は見えない。  石野さまは、ほうが駕籠に乗り込むとき、こうやって座って、こうやってつかまるのだと、親切に世話をやいてくれた。 「駕籠が停まっても、降りようとしないでじっとしているのだぞ。私が降ろしてやるからな」  船橋さまや砥部先生は偉いのだから、駕籠に乗るのは当たり前だ。でも、どうしてほうまで乗せてくださるのだろう。  ほうが歩いて涸滝のお屋敷に行くと、噂になるからかなぁ……と、ぼんやり考えた。誰かに見られたら、いけないんだな、きっと。  フナバシさま。ふなばしさま。聞いた覚えのあるお名前だ。駕籠に揺られながら、ほうはずっと思い出そうとしていた。砥部先生は匙の家の先生だ。うん、間違いない。でもフナバシさまはおあんさんが言ってたことがあるかなあ。  ゴロウバン! そう、御牢番の船橋さまだ。加賀さまのお預かりの係りの偉い人なのだ。  そしたら、砥部先生は、加賀さまのお脈を見るのかなぁ。鬼や悪霊も、病にかかることがあるのかしら。  加賀さまはどんなお姿をしているのだろう。やっぱり頭に角があるのかしら。絵草紙のお化けみたいに、恨みで捻じ曲がった凄い顔で、足のところがぼうっとぼけているのかしら。人をとって喰うのかしら。さっきの張り番のお侍さんは、  ——— 取り殺される。  そう言ってはいなかったかしら。  さくさくと土を踏む足音が聞こえる。駕籠は登り道にかかったようだ。  ほうはどんどん思いつめる。ひょっとして、誰かがもう取り殺されたのかしら。ほうはその代わりなのかしら。  せっかく日高山神社でおっかさんの祟りを清めてもらったのに、今度は加賀さまの崇りに崇られるのかしら。だけど、崇りって何だろう。清めてもらう前も後も、ほうは何も感じなかった。祟りは目に見えないものなのだそうだけど、でも、それならどうして清められたことがわかるのかしら。もっとよく、おあんさんに聞いておけばよかった。  駕籠が停まり、人の声がする。難しい言葉でやりとりをしている。それからまた動き出す。今度はちょっと移動しただけで、すぐに停まった。地面におろされる。  駕籠の覆いを取り除けて、石野さまが顔をのぞかせた。 「着いたぞ。降りなさい」  ほうを降ろした駕籠は、そそくさと逃げるように、来た道を戻っていった。  視界が開けた。  藪の繁みを切り開き、大急ぎでこしらえた庭のようなところだった。むき出しの地面に、足跡がいくつもついている。  目を上げると、古びた屋敷の外壁が、ぬうっと立ち上がって青空を遮っていた。  これが涸滝のお屋敷だ。色褪せて白っぽく、黴《かび》が浮いたように見える羽目板に覆われた、鬼の住処《すみか》だ。 「あれがおまえの住まう小屋だ」  石野さまが、指さして教えてくれた。雑木林と藪のなかに半分埋もれて、粗末な小屋が建っている。戸口の両脇に、薪が山積みにされていた。 「薪小屋だが、おまえ一人なら充分に寝起きができる。屋敷のなかに住むよりは気が楽だろう」  小屋から屋敷のなかに入るには、一度この裏庭に出て、あの通用口を使うのだと、さらに指差す。そこには槍持ちのお侍さんが立っていた。やはり張り番なのだろうけど、さっきの離れの前にいた人とは比べようのないほど厳しい顔つきで、真一文字に口を結んでいる。石野さまとほうがここにいても、見向きもしない。藪の彼方を睨み据えている。 「おまえの仕事は、ほとんど掃除や洗い物、片づけだ。賄いや水汲みは、私たちが自分でやっている。おまえの他に、ここに女手はないのだ」  ちょっと笑って、 「まあ、おまえもまだ女手とは言えんな」  ほうは笑わなかった。実を言うと、石野さまの言葉も耳の上を滑ってゆくだけだった。  ここに悪霊がいる。鬼がいる。ここに悪霊が。鬼が。ほうはそんなところに来てしまったのだ。  よくよく見れば、お屋敷のぐるりには、びっしりと竹矢来が立ち並んでいるではないか。 「おまえの飯は、日に二度、小屋に運んでやる」  石野さまはくるりと身体の向きを変え、駕籠が去っていった小道の方を指した。 「この道をたどり、屋敷の周りをまわって表側に出ることもできるが、絶対にそれをしてはいけない。おまえが通っていいのは、この裏庭のこの場所だけだ。屋敷のなかも順々に教えてやるが、通っていい場所は決められている。いいな? わからなかったら何度でも訊きなさい。何度でも教えてやる。うっかり禁じられたところに足を踏み入れると、命を落とすことになるぞ」  大いに力を入れて、石野さまは言った。そしてようやく、ほうがあさっての方角を見ていることに気がついた。 「おい、ちゃんと聞いているか?」  ほうは口を半開きにしていたが、自分でも思いがけないことに、そこから泣き声が漏れた。竹矢来の眺めが心に突き刺さる。目にも突き刺さる。  ここは牢だ。牢なのだ。牢のなかに、ほうは鬼や悪霊と一緒に閉じ込められてしまった。  泣き声に、石野さまは狼狽した。あわててしゃがみこみ、ほうの顔をのぞきこむ。 「な、泣いているのか」  困っている石野さまは、ますますほっべたが赤い。もしかしたら、おあんさんと同じくらいの歳——— いや、もっと年下なのかもしれない。元服されたばかりなのかもしれない。 「なんで泣くのだ。怖いのか。寂しいのか」  石野さまは、ご自分も泣きそうになっているみたいだ。ほうは、ふと、おあんさんの泣き顔を思い出した。 「泣かんでも、大丈夫だよ」  あやふやに口元をもごもごさせて、石野さまはそう言った。 「私がちゃんと面倒をみてやる。匙の井上先生と、そうお約束したのだ」  ほうは目を見張った。「舷洲先生とですか?」 「うん」  赤いほっべたで、石野さまはうなずく。 「さあ、顔を拭きなさい。おまえが働く場所を案内してやるから」      三  萬屋にいたころ、ほうは、家のなかの誰よりも早起きだった。  子供は眠たがりのものだから、最初からそうだったわけではない。物心ついてくるに従って、早起きが好きになったのだ。  夜明け前の静けさが心地よかった。皆はまだ寝ている。だから誰に怒鳴られることも、邪魔にされることも、意地悪されることもない。追い立てられて働かされる時まで、まだ間がある。  静寂のなかで、家のなかのすべてが、ほうを見守ってくれているような気がした。やがて起き出してくる大人たちは、ほうを邪険に扱うあの寓屋の人たちではなく、ほうの知らぬ、しかしほうを大事にしてくれるに違いない、優しい父母たちであるような気分にもなった。  無論、それは錯覚だ。だがあのころのほうには、錯覚でも慰めになった。こそりとも音のせぬひとときは、ほうの貴重な安らぎのときであった。静けさが深ければ深いほど、ほうの心はゆるくほどけた。  涸滝の屋敷には、昼日中から、そういう静けさが満ちていた。  屋敷裏の小屋に寝泊りして働き始めるとすぐに、ほうは萬屋にいたころの夢を見るようになった。明け方、まだ火の入っていない竈や、雨戸の隙間から差し込む曙光《しょこう》の兆しに、水がめの輪郭だけがほのかに光っているのをながめながら、膝を抱えてうっとりとしている・・・・そんな夢だ。  どうしてそんな昔のことが夢に出てくるのか、最初はさっぱりわからなかった。が、やがて気がついた。このお屋敷の度外れたような静けさが、萬屋の夜明け前に似ているのだなぁ、と。  涸滝の屋敷には、大勢の人びとがいた。すべて丸海藩の藩士たちであり、御牢番である。屋敷のなかには彼らそれぞれの決められた持ち場があり、動くのはそこに付くときと、そこを離れるときだけだ。滑るように歩く。歩くときには息をとめているように見える。もちろん言葉など発しない。  彼らは影だ。生きていて、身体が温かくて、時には匂いなどもする。でも影そのままにひっそりとしている。  そうやって、加賀さまを見張っている。  涸滝の屋敷の構造は複雑だった。廊下は幾重にも折れ曲がり、思いがけないところに仕切りがある。突飛なところに壁があり、行き止まりかと思うところの先に小座敷がある。ほうが「通ってもいい」と許されている場所はごく限られたところだが、その範囲内でさえ迷路のようだ。  ほうの仕事は、最初に言いつけられたとおり、本当に日常の土台になることばかりだった。いちばん大きなことは、厠《かわや》と風呂場の掃除である。風呂場は一日一度だが、厠は日に二度三度と清める。なぜそこまで念入りにするのかといえば、こうした穢れを落とす場所には、悪い気が溜まりやすいからだと石野さまが教えてくれた。これだけ大きなお屋敷で、実は人もたくさん詰めているので、厠もいくつもある。それらを順に掃除しているだけで、日が暮れてしまうことさえあった。  掃除するとき通った廊下は、掃いて拭いてきれいにする。ほうは座敷のなかには入れないのでそこは御牢番の方々が掃いているが、縁側の外や庭まわりはほうの係りだ。雨が続けば砂をまき埃が立てば水を打つ。  台所で常に火種を保っておくことも大切だ。薪や炭も切らしてはいけないから、まめに小屋から運び込む。これは、起きているあいだはほうの仕事だが、ほうが寝付いてからは、御牢番の人たちが引き継ぐ。雨戸の開け閉《た》てと、家中の蝋燭や行灯《あんどん》に火を入れたり消したりすることも彼らの役目だ。  さらにもうひとつ、水がめをきれいに保つという仕事がある。こちらは厠どころではなく、日に五度も六度も洗う。ほうは、自分の肩ほどの高さのある大きな水がめを、それも一つや二つではないが、水を汲みなおすたびに底から縁まで洗い清め、同じように洗った小石を詰める。  涸滝の屋敷には、差し渡し一間半の大きな井戸がある。裏庭の東端にあるのだが、水汲みはほうではなく、御牢番の若い藩士たちが交代で務める。彼らは見張り番の藩士たちとはまた別の班で、井戸水と、涸滝の屋敷に運び込まれる食材の吟味だけにもっぱら専念しているようだ。  料理番も別にいる。正式な食事は日に二度で、それは屋敷の台所で、料理番の手で作られる。食材の使い残しは、ひとつところにまとめられ、すぐ屋敷の外に運び出される。  この屋敷では、夜、布団に横たわり、上掛けをかけて眠るのは加賀さまお一人だけだ。他の御牢番たちは、ここに詰めている限りはけっして横にならない。だから使われる夜具は一度に一組きり。そして毎晩取り替えられる。袴の裾を上げ襷をかけた御牢番が、朝になると裏庭に布団を運び出し、勇ましく竹刀で叩いて埃を追い出し、陽にあてる。布団干しなど、本来は女中のすることだから、ほうはいっぺん、石野さまに尋ねた。あれはわたしの仕事ではありませんか、と。すると石野さまは、優しい口調ながらもきっぱりと、おまえは余計なことを考えなくていいとおっしゃった。  屋敷の東西南北にひと間ずつ、御牢番の詰所がある。ほうが出入りを許されているのは、裏庭の小屋にいちばん近い北側の小座敷だけだ。どうやらそこは、加賀さまが押し込められている座敷から、いちばん遠く離れているらしい。だから夜番の人たちが夜食をとるときはここに来る。食べ終えると交代でまた出てゆく。その折、ほうは器の上げ下げをしたり、湯茶を運ぶのだ。それが終わると小屋に下がって寝ることを許される。  それでも、その北詰所でさえ、御牢番の人たちが何か話をしているのを聞いたことがない。お役目に必要な申し送りなどはしても、それ以外の会話など一切ない。ほうは一度、お膳を両手に抱えて、つと足を踏み違え、転びそうになったことがある。思わずあっと声をあげると、それが静寂のなかであまりに大きく響いたので、血が逆流するほどにうろたえてしまった。あわてて姿勢を正したが、そこにいた御牢番の一人に、無言のまましたたか膝を叩かれた。あとで見ると打たれたところが赤い痣になっていた。  ほうの面倒を見て、同時に粗相がないかどうか監視する役割を負っているのは、石野さまともう一人、小寺さまという御牢番である。お二人は一日交代で屋敷に詰める。ここにいるあいだはけっして寝ない。石野さまはまだ若いが、小寺さまはだいぶ年配だし、一日ごとに疲労が募るところに、梅雨に入って蒸し暑い陽気が輪をかける。どうかすると眠そうなお顔をしている。疲れた顔を見せるのは、しかし、ほうの相手をして裏庭や小屋に出ているときだけである。  石野さまは親切な方だが、小寺さまは愛想がない。お歳はそう、五十を越えているだろう。ほうが裏庭で水がめを洗っているとき、薪の山に腰掛けてその働きぶりを見張りつつ、小寺さまが、思わずという様子であくびをしたので、笑ってしまったことがある。するとたいそう怖い顔で睨まれた。以来、ほうは笑わない。このままでいると、笑い方を忘れてしまうのではないかと思う。  ときどき石野さまが話しかけてくださらなければ、しゃべり方さえ忘れてしまうだろう。 「どうだ、少しは慣れてきたか」  石野さまはそう言って、赤い頬をほっこりと緩ませた。  指を折って数えてみたら、涸滝の屋敷に来て、今日でちょうど十日目だ。梅雨の晴れ間で、ほうは物干し場に出ていた。裏庭の井戸のそばに、竹を割って組み立てた物干しがある。今朝早くに洗って干した白い木綿の下着や下穿きが、微風にそよそよと揺れている。  加賀さまのお召し物を取替え、洗うことも御牢番の仕事である。ただ洗うだけではなく、いちいち検めるからだ。ただし、梅雨時のことでもあるし、頃合いを見計らって干したりしまったりするのは、ほうがやることが多い。そこまで厳密なことを言っていては、日々のことだからすぐ立ち行かなくなってしまう。  はい慣れましたと答えればいいのか、まだ雲を踏むようですと言えばいいのか、ほうには何とも判じかねた。自分の気持ちが自分でわからない。だからぺこりと頭を下げた。 「今日はこれから汲み取りが来る。彼らが帰ったら、また一から厠の掃除だ。今のうちに少し休んでおくといい」  ほれ、と言いながら、石野さまは懐から紙包みを出した。開けると、なかに蒸し饅頭が二つ入っている。  ほうはびっくりした。手を出しかねる。 「饅頭は嫌いか?」  石野さまも驚いたような顔をした。ほうはあわてて首を振った。 「それなら食べなさい。遠慮することはない」  石野さまはほうに紙包みごと渡すと、自分は物干し場のあちこちに残っている切り株のひとつに腰かけた。涸滝の屋敷は、加賀さまのために修繕が入るまで、長いことほったらかしにされていた。敷地を囲む森も、今回あらためてひとまわり広く切り開かれたという。だから裏庭には、けっこうな大きさの切り株が点在している。松の切り株など、まだ切り口に脂が滲んでいる。  ほうは、石野さまから離れすぎず、近づきすぎないところを選んで、膝をそろえて地べたに座った。紙包みを膝に乗せ、両手で饅頭を持って口に運んだ。久しぶりに食べる甘いものは、とろけるほどに美味しい。  陽は中天から少し西に傾きかかったところだ。明け方には忙しく飯を済ませてしまい、陽が落ちるまで何も食べることがないという暮らしで、実を言えば、一日のこのあたりで、ほうは目がまわるほどにお腹が減る。あまりに辛いので、箱膳に入れてあてがわれる二度の飯を少し取り分けて、お握りにして小屋に隠したりしていた。それでも足りないときは、水を飲んでしのぐばかりである。  そこに饅頭だ。がっついてはいけないとわかってはいるが、本当は一口から次の一口への間さえ惜しいほどだった。ひとつ目の饅頭は、またたく間にほうのお腹のなかに消えた。二つ目はちゃんと味わわなくてはもったいない。ごくりと喉が鳴る。 「もっと持ってきてやればよかったな」  笑顔ながらも済まなさそうに、石野さまはそう言った。とんでもない、もったいないですと答えようとしたが、鰻頭で口のなかがいっぱいだったので、ほうはただただやたらに首を振ることしかできない。胸がつまった。顔が真っ赤になる。 「おいおい、大丈夫か?」  石野さまは立ち上がり、傍らに来て、ほうの背中を叩いてくれた。ほうはううと唸って、何とか饅頭を飲み込んだ。 「おまえはこの小さい身体で、一人前の大人以上に働いているのだ。腹も減るだろう。少し飯を増やしてもらえるよう、勝手係に掛け合っておこう」  出し抜けに、ほうは目頭が熱くなった。饅頭がつかえて苦しいからに違いない。 「我らは屋敷から出れば息も抜けるが、おまえはそうもいかない。辛いだろうな」  ほうはかぶりを振ったが、いいかげんちゃんとお返事しなくてはいけないと思った。 「そ、そんなこと、ありません」  石野さまはにっこりと笑った。青々とした月代と赤い頬は、若々しいというよりもさらに初々しい。 「身体の具合におかしなところはないか。夜はよく眠れるか」 「はい、眠れます」  最初の晩こそ落ち着かなかったが、働き始めてからは、横になるなり眠ってしまう。 「少しでも具合の悪いところが出てきたら、すぐ私にそう言うのだぞ。私がいないときは、小寺さまに申し上げるのだ。いいな?」  この言いつけを何度聞いたことだろう。なぜかしら、石野さまも小寺さまも、ほうが元気であることを、ことのほか大事にお考えのようだ。  ——— あたしの他には、ここで働く者が見つからないからだ、きっと。  もっと大勢の女手があるならば、台所のことはともかく、洗い物や掃除、水汲みなどは、御牢番の方たちではなく、女中がやって済むことだ。皆さん、手が足りないから仕方なく、下男下女の仕事をしているのだと思う。いちばん汚れの多いところの仕事だけが、ほうに回ってきているのだ。 「寂しくはないか。いや、寂しいだろうな、うん」  石野さまは自分で問うて、自分で答えてうなずいた。 「私の末の妹は、おまえと同じくらいの歳だ。まだまだ子供で、母上に甘えてばかりいる。おまえは偉い」  ほうは黙って、饅頭の包んであった紙をきれいにたたんだ。 「それは私が捨てよう。誰かに見つかって叱られてはいけないからな。  ほうの手から紙を取り上げると、石野さまは立ち上がった。 「また様子を見に来る。しっかりな」  裏口から屋敷へと戻ってゆく石野さまを、ほうは頭を下げて見送った。  石野さまには妹御がおられるのか。お若いのに御牢番の一人に選ばれ、屋敷内の切り盛りを差配しておられるのだから、石野さまはきっと立派なお家柄なのだろう。妹御も、格式の高い暮らしをしておられるに違いない。  そうしてお母さまに甘えておられる。お母さまも優しい方なのだろう。  ほうは、琴江さまを思い出した。琴江さまの好い匂いを思い出した。  あのまま井上のお家にいられたら、楽しかっただろうな。琴江さまもお元気で。ほうはおそばにいられるだけで良かった。そういえば、琴江さまにも啓一郎先生にも読み書きを教えていたたいたのに、このところのほうときたら、すっかり忘れてしまっている。ここにいたら、そんな必要などまるでない。  木切れを拾って、地べたに自分の名前を書いてみようと思ったけれど、どうにも字が思い浮かばない。ほうの「ほ」はどんな形だったろう。  ——— へえ、あんた自分の名前が書けるの。たいしたもんだ。  おあんさんの長屋にいたころ、そう言って褒めてもらったのにな。でもあのときも、「ほう」と二文字書くのに、えらい手間がかかったものだ。おあんさんはそれでも感心してくれたっけ。  堀外の町場から、ほうの足でもそう遠いところに離れたわけではないのに、ここはもうこの世の果てのようだ。宇佐は——おあんさんはどうしているだろう。せっかく石野さまに励ましていただいたのに、ほうはかえって悲しみが寄せてくるのを感じてしまった。  ——— しめっぼくなってたってしょうがない。  ごしごしと目を拭って、襷を締めなおす。干し物をしたら、次は何をしようか。そうだ、杉木葉を集めておこう。厠の汲み取りが来たあとは、いっとき、臭いも強くなる。香りのいい杉の葉を、たっぷりまかなくては。      遠い声       一   渡部一馬は、老いた下男の足取りを、こつこつと後戻りしてたどっていた。  飯炊き長屋でひととおり聞き合わせ、ついで柵屋敷も根気良く回った。思ったとおり、茂三郎はいわば渡り下男とも言うべき奉公ぶりで、数え切れないほど多くの柵屋敷に雇われていた。  そのことは、下働きの下男さえ一家で一人抱えることが難しいという、丸海の中下級藩士の家々の懐具合を物語っている。紅貝染めの振興で、藩の財政は何とか持ち直したが、それも末端の藩士たちのもとへは届いていないのだ。  身分の卑しい者には珍しくもないことだが、茂三郎は生年がはっきりしなかった。最後に彼を雇っていたのは、食あたりのあった例の山内家と、山内と同格の小坂、三国という徒《か》歩《ち》組の藩士の家だが、どこでも彼の正確な歳を知らなかった。生まれ年の干支の話でも出れば手がかりになったのだろうが、そんな無駄話などしたことはないという。おおよそ七十くらい、七十に手の届くくらいという見当があるだけだ。本人もそう言っていたことだし、と。  渡部も、とりわけ茂三郎の年齢にこだわっているわけではない。ただ、町場では七十歳ほどの老人というのは、そう数が多いわけではない。皆、もっと短命だ。存命していても、寝たきりの病人になっていて、話らしい話が聞き出せない。そのせいかもしれないが、けっこう聞き歩いているのに、昔、茂三郎と一緒に奉公をしていたことがあるという老人に、一向にめぐり合わないのが不満だった。いたとしてもここ五、六年のことなのだ。  茂三郎は、六十を過ぎて、丸海の外から流れてきた者だったのだろうかと、渡部は考えた。それまではどこか他所の土地にいて、下男暮らしをしていた。何かの都合で主人を失い、丸海に来て、ようやくまた慣れた奉公に戻った ———  だとすれば、その折の請け人がいるはずだ。いったん柵屋敷に入り込み、下男として雇われてしまえば、それから後は口から口で、どの家もいちいち請け人など立てない。本人が真面目に働く者なら、その評判だけで渡っていかれる。しかしいちばん最初には、丸海に居着くためだけにでも、誰かしら後ろ盾になってくれる保証人が要るはずだった。  一度聞き合わせた道筋をもう一度たどり直し、今度はそれを尋ねていった。堀外の口入屋の軒数などたかが知れているから、それも同時にあたっていった。  口入屋の主人に、茂三郎を覚えている者はいなかった。彼らの聞き取り帖や手控えにも、茂三郎らしい奉公人のものはない。そうなるとますます、口入屋を通さず、誰かの口利きがあったということになる。  そうこうしているうちに、熱心に歩いた甲斐があって、柵屋敷のある家から、うちの婆やが茂三郎のことを覚えているという話が持ち込まれた。喜んで会いに行くと、これが頭も身体もぴんしゃんとしているが、たいへんに耳の遠い婆やで、渡部はえらい難儀を強いられた。何とか聞き出したことには、今から十年前、茂三郎が下男としてその家に雇われたときには、ある塔屋の主人が請け人になっていたという。 「それはどこの塔屋だ?」  今はもうない塔屋だ、という。五年ほど前に火事で焼けてしまった。しかも失火ということでお咎めをくい、財産と塔屋の札を取り上げられて、一家は離散してしまったというのである。  五年前なら渡部もすでに町役所でお役目を務めていたし、そういえば城下で火災があったことを覚えている。雨の多い土地柄のおかげか、丸海には町場の火事が少ないので記憶に残るのだ。冬場の乾燥や落雷による山火事は大から小まで数知れないが、塔屋のそれも失火となると、めったにあることではない。  ただし残念ながら、火事場検めは町役所でも差配違いだし、だいたいにおいて火消しは山奉行の領分だ。これも山火事が多いせいである。その記録を洗い出すにも、段取りを踏んで手続きをしなくてはならない。  その塔屋の屋号は磯屋であり、火災は正確には六年前の出来事だった。織り子や染め手が何人も焼け死に、失火の罪で、主人の房五郎とおかみのたつの夫婦は丸海を追放され、大坂へ立ち戻ったということが判るまで、三日ほどかかってしまった。  そんな不幸な事情があって、磯屋の血筋の者は、丸海には一人も残っていない。ただ、当時の磯屋で働いていた染め手や織り子たちで、生き残った者が、今も塔屋で働いているはずだという。そのうちの一人が、「離れ屋」という塔屋で織り子頭をしている、おさんという女だ。  梅雨の晴れ間の青空を頭にいただいて、渡部は離れ屋へと足を運んだ。塔屋は一日じゅう忙しいから、時分を選んだところで仕方がない。着いたのは昼前のことだった。  塔屋の戸口でおさんを問い合わせると、奥の釜場にいるという。丸海を支える大切な仕事だとわかっていても、渡部は紅貝染めの独特な臭いが苦手である。本人を呼んでくれろと、入口脇の小座敷のあがりに腰掛けていると、やがてむっちりとたくましい感じの中年女が出てきた。一人ではない。あの宇佐という小娘が一緒である。 「おい、おまえがこんなところで何をしている?」  渡部は思わず詰問した。先に井上家の前で会って、剣突を食らわされて以来だ。自然と声が大きくなった。 「こっちが伺いたいですよ」  宇佐はおさんを退けて前に出てくる。 「おさんさんに何の御用です?」 「いちいちおまえに言わねばならんのか? 一人前の引手でもないくせに、大きな顔をするな」また啓一郎に叱られるぞと言いかけて、さすがにそれはやめた。 「お役目ご苦労様でございます」  おさんの方が恐縮している。年がら年じゅう染めの色を含んだ蒸気にあたっているせいか、つややかな顔色ながら、何となく青黒い。 「おまえがおさんか。何、手間はとらせない。昔おまえが働いていた磯屋のことで、少々尋ねたいだけだ」  宇佐が細い眉を吊り上げる。「磯屋って、あの焼けた塔屋のことですか?」 「うるさい。おまえは引っ込んでいろ」 「あたしは、おさんさんには子供のころから世話になっているんです。半分はおっかさんみたいなものです。渡部さまがそうけんけんとものをおっしゃると、おさんさんが心配なんです」  フン、と渡部は鼻を鳴らした。そんならそこで、気が済むまで見張っていろと言いたいところだが、そうもいかない。  茂三郎の変死については、東番小屋の頭の常次の係りである。引手の小屋同士にも手柄争いはあり、縄張りもある。宇佐の耳に、余計なことは入れたくなかった。検屍の井崎から直に預かった一件だから、少しの粗相もしたくない。  当の井崎は、この十日ほどのあいだで、どうにか顔色を持ち直している。腹を切らねばならぬかもしれない——と告げたときほどの切羽詰った様子は消えた。どうやら、涸滝の屋敷で頓死した女中は、間が悪いには悪すぎたが、単なる病死であったようなのだ。  しかし、涸滝に預かった大きなお荷物があるうちは、井崎の気が休まる時はない。彼に見込まれた身として、渡部は、何とか茂三郎の件は、首尾よく自力で収めたかった。それには、何にでも鼻先を突っ込んでくるこの宇佐という小娘からは、離れているに越したことはない。 「おさん、本当に大したことではないのだ。ただお役目だから、関わりのない者の耳に入れることは憚られる」  矛先を変えて、おさんに頼み込んだ。彼女は働き者らしい肉付きのいい腕で宇佐の肩を抱き、「大丈夫だからさ」とささやいて、押しやった。 「あたし、奥で待ってる」  宇佐は悔しそうに引き下がった。  一本とった格好になった渡部だが、おさんは茂三郎という男のことを、まったく覚えていなかった。当時の磯屋で働いていた下男であったならまだしも、磯屋の主人が請け人になり、他所の奉公の仲介をしてやったというだけのことだから、無理もないのだが……。 「磯屋の主人の房五郎は、面倒見のいい男だったのだろうな」 「さあ……」  おさんは片手を類にあて、顔をしかめた。 「そうやって誰かの請け人になるようなことが、ほかにもあったろうか」 「申し訳ないですけども、あたしはただの織り子で、旦那さんやおかみさんのなさることを、みんな知ってたわけじゃありません」  磯屋とこの離れ屋は、主人が遠縁にあたり、だからおさんは、織り子としてそこそこ腕があがると、請われて離れ屋の方に移ったのだそうである。磯屋が火事になったころには、もう離れ屋の織り子になっていた。なるほど、磯屋の火事から六年だ。その程度の歳月では、生え抜きではないおさんが織子頭になれるとも思えない。  当時の聞き取りに間違いがあると、渡部は舌打ちした。 「あんたの知る限りで、磯屋の主人夫婦のことをよく知る者が、丸海にいないだろうか」 「どうでしょう。なにしろ大勢が死にましたしね。下から火が出たんで、みんな逃げられなかったんですよ。旦那さんたちはお咎めを受けて立ち退いちまったし……」 「たいへんな火事だったな」 「釜場にでくのぽうがいたんです。旦那さんはお気の毒でした」  おさんは、それがつい最近の、自分の手下の失策であるかのように腹を立てている。 「磯屋は、古い塔屋だったんだろうか」 「うちの——離れ屋の方が、塔屋になったのは先です。磯屋さんは屋号のとおり、昔は磯物を扱う小売屋でした。離れ屋が繁盛したんで、誘われてそっちにも手を広げたってお話です。紅貝染めを扱う商人には、お金が下されましたからね」  振興策の一環である。 「なるほど。しかも縁戚だしな」 「でも磯屋さんも、けっして傾いてたわけじゃないんですよ。あたしが奉公にあがったころには、まだ塔屋の方はほんの片手間でしたし‥」  嫌だよ、とんだ昔話ですよと、おさんは笑う。 「磯物の方もなかなかの羽振りで、藩内の大きなお屋敷にはほとんど出入りを許されていたと思います。鯛とか、季節物の貝とか、特に品の好いのを揃えて扱っていましたから」  磯物屋はつまり魚屋だが、この商いの元締めは、丸海では船奉行である。豊富な海産物のあがりで藩の財政を潤してきたという自負を持つ船奉行は、藩の紅貝染め振興策に、いい顔をしていなかった。それは今もそうだ。磯屋が、もともとの商いを続けながら塔屋の振興にも力を入れるということができなかったのは、そのせいだろうとおさんは言う。  渡部はうなずいた。大いにありそうな話だ。なまじ藩の名家や旧家にひいきにされていただけに、磯屋は板ばさみになってしまったのだろう。そして、どちらか一方を選ばざるを得なくなり紅貝染めを振興する勢力の方に賭けた。賭けには勝ったが、思いがけない失火がすべてを台無しにしたというわけだ。  いずれにしろ、この糸をたぐっていっても無駄のようだ。渡部は腹のなかでため息をついた。  茂三郎はどこから来たのだろう? どうして磯屋の主人が請け人になり、彼を柵屋敷に世話することになったのか。あるいは、磯屋に親しく出入りを許していたどこかの家に、頼まれたのだろうか。  しかしそれなら、その家が自ら請け人にならないのはおかしい。茂三郎の奉公先は柵屋敷だったのだ。商家に斡旋されたのではない。まったく逆だ。  おさんが困ったように足先をもじもじさせている。渡部は笑った。 「これは済まない。いや、話はよくわかった。仕事に戻ってくれ」  おさんは頭を下げて奥へ戻っていった。入れ違いに、宇佐が出てきた。さっきの険しい目つきではないが、何か訊きたそうだ。  先手を打って、渡部は問いかけた。 「先にも訊いたが、あの子は元気か?」  とたんに、宇佐の顔色がすっと薄くなった。 「何だ。なぜそんな顔をする?」  先日もそうだった。ほうのことを尋ねると、宇佐の様子がおかしくなる。 「あの子の身に何かあったのだな? おまえ、何を隠しているんだ」  宇佐は詰め寄る渡部から顔を背けると、脇をすり抜けようとした。渡部はその腕をつかんだ。 「ここじや話せません」と、宇佐は低い声でささやいた。そして、にわかに喧嘩を売るような目つきになり、渡部を睨んだ。 「それに渡部さまは知らない方がいいと思いますよ」 「それはどういう意味だ」 「言葉どおりの意味です」  宇佐は渡部の手を振り払うと、塔屋の外に出て行った。渡部は早足で追った。 「もう一度訊くぞ。知らない方がいいとはどういう意味だ」  強い日差しに、一瞬目がくらんだようになる。二人の影が、墨でも型に流したように、くっきりと地面に落ちる。  それでも釜場の蒸気に満ちた塔屋から離れると、海風の涼しさを感じることができた。首筋のあたりがすっとする。が、そのとき渡部は、宇佐のうなじや腕が鳥肌立っていることに気がついた。  胸の内で、心の臓がのたくるような感じがした。形のなかった不安が、ぐっと凝《こご》って喉につかえる感じもした。 「あの子は1死んだのか?」  宇佐は答えず、闇雲に歩き出す。どこへ行くんだと、渡部は追いかけた。 「本当に知りたいんですか」 「気になる」 「あんなに怖がっていたくせに」  吐き出すような宇佐の言葉に、腹が立つより先に、渡部ははっとした。 「俺が怖がっていた?」 「震えあがっていたじゃありませんか」  ——— ひとひねりだぞ、宇佐。  渡部は足を止めた。「それは加賀殿お預かりのことか? しかし、あの子が加賀殿とどんな関わりがあるというのだ」  宇佐は逃げるように足を早め、塔屋の立ち並ぶ通りを抜けてゆく。渡部は宇佐の背中を見ながら、そのあとについていった。  やがて掘割に出た。左手の方を遠く仰げば、涸滝の屋敷のあるこんもりとした山と森が見える。宇佐は堀端で立ち止まると、野放図に青々と茂っている丈の高い草のあいだにしゃがみこんだ。  ぐるりに人気はない。森のなかで油蝉が鳴いている。掘割の水は温《ぬる》く淀み、青空をぼんやりと映して、昼寝をしているようにとろりとろりと流れている。 「ほうは涸滝のお屋敷に行きました」と、宇佐は言った。「舷洲先生のお言いつけです。あの子はあそこで奉公してるんです」  渡部は、ようやく腑に落ちた。 「そうか……」  そう応じて、宇佐の隣にしゃがみこんだ。 「そういうことだったか」  宇佐は彼の顔を見返った。訝しげに目を細めている。  あんまり驚かないんですね。怖くないんですか。渡部さまはただの木っ端役人だから、涸滝のことになんか、金輪際関わりたくないんでしょう?」  俺はこの娘に、そんな言い方をしていたのかと渡部は思った。さぞやだらしなく、腑抜けに見えたことだろう。  いや、腑抜けは今も同じだ。藩の暗部に触れることも嫌だ。嫌だが・・・・ 「驚かないのは、俺は俺なりに知っていることがあるからだ」  涸滝では例の女中の頓死があり、手が足りなくなったのだ。しかし、下働きとはいえ、めったな者をあの屋敷に入れるわけにはいくまい。では誰が行く? 誰を行かせる? また頓死したら?  女中は病死したのだ。井崎の診立てに間違いはない。だが、昨日まで元気でビンピンしていた者が、コロリと死んでしまうのを目の当たりに見ては、どんな理屈も吹っ飛んでしまう。  これは加賀殿の呪いだ。涸滝の屋敷に棲んでいる悪しきモノに、加賀殿の力が加わって、ますます強大になった。近づく者を取り殺し、丸海に災いを降らそうとしている ———  そんなところに誰を行かせる? 牢番として詰めている藩士たちだって、それができるものなら今すぐ逃げ出したいことだろう。  だから、ほうに白羽の矢が立ったのだ。あの子は他所者で、頑是無い子供だ。おまけに少々頭が鈍い。いいではないか、格好の人身御供だ。 「何を知ってるんです?」  今度は宇佐の方が、食い下がるように問いかけてきた。渡部は首を振った。 「おまえは知らん方がいい」 「なんで隠すんです? あたしはほうのことが心配だから———」  きつい目をして睨まれても、渡部はかぶりを振り続けた。 「あの子を涸滝に遣ってしまった以上、ここでいくら心配したって、もう追いつかん」  宇佐はいっそう小さくなって、寒そうに膝を抱いた。渡部はちくりと胸が痛んだ。 「舷洲先生の言いつけじゃ、おまえが逆らえなくたって仕方がない」  慰めるつもりで口にした言葉だが、自分で覚悟していた以上に嘘くさく聞こえた。 「この前、井上家のそばで会ったとき、おまえは真っ青な顔をしていた。あのときも変だと思ったものだが、あれは・・・・ そうか、あのとき舷洲先生に呼ばれて、ほうを涸滝に奉公に出すようにと命じられたんだな?」  宇佐はこっくりとうなずいた。 「このことは、他に誰が知っている?」 「誰も知りません」 「嘉介親分もか?」 「誰にも言わないようにって、舷洲先生が。表向きは、ほうはいっぺん井上家に戻されて、それから江戸の親元に帰されたことになっているんです」 「それじゃおまえ一人で・・・・ 」  抱え込んできたのかと、言おうとして渡部は黙った。宇佐は涙ぐんでいる。 「あの子を逃がしてやりたかったけど、あたしにはどうすることもできなかった」  渡部は夏草をひとつかみ千切り取ると、掘割に向かって投げた。 「おまえでなくてもどうしようもない。おまえが悪いわけではない」 「だけど……」 「頭を冷やして考えてみろ。逃がすといって、どこへ逃がす? あの子ひとりでどこへ逃げられた? 江戸までは帰れんぞ」  宇佐は、渡部の投げた草切れが掘割をぶかぶかと流されてゆくのを、まぶしそうに目を細めて見つめている。 「金比羅さまの門前町まで連れて行けば、働き口ぐらいあるだろうからって」 「それはつまり、おまえも一緒に行くという意味か?」 「そうですよ。二人で旅籠にでも飯屋にでももぐりこんで、一緒に働けばいいって思ったんです‥まさか追っ手がかかるほどのこともなかったでしょうから」  渡部には判じかねた。舷洲先生の腹積もり如何では、追っ手だってかかったかもしれない。 「そう上手く運んだかな。おまえは丸海の町しか知らんのだろう? 金比羅さまの門前町は確かににぎやかだが、その分、丸海よりはずっと抜け目ないし、腹の悪い商人も大勢いる。おまえなど、騙されて春をひさぐ羽目になっていたかもしれん」 「それだってよかった」と言って、宇佐は拳を握り、いよいよ溢れ出してきた涙をぐいと拭った。 「だがおまえはそうしなかった」  渡部は察した。 「舷洲先生に逆らいたくなかったからだ。というより、啓一郎を困らせたくなかったからだ。違うか」  涙声で、宇佐は抗弁した。「違います。このことでは、啓一郎先生は何もおっしゃっていません」 「だが舷洲先生の後ろに啓一郎の顔が見えた。おまえがほうを連れて逃げ出せば、ほうを差し出すと藩のお偉方に——御牢番頭だか御家老だかわからんが——請け合っていた舷洲先生の顔が潰れる。それは匙の井上家が面目を失くすということでもある。おまえは、そんなことをしたくなかったのだ」  だから従うしかなかった。  宇佐は膝頭に額を押しつけてすすり泣き始めた。  この娘は啓一郎に惚れているのだ。けっしてかなうはずのない恋だが、それでも真実惚れてい るのだ。ほうと啓一郎とどちらを取るかという選択に、だから啓一郎を選んだのだ。  そして自分を責めている。 「もう気にするな。ほうは大丈夫だよ」 「いい加減なことを言って」  泣き声で咎められて、渡部は少し苦く笑った。「そうだな。俺はいい加減だ」  渡部はまた草を千切った。長い葉っぱをくわえて噛んだ。 「中途半端にしておくと、おまえがまた気を揉むだろうから、ちゃんと教えてやる。だがこのことも他言法度だ」  涸滝の屋敷が切実に下働きの女手を求めていたのは、先からあそこにいたただ一人の女中が頓死したからだと、渡部は話してやった。 「あわてるなよ。その女中は病死だった。取り殺されたわけじゃない。ただ間が悪かったというだけだ」   それは絶対に確かなことだ。井崎さんが検屍したのだからなと、渡部は声を強めて言った。 「藩としては、本来なら、涸滝には御牢番の藩士たちだけしか入れたくないところだろう。だが、連中は武士だからな。それがお役とは言え、武士の面目として、日常の些事などで、どうしてもやりたくないことはある。そこには下働きがほしい。だから一人だけ女中を入れたのに、あっけなく死なれてしまった。これがどういうことかわかるか、宇佐。おそらく、その女中を推挙した藩の誰かは、お咎めを食っているだろうよ。検屍をしただけの井崎さんだって、あるいは腹を切らねばならないかもしれんと覚悟を固めていたからな」  宇佐には今ひとつわからないようで、涙の溜まった目を訝しげに細めている。 「わからんか」  渡部は草を噛みながら苦笑した。 「なら、もうちっと噛み砕いてやろう。そもそも女中が死んだというだけで、まず御牢番頭の船橋様の失態なのだ。死という穢れを、幕府からの大切な預かりものである加賀殿のおられる屋敬に持ち込んでしまったのだからな」 「だけど……そんなのはおかしい。加賀さまは何人も人を殺しているんでしょう。死の穢れなんて、とっくにまつわりついてる」 「そうだが、これは意味が違うのだ。お上が加賀殿に切腹を申し付けず、もちろん斬首なんぞにもせずに流罪としたのは、加賀殿に生きていてもらわねば困るからだ。加賀殿が死んで、正真正銘の死霊となって、将軍家に祟っては困るからだ。どうやら上様は、この世の何より死霊や悪霊の崇りが怖くておられるようだからな。そのことなら、おまえも知っているだろう?」  宇佐はゆっくりとうなずいた。涙の筋が頬に残っている。夏草の匂いが、この話には場違いなほどにかぐわしく、二人を包み込んでいる。 「それだから、�死″にまつわるどんな事柄も、加賀殿のそばに近づけてはならんのだ。しかし女中は死んでしまった。ではなぜ死んだのか。どこも悪いところがないのに、突然死んでしまったというのならば、女中は加賀殿の悪気にあてられたということになるから、これまた船橋様の失態が重なることになる。つまり、加賀殿を封じ込めることができずに死者を出してしまったわけだからな」  そうなんだ ——— と、宇佐が呟いた。 「では女中が病死だったと判ればどうなるか。今度は、女中を推挙した者の失態だということになる。そんな身体の弱い者を、涸滝の屋敷に入れた資任を問われるわけだ」  検屍役の井崎は、事実がそのどちらであるかを見極めなければならなかった。彼がどちらの結論を出しても、誰かの顔が潰れることになる。井崎の責任は重大だ。左右のどちらに旗をあげようが、責務を問われることになる側は、激しく抵抗することだろう。だからいざとなれば井崎は腹かき切ってでも、己の下した結論を通さなくてはならなかった。その覚悟が要ったということだ。 「そして女中は病死だった」と、渡部は続けた。「その結論が通った。井崎さんが腹を切らずに済んだのは僥倖《ぎょうこう》だった。あるいは殿の計らいで、死んだ女中を推挙した者の処分が、存外軽く留まったのかもしれん。切腹だお役御免だという騒ぎになれば、さすがに、俺のような町場の小役人の耳にも入るからな。禁足や格下げ程度なら、堀内の深いところで暮らしていなくてはわからない。どのみち、女中を推挙したのは藩の重臣に決まっているのだから」  宇佐はしゅんと鼻をすすると、渡部の顔をのぞきこんだ。あらためて不安に瞳を曇らせている。 「そんなら、その女中さんの後釜を差し出す舷洲先生は、これまで以上に重い責任を背負い込むことになったんでしょう?」 「そうだな」 「だったら、もし・・・・もしもほうの身に何かあったら、それは井上家の責任にもなるんだね?」  渡部はぷいと草を吐き出すと、口元をへの字に曲げて宇佐の顔を真っ直ぐに見返した。 「だから、あの子は大丈夫だと言っているのだ。舷洲先生が見込んで送り込んだのだからな」  他所者だから、死んでも惜しくないということは言わなかった。ほうは頭が鈍いから、かえって悪気にあてられず、強いかもしれないということも言わなかった。仮にほうが死んでも、今度は井崎の手など借りず、匙家の舷洲先生がじきじきに診立てれば、何とでも言いつくろうことができるということも言わなかった。そんなことを言ったって、宇佐を安心させることにはならないからだ。  宇佐はしばらくのあいだ、渡部の言ったことを咀嚼《そしゃく》するように考え込んでいた。それから、少しばかり気を取り直したのか、はっきりした口調に戻って尋ねた。 「渡部さまのおっしゃる井崎さまって、大したお人なんですか」 「立派な検屍役だよ。何でだ?」 「だって、涸滝には匙の砥部先生が入っておられるんでしょう? 砥部先生を差し置いて死人の診立てをするなんて、よっぽどの眼力じゃないですか」 「砥部先生は死人を診ることができないんだよ。日々加賀殿のお脈を診ているのだぞ。その同じ手で、死人に触れるものか」  あ、そうかと宇佐はまばたきをする。 「ややこしい……」 「ああ、まったくだ」  渡部は頭の後ろで手を組むと、ごろりと仰向けになった。頭上には広々とした青空。つい鼻先を、ひとかたまりの白い雲が流れてゆく。つかんで口に入れることができそうだ。 「あの子は大丈夫だよ」と、その雲に向かって渡部は言った。「考えてみろ。あれは運の強い子だ。わけもわからず江戸から連れられてきて、置き去りにされて、それでも今まで生きてきた。そのときそのときで、あの子の力になる人物が現れて、助けてきたからな。井上家もそうだし、おまえもそうだ。涸滝でだって、きっと上手くやるさ」  宇佐は黙っている。仰向けになっている渡部には、その肩から上しか見えない。妙にしおらしく、女らしく見えるのが不思議だった。 「大丈夫だ」と、渡部はもう一度言った。但し、今度は意味が違った。 「あの子はおまえを恨んでなどいないさ。それだけの知恵がないって意味じゃない。あの子はおまえを好いていた。おまえのしたことを許してくれるさ。おまえだって辛かったんだ。ほうと啓一郎を秤にかけさせられたんだからな」  そして、ほうの方が軽いと見定めた。そうするしかなかった。渡部にはよくわかる。  自分でも思いがけないほどあっさりと、渡部は言ってしまった。 「俺は琴江殿に惚れていた」  宇佐の背中がぴくりとした。おそるおそるという感じで、渡部の方を振り返る。渡部は白い雲を見ていた。 「惚れていたが、琴江殿の死が殺しだと明らかにして、梶原の美祢をひっくくることはできなんだ。俺なりに秤にかけるものがあって、仕方がなかったと自分で自分に言い訳しながらな。宇佐、俺とおまえじゃやったことは逆だが、根はひとつだよ。自分にとって大事なもののうち、どちらかひとつを選べと言われて選んだんだ。俺の選択は卑怯だった。まだしもおまえの方が立派だ」  宇佐は啓一郎を守ったのに、渡部は琴江を見捨てた。真実から逃げ出して、今もそこから顔を背けている。 「俺は臆病で、だらしのない男だ。おまえの方が、よっぽど上等だ」  しばらくのあいだ、二人とも黙り込んでいた。じっとしているのに、油蝉の鳴く声が遠くなったり近くなったりする。 「ほう、どうしているかな」  いつの間にか宇佐は、涸滝の屋敷のある方角に顔を向けて、遠い目をしていた。 「働いて、飯を食って、夜はぐっすり寝て、ちゃんとやっているさ」  えいと勢いをつけて、渡部は起き上がった。 「さて、そろそろ行くか」  着物にくっついた夏草をはらっていると、宇佐も立ち上がった。 「渡部さま、おさんさんに何を訊いたんですか」 「大したことじゃない」 「何日か前、柵屋敷の山内さまをお訪ねになりましたよね? 山内の奥様に伺ったんです。茂三郎という下男のおじいさんが死んで、その死に方がちょっとおかしいから調べてるとおっしゃったそうじゃないですか」  渡部は眉を上げた。「おまえ、耳が早いな。山内家に出入りしてるのか?」 「あすこで食あたりが出たときに、聞き合わせに行ったことがあるんです。まだ加賀さまが丸海に来る前のことでした。その後どうかと思ってご機嫌うかがいに顔を出したら、茂爺が死んだって」  死に方がおかしいって、どうおかしいのですかと宇佐は尋ねた。 「西番小屋じゃ、その件については誰も何も聞いちゃいません。東番小屋の常次親分の係りになっているんですね」 「まあ……そういうことなんだが」  渡部はうなじを撫でた。そこにも夏草のきれっぱしがくっついていたので、ついでにつまんで取った。 「本来、町廻りの俺がかかわるような事柄じゃないんだ。ちと頼まれてな」 「東番小屋の引手を使っておられるんでしょう」 「うん」  とはいえ、最初の手の打ちようがちぐはぐだったので、あまり信頼されていないような感じがする。  そうか、宇佐は山内家を知っているのか。これも何かの縁かなと渡部は思った。 「おまえ、俺を手伝ってくれんか」 「は?」と、宇佐は目を瞠った。「だってあたしは西番小屋の・・・・ 」 「どうせ半人前なのだろう。西番小屋の連中だって、おまえを勘定に入れてはおらんさ」  この件は井崎さんから直に預かったのだと、渡部は宇佐に説明した。毒物について啓一郎に教えを請うたことも、おさんを訪ねた理由も話した。宇佐は熱心に聞き入っていた。 「そうすると、未だに茂三郎さんがどこから来たのか、昔はどこに奉公していたのか、何もわからないままなんですね」 「そういうことになるなぁ」  はっきりと指摘されて、渡部はちょっと恥なような気がした。「なにしろ手がかりらしい手がかりがないし」  宇佐は頓着しない。すべすべした眉間に皺を刻んで、 「だけど井崎さまは、茂三郎さんの顔に見覚えがあるとおっしゃっているのでしょう」  町役所ではそう言っていた。 「それ、大事なことなのじゃありませんか」と、宇佐はきりりとした顔つきになった。 「何でだ?」 「だって、茂三郎さんが珊屋敷に下男奉公するときには、磯屋が請け人になったのでしょう? 磯屋は丸海の名家や旧家とつながりのある商人です。茂三郎さんの請け人になったのも、そういう大事なお得意先から頼まれたからだったんじゃありませんか」  確かにあり得る話だ。「だから? 」  宇佐はじれったそうに足を踏んだ。 「その二つを結びつけてみてくださいよ。井崎さまは、よほど怪しい死人が出たときでなければ、検屍には行かないでしょ。だったら、井崎さんが茂三郎さんの顔に見覚えがあるというのは、昔どこかで怪しい人死にが出て、井崎さんがお調べに入ったときに、そこに茂三郎さんが居合わせたということじゃないんですか。そうすると、その居合わせた先というのは、そのとき茂三郎さんが奉公していた家だったんじゃないですか」  そこまで言われて、渡部もやっと目が晴れた。なるほど、そういうことか。 「あるいはそこが、磯屋に、茂三郎さんの請け人になってくれと持ちかけた家かもしれませんよ。順番としちゃ、ありそうな話です。そうすると、けっこうな名のある家かもしれません。井崎さまは、検屍となればどこへでも呼ばれるのでしょう? そこにまで、公事方だ町役所だという縄 張りがあるわけではないのでしょう」 「それはないな。公事方も井崎さんを頼りにすることがある」 「それなら、井崎さまにもう少しよく思い出していただかなくちゃ。いったいどこで茂三郎さんの顔を見たのか。それはどういう検屍のときだったのか。井崎さまを揺さぶって、思い出させて、聞き出してくださいよ、渡部さま」  渡部は顎を引き、宇佐の小作りな顔をじっくりと見直した。「おまえ、頭が回るな」 「お世辞はいいです。あたしはもういっぺん、山内の奥様からお話を聞いてみます。どんな小さなことでもいいんですもの。茂三郎さんの話していたことや、もろもろ何か思い出すことはないかって。柵屋敷で働いていたころの茂三郎さんを知っている人にも、残らずあたってみます」 「ろくな話は出てこないと思うぞ」  宇佐は強気に笑った。「渡部さまが、そんな短気そうなお顔で肩で風切って聞き取りをしたんじゃ、みんな口をつぐんじまいますよ。何か思い出しても、つまらないことだったら、かえって叱られそうだと思って、黙ってしまいます」 「半人前のおまえの方が向いてるか」 「ええ、向いてますとも。あたしは手仕事だの水汲みだのを助けたりしながら、ついでにおしゃべりできますからね」  さっきまで萎れていたくせに、急に元気になってしまった。 「あたし、お手伝いします。手伝わせてください」宇佐はあらたまり、渡部に頭を下げた。そして渡部が何とも言わないうちに、顔を明るくしてぱちりと手を打った。 「磯屋はもともとは磯物の問屋だったんでしょう? それなら、漁師町の方にも顔が利いたはずです。茂三郎さんが奉公していた家は、潮見の家だったのかもしれない。ねえ?」  宇佐の勢いにちょっと押されて、渡部はうんというような声を出した。 「漁師町なら、言っちゃ何だけど渡部さまよりあたしの方が詳しいです。あたしはあっちの生まれですから。潮見のおじさんに聞き合わせてみることだってできます」 「そ、それじゃあ頼む」 「任せてください。渡部さまは井崎さまの方をお願いします。手ぶらで顔を合わせて、ただ思い出してくれじゃ無理ですよ。町役所には、検屍の古い書き物が残っているのでしょう? お二人でそれを調べ直してみたら、糸口になるかもしれませんよ」  それぐらいはおまえに言われるまでもないと言い返そうとして、渡部は吹き出してしまった。 「あたし、何かおかしいことを言いましたか?」 「いや、おかしくはない。いい思い付きだ。早速そうしてみよう」  それじゃ行きますとばかりに宇佐が駆け出しそうになったので、渡部は止めた。 「これから、おまえと相談事をするときにはどうしたらいい? 俺の方から、西番小屋の嘉介に話してやろうか。宇佐が一人前の引手でないことは充分わかっているが、俺の探索には女手が要るから、しばらく貸してくれとでもさ」  それで嘉介が承知してくれれば、渡部としても、女の引手のいない東番小屋の常次に対しても言い訳ができる。  しかし宇佐は気乗りのしない様子だった。 「嘉介親分はいいんですけど、花さんがうるさそうだから」 「仲間か」 「そうです。花吉って引手で、親切なんだけど、あたしのやることにはうるさく首を突っ込んてくる人だから」  渡部は懐手をすると、鼻先を夏空に向けた。そのまま言った。「何にせよ、東西の番小屋の親分には断りを入れておかないと、いろいろ面倒なことになる。丸海の町は狭い。おまえだって、首尾よく手柄をあげて一人前の引手になったはいいが、鼻つまみ者にされちゃ具合が悪いだう」  宇佐はうなずいて、困ったように足を踏みかえた。 「ま、その花吉とやらは、うまく機嫌をとって振り切ることだな。そういう手管《てくだ》を覚えることも、女だてらに引手をやっていく上じゃ大切だ。何事も修業だぞ、宇佐」  せいぜい偉そうに言ってやったのに、宇佐は頬を緩めて笑い出した。 「あんまり調子に乗るな。俺は役人だぞ」 「はい、わかりました」  宇佐は塔屋の方角へと駆け出していった。  渡部はもうしばらくそこにいて、空を眺めたり、掘割の水に影を映してみたりした。  油蝉がしきりと鳴く。どの森のどの木立にいるのか、とんと見当もつかない。茂三郎の過去も、こうして遠く近く鳴く一匹の油蝉と同じくらい、とらえどころのないものだ。  だが今は、そんな頼りのないものでも、追いかける仕事ができただけ、渡部は救われているのだ。だから、宇佐も同じようにしてやりたかった。  ほうはどうしているだろう。涸滝の屋敷はどんな具合なのだろう。これについて思い悩むのはこれで最後にしようと思いつつ、渡部は森の向こうに目をやった。     二  宇佐はせっせと漁師町を歩き回った。  最初に潮見の宇野吉を訪ね、事情を話した。漁師町のなかに、茂三郎の素生を知っている者はいないか。昔、彼と同じところで働いていたことのあるものはいないか。焼けてなくなってしまった磯屋に、かかわりのあった者はいないか。 「あてがあって探すことなのかい」と、宇野吉は訊いた。それはないと、宇佐は正直に答えた。ほんの思いつきだけれど、調べ事というのは、そういう思いつきから始まるもので、調べてみて何も出てこなければ、その思いつきを脇に除けて、次の思いつきに取りかかれるから、これは大事な手順なのだと。 「引手なんざ、酔狂な仕事だ」  宇野吉は笑ったけれど、宇佐の熱心さにうたれたのか、この者の聞き合わせに答えてくれるようにと、簡単な回状を書いて持たせてくれた。おかげで宇佐の立場はぐっとよくなった。漁師町のなかには、宇佐が生まれたこの町を捨て、堀外に出ていって、町役所の手先である引手なんかになったことを快く思っていない連中もいるから、なおさらである。  もっとも、はかばかしい成果はなかった。  磯屋が磯物を扱っていた時代には、当然、漁師町とのつながりも濃かったはずだ。潮見なら、みんな機屋のことを知っている。また漁師のなかには、昔、うちの娘があそこで子守奉公をしていたよとか、毎朝磯物を荷車に乗せ、磯屋まで卸しにゆくのが自分の仕事だったという人びとがいた。そういう人びとを見つけることは難しくなかった。たかだか五年前のことなのだ。  が、誰も茂三郎という男を覚えていない。人相書きを見せても、こんな顔に見覚えはないという。となるとやはり、茂三郎は漁師町から来たのではないのだろう。  人相書きは、渡部に頼んで作ってもらった。宇佐がそれを思いついたとき、渡部はまた感心したものだ。おまえは俺よりよほどしっかりしていると言った。  宇佐は人相書きを持って、あらためて山内家も訪ねた。山内の妻は、絵がよく似ていると驚いた。「誰から聞いて、この絵を描いたのですか」  宇佐は、茂三郎の住んでいた飯炊き長屋のことを話した。家主の八郎兵衛が、茂三郎の世話を焼いてくれていたことも話した。山内の妻は目に涙を浮かべて、 「ずっと当家にいてくれても、なんの障りもなかったのですが」と呟いた。 「茂三郎さんは、自分からお暇を願い出たのですよね?」 「そうですわ。わたくしたちとしては、あれにいてほしかったのです」 茂三郎は、表向きは山内家の下男ということで抱えられていたが、柵屋敷の他の家でもこまごました仕事をしており、その対価は山内家に支払われていた。少ない禄でやりくりをしている軽輩・軽職の藩士たちのあいだでは、これはまったく珍しいことではない。茂三郎の働きと、それに対する支払いをめぐって、他家と揉めたこともないという。  茂三郎は山内家の人びとと同じように食あたりを起こし、それで身体が弱ったので、奉公から引いた。しかし飯炊き長屋では、八郎兵衛が茂三郎のために、塔屋の働き先を探してやるつもりでいた。本人もそれを望んでいたからだ。茂三郎は、元気になったら働く気があったのだ。また、そうでなければ食べてはいけなかった。茂三郎の身の回りを調べた渡部は、かの老下男がほとんど蓄えらしいものを持っていなかったと言っている。  不思議なことではない。住み込みの奉公人の給金など、雀の涙だ。まったく払わない家の方が多いくらいだ。雇う側にしてみれば、住まわせて、食わせて、着させるだけで棒引きだ。よほど裕福な大家に長年勤め、雇い主が寛大な場合には、奉公を退くときに多少の涙金が下されることもあるが、それはごくごく珍しい。病で働けなくなったら追い出され、そのまま野垂れ死にするということだってある。八郎兵衛の飯炊き長屋が成り立っているのは、そこまで酷薄なことはしたくないが、働けなくなった奉公人を抱えてゆくほどの余裕はないという藩士たちの家が、丸海にはたくさんあるということを物語っている。  華やかな紅貝染め振興策の成功も、薄全体を肥やしているわけではない。なるほど藩の財政は好転し、一部の役人と商人は儲けたが、それらはごくごく上澄みの、限られた人びとのことに過ぎないのだった。  茂三郎という下男の過去を追いながら、宇佐は初めてそれを痛感した。  宇佐はまだ若く、お金はなくても元気はある。自分ひとりの口くらい、どうやったって養ってゆくことができるという楽観がある。一方で、丸海の紅貝染めがもてはやされることは自慢だけれど、自分とはかかわりのないことだという思いもあった。紅貝染めが稼ぎ出す金が、藩のどこでどう活かされ、潤いとなっているのかということを、気にかけたこともなかったのだ。  山内家では、茂三郎の後の下男の目処がたたず、困っていた。一人では世話がままならぬのだろう、庭の畑は枯れていた。山内の妻の手も荒れていた。  ——— 皮肉なものだ。  紅貝染めがあたったおかげで、丸海藩は幕府に目をつけられた。そして加賀さまを押しつけられる羽目になった。豊かにな財政が、藩士たちに、町場の者たちに分け与えられる順番が来る前に、涸滝の屋敷に住む彼《か》のお方が、それをすっかり食いつぶそうとしている。  それこそ、本当の意味の大悪霊に憑かれたってことじゃないかと、宇佐は思った。  それにしても、気になってきた。今でもあんなに惜しまれているのに、職を失って暮らしていけるほどの蓄えもなかったのに、どうして茂三郎は山内家を振り切って、奉公をやめたのだろう。  その日、宇佐は朝から半日以上を、磯と浜で過ごしていた。今日ばかりは引手ではない。潮見の宇野吉に回状を書いてもらったお礼に、干物づくりを手伝う約束をしたからだ。  子供のころには、毎日のようにやっていた作業だ。手の中に隠れてしまうような小さな刃物、ここらでは「削ぎ刃」と呼ぶ小包丁で、大量の青身の魚のわたを抜いて開きにする。浜にずらりと簾《すだれ》を並べ、それが陽を遮る風通しのいい日陰に、女たちが手際よくおろした魚を吊るしてゆく。潮風が魚の旨みを引き出してくれる。  干物作りは女たちの仕事だ。幸いなことに丸海の海は豊かなので、いつでも手不足だ。しかし丸海藩士の妻や娘たちは、紅貝染めの内職はしても、こちらの方には手を出さない。肌にも髪にも魚の臭いが染みつくし、一日じゆう陽にあたっているので、半日もすると別人のように日焼けしてしまうことも嫌がられるのだろう。それさえ厭わなければ、けっこうな日銭になるのだが。 「回状の一枚分よりもっと働いてもらったから、宇佐、これを持っていけ」  帰りがけになって、宇野吉が重たい包みをくれた。小魚や烏賊の一夜干しがどっさり入っていた。酒好きの嘉介親分など、涎を垂らして喜ぶだろう。  渡部から西番小屋に、宇佐を借りると話を通してもらい、親分にも許しはもらってある。何かとうるさい花吉からも、今のところは上手に逃げている。が、今日一日の留守は宇佐の勝手だ。 これでちょっとは埋め合わせになる。宇野吉は、たぷんそこまで察してくれたのだろう。  「ありがとう、おじさん」  宇佐ははずむ足取りで浜を後に、漁師町を抜けていった。西番小屋に帰るには、このまま町筋を右に折れ、港から広がる旅籠町を通り抜けて行けばいいのだが、ふと気を変えて、堺町の方へと左に曲がった。  堺町は、文字通り漁師町と堀外の境に位置している。もともと砂地の湿地で、ずっと昔には町屋などなかったところだが、丸海の町に人が増えるにつれて家が建ち並ぶようになった。海水と真水の入り混じった小さな池があり、町屋はそれをぐるりと取り巻くように建っている。漁師町と同じく、このあたりの井戸は飲み水としてはまったく使い物にならないので、水売りがよくやってくる。今も、「水やい水やい」とけだるい声をあげながら、棒《ぼ》手《て》振りが宇佐とすれ違っていった。  堺町は全体に貧しい。漁師町でも堀外でも暮らすことのできない人びとが集まっているからだ。どちらの町でも半端な日雇い仕事しか与えてもらうことのできない、その日暮らしの人々の住まうところである。  大商人の磯屋に請け人になってもらい、武家屋敷に奉公していた茂三郎が、そういう町にいたことがあるとは考えにくい。が、それこそ思いつきなら、脇に除けることができるかどうか、確かめておいてもいいだろう。ここまで来ているのならついでで、大した手間でもない。  おおかたの貧しい町と同様、堺町も油断のならない場所だが、まだまだ陽も高い。掘っ立て小屋に毛がはえた程度の作りでも、飯屋や荒物屋などもあるから、そういうところを回って歩くくらいならいいだろう。  堺町の人びとは、一様に目が暗いような気がするが、やみくもに気が荒いわけではないし不親切なわけでもない。宇佐が茂三郎の人相書きを見せて歩くと、熱心に相手をしてくれる人もいた。夏の暑さに戸口が開けっ放しで、ひょいとのぞくと年寄りが一人寝たきりになっていたり、痩せこけた子供がものをねだって宇佐のあとをくっついてきたり、荒縄で立ち木につながれた毛の抜けた犬が狂ったように吠えかかってきたりと、気の滅入る眺めはあったが、危ないことは何もなかった。  収穫もなかった。茂三郎はやはり、堺町には縁のない者だったようだ。  しょせんは無駄足かと、それでもさっぱりした気分になって、堺町の外れの水路まで行き着いた。桟橋とも呼べないただの板場に、壊れかけた小舟が何艘かもやってある。釣り船だが、潮見の船ではない。堺町の人びとが、自分の食い扶持を助ける分だけ魚を獲ることを、潮見が黙認しているのだ。  砂利と砂を踏み固めた海沿いの道を、宇佐はゆっくり南へと歩いた。堀外に近いこの道筋には、船宿が十軒ばかり、かしいだ肩を寄せるように並んでいる。旅籠町にある船宿よりは数等落ちる作りだし、船宿の形はしていても、要は曖昧宿である。宇佐も引手の端くれではあるから、こういうところがもぐりで春を売る女たちの稼ぎ場になっていることぐらい承知している。女たちもまた、旅籠町の女たちよりは数段品下るけれども、丸海を通り抜ける金比羅様の参拝客のなかには、そういう女の方が鄙《ひな》びた味があるなどと、好んで訪れる男たちもいるらしい。  宇佐は茂三郎の人相書きを取り出し、一軒一軒あたっていった。この時刻、船宿の帳場にはたいていおかみがいて、眠たそうな顔をして煙草をふかしていて、宇佐のような小娘が聞き取りに きたことに、一様に驚いた顔をした。 「さあねえ、こんな顔に見覚えはないね」 「いい爺さんじゃないか。お客で来たことはなさそうだよ」 「あんた本当に引手なのかい? 魚の臭いがぶんぶんしてるよ」  六軒目が空振りで、いささか疲れたなと思っていたら、そこのおかみが水を一杯ふるまってくれた。親切に感謝していると、 「あんた、うちで働かないかい? あんたならうちの看板娘になれるけどね」  持ちかけられて、苦笑した。 「あんたのその髪、引手の女はみんなそんなふうにしているの?」 「そういうわけじゃないですよ。あたしが好きでしているだけです」 「塔屋の織り子にも、そうやって櫛巻きにしてる女がいるよね」 「手間がかかりませんからね」  ちょいと洒落てるねぇ、江戸や大坂からのお客さんが喜びそうだ、うちの女たちにもやらせようかしら、などと思案している。宇佐は礼を言って空になった湯飲みを返し、外に出た。  薄暗い家の中から日向に出て、ちょっと目がくらんだ。立ち止まっていると、すぐ隣の船宿の戸口ががらりと音をたてて開き、人が出てきた。  間口の狭い家がぎゅっとくっついて建っているので、隣の軒先で立っていた宇佐に、その人はすぐ気がついた。深編笠をすっぽりとかぶった着流しの侍だった。細かな縦縞の着物は糊が利いて、雪駄の鼻緒も真っ白だ。みすぼらしい身なりではない。  ぎょっとしたように、深編笠が宇佐の方を振り向いた。笠の下から鋭い視線が投げかけられるのを、宇佐は感じた。一瞬、侍が腰にたばきんだ脇差の柄に手をかけるのではないかと思った。それほどに気を張った動作だったのだ。  その侍は怪我をしていた。左腕が着物の下に隠れ、肘のところで折れ曲がっている。おそらく、肩から吊っているのだろう。  深編笠は後ろ手に戸を閉めると、さっと身をかわし、宇佐から離れて、足早に南へ、堀外の町筋へと歩き出した。逃げるように早い足取りだった。肩から背中の線が引き締まっているし、足さばきが軽いところからみて、若者だろう。  どうやら、まずいところを見てしまったらしい。宇佐は下を向いて微笑んだ。若い藩士が女を買いにきたのだろうか。この昼日中に? 怪我人のようだったから、あるいはお役を休んでいるところなのかもしれない。  やれやれ・・・・と思いながら、なんということもなく、侍の出てきた船宿を振り仰いだ。  戸口はぴっちり閉まっているが、通りに面した二階の窓が掌の幅ほど開いている。  そこに人影が見えた。女だ。窓の格子戸に身を寄せかけて、遠ざかってゆく若い侍の背中を目で追っている。  その顔に見覚えがあって、宇佐は愕然として立ちすくんだ。  梶原家の ——— 美祢だ。  美祢とは、井上家でも一度だけ会ったことがある。そのときは、遠目に見かけて挨拶をした。琴江を訪ねてきたのだった。当時はこの女がいずれ琴江の仇になるなどとは思いもよらず、琴江さまの親しいお友達だと、優しい気持ちで頭を下げたものだった。  忘れることも、見間違えることもない。あれは美祢だ。  食い入るように見つめていると、男の背中ばかり目で追いかけていた美祢が、ようやく宇佐の気配に気づいた。格子窓の隙間から下を見て、驚いたように目を瞠り、戸をぴしゃりと閉めた。あまりに強く閉めたので、戸が跳ね返ってまた一寸ほど開いた。だから宇佐には、美祢がまだそこにいるのがわかった。  格子戸が、今度はそっと、完全に閉め切られるのを見て、宇佐は船宿の戸口を叩いた。  帳場というほどの体裁もない小座敷に、老婆がくけ台を出し、座り込んで縫い物をしていた。針を握る手元と顔がくっつきそうなほどだ。目が弱っているのだろう。おまけに耳も遠い。おかげで宇佐は、二階におられるお嬢様を迎えに来た者だといい加減なことを言って、すんなり通ることができた。  二階に座敷は二間あったが、戸口の唐紙が閉まっているのは手前の一間だけだった。 「もし、失礼をいたします」  声をかけて、間をおかずに唐紙を開けた。  梶原の美祢は格子窓に背をつけて、縮こまって座っていた。あがってくる宇佐の足音を開いていたのだろう。 「何の用です? あなたは何者です」  本人は厳しく詰問しているつもりだろうが、惨めに裏返った声だった。目じりが吊りあがり、ひくひくしている。  仁王立ちになったまま、宇佐は座敷のなかを見た。小さな膳が出してあり、いささか飲み食いした跡がある。座敷のなかほどに衝立があり、なけなしの目隠しになってはいたが、その向こうに寝乱れた床が見えた。枕がひとつ倒れている。  宇佐は頭も頬もかっと熱くなった。  美祢はここで男と密会していたのだ。  相手の男 ——— 宇佐に見られて逃げるように立ち去ったあの若い侍は、美祢の愛人だ。  そしてそれは、琴江の許婚だった男に違いない。だからこそ、琴江と美祢は恋敵だったのだ。 「物頭の梶原十朗兵衛さまのご息女、美祢さまでございますね」  宇佐は奥歯を強く噛み、自分の声を押し殺して問いかけた。名を呼ばれて、もともと白い美祢の頬からさらに血の気が失せた。 「ち、違います」 「あたしはお嬢さまを存じ上げております。お隠しになっても詮無いことでございますよ」  美祢は膝の上で両手を堅く握り締めると、口元を震わせながらもしげしげと宇佐の顔を見た。 「わたしはあなたなど存じません。いったいどこの何者ですか」  宇佐はゆっくりと膝を折って座った。唐紙を背にして、美祢の逃げ道を絶った。 「あたしは西番小屋の引手で、名を宇佐と申します」 「引手?」美祢の顔に侮蔑が浮かんだ。「卑しい者ではありませんか。わたくしに何の用があるというのです。下がりなさい!」  美祢の狼狽を感じ取ることができて、宇佐の心は躍った。今は、美祢の言う卑しい身分のこの自分が、圧倒的に強い立場にある。 「はばかりながら、引手は丸海の町の治安を守る者にございます。女の身ながら、あたしにもその覚悟はございます。偶《たま》々《たま》のことながら、藩の要職におられる梶原さまのご息女が、このようないかがわしい場所におられますことに気づいた以上は、見過ごすわけには参りません。何者かに無理やり連れてこられたのでございますか。お困りでしたらば、あたしがお力になりましょう」  宇佐はわざと意地悪に、下手に出ているのだが、宇佐と琴江のつながりを知らない —— まったく覚えていないらしい美祢は、実に素直にこの申し状を聞いた。突っ張っていた肩がつと下がり頬の強張りも緩んだ。 「そういうことならば、心配は要りません。わたしくは所用があってこの宿を訪れました。間もなく、家から迎えの者も参ります。おまえなどの手を借りずとも大丈夫です」  襟元をつくろいながら、せいぜい威厳を保ってそう言った。  宇佐はにっこりと笑った。「それはようございました。すわ何事かと思いまして、駆けつけてしまいました。ご無礼をお許しくださいませ」  かまいませんと、美祢は応じたが、宇佐が頭も下げず、下がる様子もなく、目を光らせて見つめているのに、おかしな気配を感じたのだろう。 「下がってよいと申したのですよ。わたくしももう屋敷へ帰ります」と、念を押すように言った。 宇佐は胸の内がどきどきと騒ぐのを感じた。これは願ってもない機会だ。どこからどう、何から尋ねよう? 頭は回るが、空回りだ。 「美祢さまは、匙の井上家の琴江さまとお親しくていらっしゃいましたね」  はやる呼吸を抑えてそう問いかけた。美祢の瞳がふと焦点を失い、あらためて宇佐の顔の上に結ばれた。  美祢の疑問に先回りして、宇佐は教えてやった。「あたしは井上の琴江さまに、たいそうお世 話になった者でございます。美祢さまが琴江さまをお訪ねになった折、居合わせてご挨拶をしたこともございました」  ああ、そう —— 気の抜けたように、美祢は呟いた。 「琴江さまは、たいへん残念なことでございました。あたしは、今でも悔しくてなりません」  力を込めて、宇佐は一語一語を搾り出すように言ってやった。 「どうしてあんなに急に亡くなってしまわれたのでしょう。これといって病もなく、お元気でいられましたのに」  美祢は宇佐から目をそむけた。自身の罪から目をそらしたのだと、宇佐は思った。 「残念なことですけれど、寿命とあらばいたし方ありません。心の臓が —— お弱かったということです」  そしてつんと鼻先を持ち上げると、また強気を取り戻して、 「井上の啓一郎先生が、そうお診立てになったのですよ。可哀相に、おまえは詳しいことを知らなかったのですね」  親切ぶって、さも「数えてやろう」と言わんばかりの口ぶりが、宇佐の感情に火をつけた。脈絡を失った考えが、分別や企みを押しのけて、宇佐の口から飛び出した。 「それは嘘です」  きっぱりと言い切って、自分の怒りの強さに自分でおののいた。 「嘘?」美祢はたじろいだ。「どうしてそんなことを・・・・・ 」 「よもや忘れたとはおっしゃいませんでしょう。琴江さまは毒を盛られて殺されたのです。美祢さま、あなたが殺したのです」  美祢の顔から表情が消えた。拭ったのでも取り去ったのでもなく、光が影を消すように。いや、影が光を消すように。  空っぽの顔で、美祢はおうむ返しに言った。 「わたくしが琴江さまを殺めた?」 「そうです。あなたが琴江さまに毒を飲ませた。あなたは琴江さまを妬んでいた。琴江さまが邪魔だった。なぜなら、琴江さまと縁組がまとまっていたお相手に、あなたは恋着していたからてす。あなたにとって、琴江さまは手ごわい恋敵だったからです」  中身のない美祢の顔に、当座の埋め合わせでもつけるように、笑みが浮かんできた。 「何を言い出すかと思えば……。おまえ、夢でも見ているのではないの」 「夢ではありません。悪い夢ならどんなにいいか。今しがたまであなたがここで逢引していたお相手こそ、琴江さまの許婚だった方であるはずです!」  なりふりかまわぬ感情の発露は、人から人へと伝染るものなのか。宇佐の心の高ぶりが美祢を揺さぶり、美祢が取り澄ました態度の下に、懸命に押さえつけていたものを引きずり出した。 「許婚ではありませんでした!」と、美祢は叫んだ。「縁組が決まったわけではなかったのです! だからわたくしは、わたくしの思いを打ち明けて、琴江さまにお願いした! このお話を断ってくださるようにと、頭を下げて頼んだのです。それなのにあの人は、わたくしの願いを退けた。せせら笑って退けたのです! 」  宇佐も叫び返した。「琴江さまはそんな方ではありません!」 「おまえに何がわかるというの? おとなしそうな顔をしてまわりを騙して、でも琴江さまという人は、勝手な人でした。わたくしの切ない気持ちをわかっていながら、わざとのように焦らして、わたくしに意地悪をしたのです。だから、だから・・・・ 」 「殺したのですね?」  宇佐は膝立ちになり、美祢に詰め寄った。美祢は後ずさり、ぴったりと窓格子に張りついた。 「殺したのでしょう? 毒を飲ませて。そして知らん顔をして井上家を立ち去った。あなたは、今ならそのやり方が通用すると知っていた。加賀さまお預かりで、どんな小さな不始末でも許されない今の丸海藩の有り様を知っていたから、誰もあなたを責めない、あなたを捕えようとしないとわかっていたから」  窓に背をつけ、宇佐から一寸でも遠くへ逃げようとしながらも、荒ぶる感情に焚きつけられて、美祢は臆してはいなかった。こんなところで何をやりとりしたところで、状況に変わりはない。誰も美祢を罪に問うことはできないということに変わりはない。そのことを思い出したのだろう。「わたくしは何も知りません」と、薄ら笑いを浮かべながらうそぶいた。  宇佐は日ごろ、得物など持ち歩いてはいない。だが今日は違う。浜へ手伝いにゆくのに、母がずっと使っていた削ぎ刃を持参していったのだ。それは布に巻いて懐に忍ばせてある。  素早く削ぎ刃を取り出すと、布をとき、宇佐はそれを逆手に構え、片膝立ちになった。美祢はまなじりが割けそうなほどに目を見開くと、声もなくきゃっと叫んで、窓を背にしたままずりずりと宇佐から遠ざかった。  宇佐は獣のように飛びかかり、削ぎ刃を構えていない方の手で、美祢の襟元をしっかりとつかんだ。二人の顔と顔が近づき、美祢の髪油の濃厚な匂いが宇佐の鼻先にぶんと香った。 「本当のことを言わないのなら、今、この場で命をいただきます」  美祢の喉に削ぎ刃の刃を押し当てて、宇佐は凄んだ。自分でも自分のしていることが信じられなかった。どこか遠いところからこの光景を眺めているような気がした。それでいて血は騒ぎ、心は逸り、長いこと押さえつけていた鬱屈が、頭のてっぺんから空にほとばしってゆく心地よさで目がくらみそうだ。「わた、くしは、梶原家の娘です、よ」  怯えきって目を泳がせながら、それでも美祢は押し返してきた。 「わたくしに、このようなふるまい、許されると、思っているのですか!」 「許されはしないでしょう。もとよりそれは承知の上です。あたしのような卑しい者の命など、琴江さまのお命に比べれば何の価値もありません。琴江さまのご無念を晴らせるならば、あたしはどんな罪を受けようと、ひと欠片の後悔もありません。晴れ晴れと縄目を受けましょう。その覚悟があるからこそ、こうしてお訊ねしているのです!」  どんなに気取っていようと、どんなに身分が高かろうと、死んでしまえばただの骸だ。脅しだけではなく、宇佐は本当に、このまま美祢を刺してしまいたかった。喉をかき切ってやりたかった。虫唾の走るこのお上品面の人殺しの、息の根を止めてやりたかった。  やってしまおうか! 削ぎ刃を持つ手に力を込めたとき、美祢が手放しで泣き崩れた。  襟元をひっつかんでいる宇佐の手が重い。美祢が身体の力を抜いて、畳に倒れそうになっているからだ。  宇佐は手を放した。美祢は泣きながら横様に倒れ伏した。 「琴江さまに毒を飲ませて殺したのですね?」  息を荒げながら、宇佐は重ねて尋ねた。 「あなたが、その手で、殺したのですね?」  畳に手をついて、美祢は何度もうなずいた。  宇佐の足からも力が抜けた。ぺたりとその場に座ってしまった。 「——— どうして?」と、今さらながらの問いかけが口からこぼれ出た。 「新之介、さまを、とられたく、なかった」  呻くように、美祢は答えた。 「どうしてもどうしても、とられたくなかった。琴江さまとの、縁組など、許せなかったのです」  嫌々をするように首を振り続け、しゃくりあげながらぶちまけて、美祢はさらに声をはりあげて泣いた。  まるで子供だ。好きな玩具を取り上げられて、手足をばたつかせて泣く子供と同じだ。 「新之介さま——?」  それが琴江の縁談の相手か。 「知っているのでしょう。お船奉行の保田さまのご次男です」  美祢はもう何も考えていないのか、打ち伏したまますらすらと打ち明けた。 「わたくしとは幼馴染みの間柄です。わたくしは —— 子供のころからずっと、ゆくゆくは新之介さまの嫁になるのだと思っていた。それがわたくしの願いだったのです。新之介さまも承知してくだきっていた」  それなのに! 唐突に怒りが戻り、美祢は拳を固めて畳を打った。 「琴江さまが割り込んできたのです。もともと、井上家から持ちかけた縁組だというではありませんか。ふん、お船奉行と縁戚になれば、何かと得が多いからでしょう。そんな卑しい企みで、わたくしと新之介さまのあいだを割こうとするなんて ———  」  宇佐は削ぎ刃を元通りにしまうと、急にめまいのようなものに襲われて、窓の格子にもたれかかった。 「あなたがここで逢引していた相手も、保田さまなのですね」  美祢は手で顔を覆ってうなずいた。 「琴江さまを殺して、邪魔者がいなくなって、まっしぐらに恋を打ち明けたというわけですか。思いがかなって、さぞご満足なのでしょうね」  皮肉な宇佐の口つきにも、言い返してはこなかった。宇佐も、すぐには言葉が続かなかった。  美祢は泣き止むと、息を整えて身を起こした。乱れた髪を撫でつける。宇佐には背を向けたままである。 「あの日 —— あなたを見た者がいます。井上家の下男と女中です」  美祢に語りかけて、宇佐は自分の声が勢いを失っていることに気がついた。 「だからどうしたというのです」と、美祢は背中で答えた。「それに意味などないことを、おまえはよく知っているのでしょう?」 「あなたが人殺しであることを知っている者が、丸海には何人もいるということですよ。気にはならないのですか」  美祢は首をよじって、肩越しに宇佐の方を見ると、すぐ元に戻った。見ただけで言葉はなかった。気になどならないと、その動作が語っていた。 「加賀さまが丸海に来ることになって、ようございましたね」  宇佐の精一杯の棘も、底まですっかり心を浚《さら》い、今や開き直ってしまった美祢には刺さらないようだった。 「毒を使って、加賀さまの所業を煙幕にすることは、あなたのお考えだったのですか」 「知りません」 「毒はどこで手に入れたのです?」 「知りません」言い捨てて、美祢は短く笑った。「梶原の家ほどになれば、どんなものだって、望めば手に入れることができるのですよ。覚えておくがいいでしょう」  宇佐は食い下がった。「生薬の調合は、誰でもできることではないはずです。あなたのそばに、そういうことに長けた者がいるのですね?」 「もう答えたでしょう? これ以上、何を知りたいというのです」  階下で人の声がした。どうやら、美祢を迎えに来た者らしい。美祢は、にわかに活気づいてきっと裾を払った。  宇佐の脇で足を止め、美祢はきつく見下ろし見据えて、喉にからんだような囁き声を出した。「宇佐とやら、おまえ、西番小屋の引手だといいましたね」  宇佐は美祢を仰いだ。美祢に手を出すことはできずとも、後に引くつもりはなかった。  この女は人殺しなのだ。  美祢の顔に、婚びるような笑みが浮かんでいる。目は一途に光っている。つい先ほど、窓から保田新之介の後姿を見送っていたときも、同じようなまなざしをしていた。  殺すも、愛すも、思いの強さは同じということなのか。 「わたくしが琴江さまに使ったあの毒が、次はおまえに使われないとは限りませんよ。わたくしの秘密を暴こうとする者は、今では、丸海藩に仇なす者なのです。わたくしをかばい、秘密を秘密のままにしておこうと考える方は大勢います。身の回りに気をつけて、口をつぐんでいることですね」  そうして美祢は座敷を出、階段を下りていった。迷いのない足跡が響いて、消えた。  かなり長いこと、宇佐は一人で座っていた。帰ろうと立ち上がると、心に潮が押し寄せてきた。  思いっきり、膳を蹴飛ばした。小皿が飛んで、形ばかりの床の間の緑にあたり、粉々に砕けた。      死の影    一  渡部は夏草の生い茂るなかに座り、また草の葉を噛んでいた。紅羽織は脱いでいたが、かなり遠くからでも、その姿はよく目立った。  宇佐が近づいてゆくと、こちらに背中を向けたまま、渡部の方から声をかけてきた。 「いい天気だな」  宇佐は頭上を仰いだ。真っ青な空が、すぐ手の届きそうなほど近くに見える。昨日は終日、息が詰まりそうなほどの蒸し暑さだったが、今日は風があるおかげでしのぎやすい。  堀の水は強い陽光を照り返し、金の砂をまいたように光っている。宇佐は渡部の傍らに立ち止まり、彼を見おろした。 「そんなふうにのんびりしていると、お役目を怠けているみたいに見えますよ」  答える前に、渡部は大あくびをした。夏草が口からぽろりと落ちる。 「こちとら、何日もずっと町役所の書物倉に閉じこもっていて、いいかげん黴が生えそうだ。今は怠けているんじゃない。頭と身体の虫干しだ」  先にここで会ったとき、宇佐は茂三郎の足跡を追って聞き歩きをし、渡部は検屍役の井崎ともう一度よく話した上で、井崎の記憶を新たにするためにも、古い記録を洗ってみる —— という方針を決めた。宇佐はその分担を律義にこなしてきたつもりだが、渡部も同じだったようだ。 「それで、いかがでしたか」  尋ねる宇佐を眩しげに見上げて、 「まあ、座ったらどうだ」と、渡部は眠そうに答えた。 「おまえが欣《きん》喜《き》雀《じゃく》躍《やく》するような返答を持って来ることはできなかったよ。それでも、まったく収穫がなかったわけでもない」  飯炊き長屋で死んだ茂三郎の顔を、昔、どこで見かけたことがあったのか。これまで、長い年月に手がけてきた検屍の記録をひっくり返してみても、井崎が思い出すことはなかった。 「井崎さんは、変死があると呼ばれるわけだ。だがな宇佐、幸い、丸海の町はまだまだ平穏なところだから、変死といっても、よくよく調べてみれば病死であることがいちばん多い。毒を飲んだ、一服盛られたなんて事件はごくごく珍しい」 「そういえば」宇佐は口に出して言った。「琴江さまのときには、井崎さまは呼ばれなかったんですよね」 「今さら言うな、そんなことを」  琴江殿は変死じゃないと、渡部は言った。 「だいいち、啓一郎がそばにいたんだ。わざわざ井崎さんに頼るまでもない。ついでに言っておくが、井崎さんは琴江殿の亡くなったことは知っているが、事の真相はまったく知らないよ。病死だと思っている」  詳細が耳に入る機会もなかったろう。 「でも啓一郎先生は、琴江さまがどんな毒を盛られたのか、それもおわかりになったんでしょうか。渡部さま、聞いてみたことはありますか」 「いや、ない」即答してから、渡部は急に目が覚めたというようにまばたきをした。「俺には、あいつにそんなこと、訊く勇気がなかった。機会もなかった。だが、俺が茂三郎のことで知恵を借りに訪ねたとき、毒と薬は根がひとつだという講釈をしてくれた」  そのとき啓一郎は、茂三郎のいるところに毒の存在が匂う —— と言い、彼が奉公を引く直前に起こった山内家の食あたりのことを気にしていたのだった。  啓一郎の助言を受けて、そのあと渡部は山内家に足を運び、山内の妻から、食あたりの様子を聞き出した。腹下しと寒気が主な症状だったが、砥部先生からいただいた腹下しの薬を飲み、二日もすればよくなった。長く後を引くことはなかった。前夜の食材に生ものはなく、食したときに色や匂いの変異に気づいたこともない、と。 「そのことは、もちろん、すぐ井崎さんにも話しておいた。が、井崎さんもその場では何とも思わなかったのが、書物庫で古い記録をひっくり返しているうちに、思い出したんだな。以前にも柵屋敷で食あたりがあって、調べに行ったことがあったと」  二人がかりで書き物の山をあさってみると、井崎自身がしたためた記録が確かにあった。八年前の一月のことだという。 「柵屋敷の東棟で、十軒もの家がいっぺんに食あたりになったんだ」 「死人は出たんですか?」 「いや、出なかった。軽くて済んだんだ。だから井崎さんが呼ばれるわけもない。後学のためにと、自分から進んで調べに足を運んだわけさ。変死のなかには、実は食あたりだったという事例も多いそうだから、参考になると思ったんだろう」  宇佐は目を細めた。「それでそのときの食あたり、原因はわかったんですか」 「水だ」と、渡部は言った。「井戸水だ。その十軒は、東棟で同じ井戸を使っていたんだよ。といっても、井崎さんが調べに行ったときには、もうその井戸水を飲んでも何も起こらなかった。味も匂いも、おかしなことは何もなかった。ただ、他の疑わしい事柄をすべて排除していって残るもの —— しかも、病人の出た十軒にすべて共通しているものは、井戸水だけだったということなんだ」  証はないが、推察できるということか。 「井崎さんが言うには、井戸水というのは、天気によって、気候によって、少しずつ変わっているというんだな。ときどき、味が違うことがあるだろう? 冬場に金気を強く感じたり、夏場に生臭く感じたりさ。それで、どうかすると毒気の混じることもある。井崎さんは、当時はそう結論を出して、記録にも書き留めた。収穫がなかったわけじゃないというのは、このことさ」と、渡部は続けた。「山内家は東棟じゃなくて北棟だが、柵屋敷内であることは同じだ。俺たちは —— 啓一郎も含めて、茂三郎に疑いの目を向けていたが、問題は茂三郎じゃなくて、柵屋敷の井戸水なのかもしれんぞ」 「そしたら、茂三郎さん自身の死は、病死ってことですか?」 「まあな……」渡部は曖昧な返事をした。「たまたま時期が重なっただけで、な」 「でも井崎さまは、茂三郎さんの亡骸の口元から、苦いような酸っぱいような匂いがするのを気にしておられたのでしょう?」 「それはそうなんだが、今となっては、あまりそれにこだわるのもどうかと、井崎さんも言っていた。茂三郎の亡骸を検め、山内家の食あたりについて知ったころには、八年前の東棟の食あたのことは、すっかり忘れていたわけだからさ」  宇佐は割り切れない気持ちで夏草の群れに目を落とした。 「だけど、今度は夏前で、山内家二軒だけだったんですよ」 「水が毒気を持ったときに、たまたま生水を飲んだのが山内家だけだったのかもしれん。他の連中は生水を飲まなかった。だが冬場は夏場より、みんな気楽に生水を飲むからな。だから、八年前には十軒もあった」 「八年前も今度も、同じ毒が盛られたってことだってあり得ますよ! 八年前は井戸に、今度は山内家の水がめに」  渡部は目を剥いた。「おまえ、どうでも茂三郎を罪人にしたいようだな」  そしてむっくりと身を起こした。「それとも何か? 茂三郎の足取りがわかったのか? あの爺さん、八年前には柵屋敷の東棟にいたのか? だったら話は違ってくるぞ」  宇佐はあわてて両手をひらひらと振った。 「違います、違います。茂三郎さんがどこにいて、どこから来たのか、何にもわかりませんでした。漁師町には磯屋のことを覚えてる人は大勢いたけど、茂三郎さんのことは誰も知りませんでした」  何だ脅かすなと、渡部は草むらに仰向けにひっくり返った。 「俺たちは難しく考えすぎていたのかもしれん。井崎さんも、茂三郎のことがあったときには、涸滝の女中の件で大いに気骨を折っていたからな。普段のようには勘が働かず、だからこそかえって慎重になり過ぎたのだということもある。まあ、それで俺にお鉢が回ってきたんだが」  黙っている宇佐の顔を横目に見て、 「真面目で働き者の下男の茂三郎に、奉公先で水や食い物に毒を混ぜる悪い手癖があった ——— そんなことでないなら良かったと、俺は思うぞ。おまえは違うか。事件の方が働き甲斐があったけ」  意地悪な質問だから、宇佐は返事をしなかった。 「柵屋敷の井戸水に障りがあるということなら、これから大変だぞ。こういうことがあったと広く知らしめて、生水を飲むのを控えるように、皆を啓蒙しなくちゃならん。そういう仕事は、地味で面倒だから御免か? 」 「誰もそんなこと言ってません」  宇佐の返答を聞いて、渡部は軽く笑った。 「そうそう、井崎さんから詳しく聞いてきたよ。涸滝の女中のことさ」  宇佐は渡部の顔をのぞきこんだ。 「病死って —— 」 「ああ。どうしてそれとわかったかってことさ。腑分けをしたんだそうだ」 「腑分け?」  おまえは知らんかと、渡部は起き上がった。 「亡骸を切り分けて、悪いところを探すのさ」 「身体に刃物を入れるんですか」 「うん。砥部先生が、長崎に遊学中に習ったことがあるそうでな。でも、加賀殿の係りになっている今は、先生が刃物を取って屍を切り刻むわけにはいかん。先生から手ほどきを受けて、井崎さんが執り行ったそうだよ」  胸が悪くなりそうだった。 「心の臓のところに」と、渡部は自分の胸を叩いてみせた。「血がどっぷりと溜まっていたそうだ。俺たちの身体のなかには、血の流れる管があってだな、それが切れると、命にかかわる。例の女中は、何かの拍子に心の臓の近くの血の管が切れてしまって、それで横死したとわかったそうだ。決して加賀殿の呪いなどではない。世の中には、血の管の切れ易い性質の者というのがいるそうだよ」  本当に吐き気がしてきたので、宇佐は首を振って頭の中から想像を追い出した。 「やめてください。病死だってわかっただけで、あたしは充分です」 「そうか」  渡部はまたつと手を伸ばして夏草の茎を折り取り、口にくわえた。 「で、おまえの方はどうだったんだ? 茂三郎については何もわからなかったということでしままいか」 「そうなんですけど……」  宇佐はくちびるを噛み締めた。自分の胸ひとつに抱えているのは辛いが、打ち明けるのは恥ずかしい。軽はずみなことをしてこの馬鹿者と、叱られるに決まっている。でも話してしまいたい。裏腹な思いが喉までこみ上げている。  堺町の船宿で、美祢と対決した一件である。  「何だ、もったいつけるな」  「会ったんです」と、宇佐は言った。  「誰と」  「梶原の美祢さまと」  結局、全部打ち明けることになった。最初のうちは、美祢に削ぎ刃を突きつけたことは黙っているつもりだったのだけれど、話し始めると弾みがついて、隅から隅まで言ってしまった。 「そうか。保田の新之介か」と、渡部は言った。 「お知り合いですか」 「道場仲間だ。俺よりも、啓一郎と親しかった。その繋がりで起こった縁談だろう。匙家の娘と船奉行の次男なら、いい釣り合いだ」  宇佐は渡部の横顔を盗み見た。ぽうっとして眠そうで、何も尖ったところはない。だが宇佐の耳の底には、  ——— 俺は琴江殿に惚れていた。  そう言ったときの渡部の声が残っている。琴江の縁談の相手がよく知っている人物であったとなれば、やっぱり、今でも心が騒ぐのではないかと思った。 「琴江さまは、匙の香坂家の泉先生に、縁談のあることを打ち明けておいででした。どこまで詳しくお話しされたのか、泉先生はおっしゃいませんでしたから、あたしは知りません。でも、琴江さまがそのことで悩んでおいでだということは、泉先生もご存知でした。きっと……琴江さまご自身は、乗り気ではなかったんだろうと思います」  渡部は宇佐に、にやりと笑いかけた。 「俺はけっして片恋ではなかったと、慰めるつもりか」 「そ、そんなつもりじゃないです」  そのつもりだったから、困ってしまった。 「気を使うことなんかないよ。俺は片恋だった。琴江殿は聡い方だったから、俺の気持ちに気づいていたと思う。だが、それでも何も起こらなかった」 「……そうですか」 「もともと、ああいう名家の縁談というのはな、本人の気持ちで決まるものじゃない。琴江殿だって、それは承知しておられたろう。兄上の朋輩に嫁ぐのなら、異存はなかったはずだ」 「だけど悩んでおられたんですよ」 「それはだからさ、美祢の気持ちを知っていたからだよ。心苦しかったのさ。それでも、縁談を断るところまでいかなかったのは、琴江殿も、話が決まってしまえば美祢も諦めるだろうと思っていたんじゃないか」  珍しく、力が抜けるようなため息を吐き出して、渡部は続けた。 「しかし新之介もな。今頃になって美祢とひそかに逢引するくらいなら、いっそ美祢と手に手を取って駆け落ちしてくれればよかったんだ。そうすりや、琴江殿は死なずに済んだ」 「あたしもそう思います。あんなところで逢引してるくらいなんだから、保田さまだって、もとより美祢さまに思し召しがあったってことなんでしょうから」  美祢は、子供のころから自分は保田新之介の嫁になると決めていたと言っていた。幼馴染みの二人のあいだに、あるいは、淡い約束事でもあったのかもしれない。 「もともと思し召しがあったかどうかは、怪しいもんだ。だから、さっき俺が言ったことは本当の繰言だよ。幼馴染みは幼馴染みでも、新之介の方には、美祢ほどの思い入れはなかったんじゃないか」 「だけど今はああやって———」  船宿の座敷で見たなまめかしい光景を、宇佐は思い出していた。顔が赤くなる。 「男というものはな、宇佐。いい加減なもんだ」慰めるように声を優しくして、渡部は言った。「琴江殿に死なれてがっくりしているところに、美祢に言い寄られて、ほだされたんだろう。それにあいつは今、気弱になっているところだ。お役差し止めの身の上だからな」  宇佐は驚いた。「そういえば、保田さまは怪我をしておられるようでした」  他言は無用だぞと、渡部は怖い顔をした。 「保田新之介は、加賀殿お迎え役の一員に選ばれていた。それが、大坂湊に滞在中に、些細なことから私闘に及んでな。その咎で、加賀殿が丸海人りするよりも先に送り返されてきて、以来、ずっと謹慎中なのだ。覚えてないか? 加賀殿が着く数日前に、早船が入ったことがあるだろう。あれには新之介が乗せられていたんだ」  渡部の険しい表情を、宇佐はただまじまじと見つめるだけだった。あの早船に、そんな事情があったとは。 「私闘って、喧嘩ってことでしょう? 大事なお役目の最中にそんなことをするなんて、保田さまはよほど短気な方なんですか」 「さあ、わからん」と、渡部は投げやりに言って空を見た。「そもそも私闘などではなかったんだろう」  宇佐は首をかしげた。渡部のいう意味がよくわからない。 「喧嘩でないなら、何なんです」  渡部は黙っている。 「あたしがお見かけしたとき、保田さまは肩から腕を吊っておられました。加賀さまが丸海人りする前に負った怪我なのに、今もまだそんな様子でいるということは、かなりの深手だったんでしょう。そこまでの立ち回りがあったなんて・・・・ 」  そこでようやく、宇佐も悟った。思わず目を大きく見開いた。 「ひょっとしたら、加賀さまに刺客がかかったということですか? 保田さまは、その刺客と渡り合ってお怪我を?」  宇佐を遮り、渡部は首を振った。「それ以上言うな」  渡部の表情は硬い。もう加賀殿にかかわりあうのは御免だと言い放ったときと、同じ顔だ。 「そのこと、皆さんご存知なのですか」と、小声で尋ねた。「渡部さまが知ってるってことは」 「堀内で噂になったのき。そうさ、みんながひそひそ話していたよ。だが噂はしょせん噂だ。知っているということにはならん。噂にあるような事柄が、本当に起こったという裏付けもない。風にまかれて、そのうちどこかに飛んでいってしまうだけの、益体もない作り話さ」  口から漏れ出る自分の言葉から逃げにかかっているような早口で、渡部はそう言い捨てた。ゴホンと空咳をして、洟ををすする。  大坂湊でそんなことがあったのなら、涸滝の屋敷でだって、同じことが起こるかもしれない。確かに警備は厳重になされているけれど ——— 宇佐は不安に胸苦しくなるほどだった。  ほうは大丈夫だろうか。もしも涸滝に刺客が入り込むことがあり、騒ぎになったら、ほうを守ってくれる人はいるだろうか。  今さらのように、後悔が宇佐の胸を噛んだ。あたしは大馬鹿者だ。どうしてほうを一人で行かせたのだろう。ほうを逃がすことができないのならば、あたしも一緒に涸滝へ行かせてくれと、舷洲先生にお願いしてみればよかったじゃないか。ほうでも務まる下働きならば、あたしにだってできるはずだ。ほうの代わりにあたしを行かせてくれと、頼むことだってできたじゃないか。  ふと気づくと、渡部が首をよじってこちらを見ていた。 「あの子は大丈夫だよ」  自分の心の内を推察されていたのだと、宇佐は驚いた。 「おまえが心配するとおり、涸滝でだって、これから何が起こるかわかったもんじゃない。だが、あの子は心配ない。どんな騒ぎが起こったって、あの子はちゃんと逃げ延びる。床下にでも隠れてな」  そして頬を緩めると、「あの子は、おまえが思うよりずっと賢いぞ」と、続けた。 「そうでしょうか……」 「そうさ。それに運も強い。ひょっとしたら、俺たちみんなよりも、ずっとずっと強い星の下に生まれた子なのかもしれんよ」  ほうの身の上話を聞いたことのある宇佐には、とうていそうは思われない。ほうは、生まれてからずっと余計者で、どこにも居場所がなくて、自分で居場所を見つけたと思うとそこから追い出されて、挙句には、生まれ故郷から遠く離れたこの丸海の地で、人身御供にされてしまった子供なのだ。  人身御供! 自分の頭のなかに浮かんだその言葉に、宇佐はぞっとした。縁起でもない。あたしったら、そんな馬鹿なことがあるわけはないと思いつつも、加賀さまの崇りとか、涸滝の悪霊とか、そんなもののことを、実は信じかけているんじゃないか。  だけど、もし —— もしもほうが、ぽっくり死んでしまったら? 先に死んだ女中と同じように、突然心の臓から血が溢れ出し、あっとひと声叫んだだけで、倒れて事切れてしまったとしたら?それでも病死か? それでも、涸滝の屋敷にいる者たちが、加賀さまの悪い気にあたるなんてことはありはしないと、言い切ることができるだろうか。 「おまえが一緒に涸滝に行くこともできなかったよ」と、渡部が言った。「頼み込んだって、聞いてはもらえなかったろう。これからだって無理だ。だからくよくよ後悔したって詮無いことだ」  また、心を読まれた。  今まで宇佐には、何となくではあるが、渡部という男を軽んじてきたようなところがあった。最初の周章狼狽ぶりを見てしまったせいだろうし、何かにつけて井上啓一郎と引き比べていたせいもある。でも、それは間違いだったかもしれないと思い始めた。渡部の方こそ、実は宇佐が値踏みしてきたよりも、ずっと頭の切れる人であるのかもしれない。 「わかりました。もうほうのことは考えません」と、宇佐は神妙に答えた。「でも、渡部さま」 「何だよ」 「放っておいて……いいのでしょうか」 「何を」 「だから保田さまですよ」  まだそれを言うかと顔をしかめた渡部に、宇佐はにじり寄った。 「保田さまは、ご存知ないのですよ? 琴江さまを手にかけたのが、美祢さまだということを。保田さまは、あくまでも琴江さまは病で急死されたと思っておられるのでしょう」  宇佐は、井上家の近くで啓一郎と美祢の立ち話をしているところに行き会ったことがあると、渡部に話した。 「あたしはお話を切れ切れに聞いただけですけれど、美祢さまは確かに、啓一郎先生が保田さまに何か告げ口をしたのじゃないかと心配で、探りを入れているようでした。啓一郎先生もそれを察して、とても用心してお話をしているようでした。でも渡部さま、そんなところを見かけなくたってわかりますよ。保田さまが本当のことをご存知なら、どうして美祢さまと逢引したりするもんですか。知らないからこそ、あの女にほだされてしまってるに決まってます」 「そりゃそうだろうさ。だからどうするというんだ。おまえが御注進に及ぶのか?」  辛い棘のある口つきに、宇佐はひるんでしまった。 「琴江殿の死の真相は、封印されているんだよ、宇佐」と、渡部は言った。「もう、口の端にのぼせることさえ許されてはいないのだ」 「でも、保田さまばかりは別でしょう!」  宇佐は、事が美祢の思い通りになってしまうことが、我慢ならないのだった。 「あたし、啓一郎先生にお話しします。お話しして、啓一郎先生から保田さまに言っていただきます」 「余計なことだ」 「どうして?」 「啓一郎を、もう琴江殿のことで苦しめてはいかんのだよ。あいつにはあいつの覚悟があって、耐え難きを忍んでいるのだからな。おまえだって、わかっているはずだ」  その言葉は宇佐の頬を打った。啓一郎先生に頭を下げられたときのことが、心に蘇ってきた。  ——— 琴江のことは残念だったが、ただ堪えるしかない。このとおりだ。 「おまえ、美祢殿に脅されたことに腹を立てているのか」  問われて、宇佐は顔を上げた。 「脅された?」 「あの女は、自分に敵する者は、今や丸海藩に仇なす者だとか言ったんだろう? 琴江殿に使った毒を、おまえにも使ってやると言ったんだろう?それは立派な脅しだ」  そう言われてみればそうだが、今の今まで、宇佐はそれを怖いと感じてはいなかった。ただただ悔しいだけだった。 「何だ、脅されたと気づいていなかったのか。おまえもけっこう豪胆だな」渡部は愉快そうに笑った。「俺より肝が据わっている」  だがな、と真顔に戻ると、 「美祢殿の言ったことの、半分は真実だぞ。あの件について蒸し返そうとするならば、それは丸海藩に楯突くことなのだ。だからこそ啓一郎はおまえに頭を下げたのだ。どうも、おまえはそこのところが骨身に払みていないようだな」  宇佐はくちびるを噛み締めた。 「女なんだなぁ」と、渡部はいっそ感心したように言った。「藩の利益だの安泰だのよりも、卑怯な手を使って得恋した女を許しておかれないという気持ちの方が先に立つか」 「渡部さまは平気なんですか」 「平気だね」渡部は冷酷なはどきっぱりと言った。「美祢殿と新之介のことなど、どうでもいいよ。いくらでも、したいだけ逢引すればいい。それでもあの女が新之介に嫁げるかどうかはわかったものじゃない。さっき言ったとおり、新之介はもう、我が藩では傷物だ。栄達の道は閉ざされた。美祢殿のお父上が、そんな男のところに易々と娘を遣るとは思えない。新之介は新之介で、自分の置かれた立場を考えるなら、少しでも失点を取り返すためには、いい縁組を望む他に手はない。あの男は俺と同じで、少々剣術ができるという他には、何の取り得もないからな。そうなると、物頭が出世止まりの梶原家では物足りまい。いっときの熱が冷めれば、放っておいても美祢から離れようとするだろう。もっとも、あの女が離れてくれるかどうかはわからんが」  渡部がこんな意地悪な物言いをするのは初めてだ。驚くと同時に、少しばかり胸がすくような思いで、宇佐は独り語りを続ける彼の顔を見ていた。 「新之介が我が身の不運を嘆いて、身を持ち崩していくならそれもいいさ。それでも美祢がついていくというなら、二人でどこへでも行くがいい。新之介がすっかり遊び人になって、保田の家を勘当されて、暮らしに困った挙句に、それでもあいつに惚れて惚れてくっついている美祢が身を売るような羽目になったとしても、俺は何とも思わん。これまでにも、似たような話がなかったたわけじゃないからな」  駆け落ち者の行く末さ ——— 「女の方が、金比羅さまの門前町の引手茶屋にでも売られていくんだよ。紅柄格子の向こう方に、梶原の美祢さまが出ているよという噂が立ったら、買いに行ってみようじゃないか。そうしてねちねち問い質してやるんだ。後悔してはいないかと、いたぶってやるんだよ」  宇佐はようやく理解した。あたしなんかよりもはるかに深く、強く、渡部さまは怒っているんだ。 「だがな、美祢殿の言ったことの後ろ半分は、ただの戯言だよ。あの女がおまえを黙らせるために、毒を盛るなんてことはできやしない。ましてや、あの女を守るために、誰かがおまえを黙らせるなんてこともない」 「そうでしょうか」宇佐はすかさず切り返した。「そういうことはあるかもしれないですよ。だからこそ、渡部さまは震え上がってしまったんじゃないですか」  彼の痛いところをついたので、嫌な顔をされるかと思った。が、渡部はまた笑った。嘲るような笑い方だった。 「そうさ、俺はいくじなしだから、琴江殿を助けることもせず、美祢をひっくくることもせずに逃げたんだ。だがそれは、美祢が怖かったからじゃない。あの女はそれを勘違いしているのだ。琴江殿の死の真相を、皆が・・・・・・当の井上家でさえも必死になって押し隠したのは、美祢を守るためじゃない。この丸海藩を守るためなんだ。そういう意味では、真相を暴こうとする者も、事を起こしてしまった美祢殿本人も、同じなんだよ。同じ邪魔者なんだ。おまえが執念深く美祢殿を付け狙ったとしよう。誰かがそれに気づいて、このうるさい奴を黙らせようと思ったとしよう。そのときには、美祢殿も一蓮托生さ。もともと、美祢殿という厄介がご本尊なのだ。引手の小うさぎを消してしまうついでに、もう二度とこういう面倒が起こらないよう、美祢も消してしまおう。そういうことになるに決まっているさ」 「そんなこと ———」 「できるさ。また病死にしてしまえばいい」  宇佐は口を半開きにして、あわてて、その口元を手で押さえた。 「そんなことは、梶原さまがお許しにならないでしょうに」 「許すさ。藩のためならな。武家とはそういうものなのだ」  夏の陽射しにさらされて、頭がぼうっとするようだ。水面の照り返しも、そろそろ目に痛くなってきた。 「あたしたち、次はどうしましょう」  ぽつりと、宇佐は尋ねてみた。 「まだ茂三郎さんのことを調べて ——」  渡部は両手で顔を拭うと、「あれは病死だ。それより井戸水、井戸水だよ」と言った。 「じゃ、もういいんですか。あたしがお手伝いすることも、もう終わりですか」 「そうだな。見当違いの探索をさせて済まなかった。だが、けっこう面白かったよ」  はい、と、宇佐は素直に答えた。心のなかには言いたいことがあったし、まだやりたいこともあった。そしてそれを渡部に言うきっかけをずっと探していたのだけれど ———  あのとき、美祢はこんなことを言った。宇佐が、琴江に飲ませた毒をどこで手に入れたのかと問い詰めたときだ。  ——— 梶原の家ほどになれば、どんなものだって、望めば手に入れることができるのですよ。  さらに、あなたのそばに、生薬を作ることに長けた者がいるのかと尋ねると、  ——— もう答えたでしょう。  そう言った。それは肯定の意味だろう。  頼まれれば毒薬を調合し、それを人に売りもする。そんな存在が、この丸海の町にいるということだ。  箱入り娘の美祢が、町中をうろついて、自力でそういう伝手を見つけたわけがない。さりとて、梶原家のなかに、そんな重宝な奉公人の類が住み込んでいるとも思われない。  毒薬を作り、美祢に渡した人物は、どこの誰なのか。どういう立場にいる、どんな人物なのか。宇佐はそれを知りたかった。  それに、そのことは、茂三郎の死とも何らかの形でつながっているような気がする。なぜだかわからないけれど、勘だとしか言いようがないけれど、どうしてもそんな気がして仕方がない。渡部のようには、あっさりと病死と認めることができない。井崎さまの最初の直感が、やっぱり気になって仕方がない。  毒、毒、毒。どっちを向いても毒にぶつかる。その毒はどこを通ってやって来たのか。  ひょっとするとその探索は、堀外だけでは終わらないかもしれない。となると、とうてい宇佐の力の及ばぬところだ。だが、入口を見つけることぐらいなら、独りでもできるかもしれない。  それを考えると、胸がどきどきしてきた。  見習いの身ではあっても、心は一人前だ。丸海を守り、丸海の人たちを助ける。それが引手の役割だ。あたしは、それをまっとうするつもりで番小屋にいる。  ひそかに通じている毒の道が、丸海の人びとを脅かすならば、放ってはおかれない。  今の宇佐の手に余る難事ではある。だから、頭を使うのと同じくらい、辛抱もしなくては。あわてて動き回っても、かえって何もつかめなくなるだけだ。じっと時を待てば、事の方からほつれほどけて、宇佐にも手の届くところに、謎の結び目の一端が姿を現してくれるかもしれない。人のやることなのだもの、必ずどこかに緩みがあるはずだ。それを見逃すことのないよう、しっかり目を瞠っていよう。耳を澄ましていよう。  また夏草のなかに仰向けにひっくり返ってしまった渡部を、宇佐はちらりと覗った。どうやら本気で昼寝するつもりらしく、目を閉じて気持ちよさそうにしている。  この方が、これほど怒りを覚えながら、これほど弱腰になられるのはなぜだろう。やっぱり丸海藩士だということなのか。それがこの方の限界か。  でも、あたしは違う。  あたしは丸海の娘だ。丸海藩の娘じゃない。引手は丸海藩の引手じゃない。丸海に生きる人たちの引手だ。  夏草のなかで、宇佐はしゃっきりと立ち上がった。 「あたし、もう行きます」  渡部は返事をしなかった。       二  まだ薄暗い朝方のことである。  ほうはとうに起き出して、水瓶を洗う仕事にかかっていた。夜がすっかり明け切るまでには、屋敷内のすべての水瓶の水を汲み替えておかねばならないので、朝は忙しい。  昨日は一日雨がやみ、青空が広がって心地よかったのだけれど、今日はそれを取り返すようにほうが目覚めたときにはすでにしとしとと降り始めていた。梅雨寒で、じっとしていると肌が冷たくなる。だが動き回ると、とたんにねばついた汗が浮いてくる。嫌な日和だった。早くすっきりと夏が来てくれないものか。  ひととおり水瓶洗いを終えて、台所へ薪を運びに行こうとしているところに、石野さまが急ぎ足でやってきた。ほうは驚いた。石野さまは、昨日ここに詰めていた。今日は小寺さまが来る日のはずだ。 「おはようございます」  ぺこりと頭をさげたほうに、石野さまはどんどん近づいてくると、ほうの腕をぐいとつかんで、井戸端から薮のそばへと引っ張っていった。しきりとあたりを気にしている。  石野さまの目は腫れぼったく、顔は疲れていた。いつも元気に赤らんでいる頬が、今朝は煤けたような色に沈んでいる。 「石野さま、おかげんがよくないのですか」  ほうの問いかけも耳に入らないのか、しばらくきょろきょろしてから、石野さまは声をひそめた。 「ほう、おまえには朋輩がいるか」  いきなりのお尋ねだ。しかも意味がわからない。ホウバイ? 「わからんのか。仲間だ。おまえがここで働いているのを知って、様子を見にこようなどとする友達がおるかと訊いている」  ほうはぽかんと口を開いた。 「おまえと仲の良い者はいないかということだよ」  それならおあんさんだ。ほうはうなずいた。 「引手のおあんさんです」 「む〜 引手だと」 「はい」 「引手なら大人だろう。大人が友達ということはあるまい。子供はいないか」  石野さまらしくないせかすような言葉つきで、ほうの腕を揺さぶる。ほうは困った。  と、石野さまもそれがわかったのか、ふうとため息を吐いてほうの腕を放した。 「そうだな。おまえには、せっついてものを尋ねてはいかんのだった」と、ほうの顔を見ながら呟いた。 「すみません」  ほうはもう一度頭を下げた。そうだ、あたしは頭が鈍いのだ。  石野さまは首を振り、「謝ることはない。そうだな、おまえには — 」  ちょっと言いよどみ、 「友達はおらんよな」と、小声で言い足した。「身寄りもないのだった。だから白羽の矢が立ったのだ。私としたことが、とり逆《の》上《ぼ》せてしまったようだ」  ほうがうつむいて、ふと見ると、石野さまの履物は泥だらけだった。足袋にも水がしみこんている。どこか外を歩き回っておられたのだろうか。昨夜はこの屋敷にはいなかったのだろうか。  石野さまは身をかがめると、今度はほうの両肩をつかみ、しっかりと目を見て、こう言った。 「今日これから、おまえに、何かお尋ねがあるかもしれぬ。何を訊かれても、存じませんと答えればいい。訊かれていることの意味がわからなくても ——— きっとおまえにはわからんだろうから ——— ただ殊勝に頭を垂れて、存じませんと答えておけばいい。できるな?」  石野さまの顔色の悪さと、充血した目のあまりの真剣さに、ほうは少しばかり怖くなってきた。 「存じません、と」 「そうだ。それだけでいい」大きくうなずいてから、石野さまはようやく片頬だけで力なく笑った。「昨夜はよく眠れたか?」 「はい」  いつもと変わりなかった。この屋敷での暮らしに、ほうはほうなりに慣れてきたのだ。 「そうか。物音も人声も、何も聞かなかったか。何も気づかなかったのだな。それでいい。それなら何の障りもない」  今朝の石野さまは、謎のようなことばかり言う。 「では仕事に戻りなさい。私と話したことも、誰にも言ってはいけないよ」  そう言い置き、また急ぎ足で庭を回って屋敷の方へ戻っていった。  薪と炭を台所に運び、次は北詰所の掃除と片づけだ。ほうは襷を締め直し、これもすっかり習い性になったことだが、足音を立てずに静かに廊下を進み、おはようございますと挨拶をしてからりと障子を開けると、なかは空っぽだった。北詰所には誰もいない。それどころか、昨夜ほうがここに運んだ夜食の弁当が、小机の傍らに重ねられたままになっている。湯茶にもまったく手がつけられていない。  いったいどういうことだろう?  さすがに異変を感じる。昨夜何か起こったのだろうか。もしや、加賀さまの御身に変わったことでも? だから石野さまもあんなにあわてて、くたびれた様子だったのでは?  でも、それだったら、なぜ石野さまは「おまえには朋輩がいるか」などとお尋ねになったのだろう。さっぱりつながらない。  とりあえず、中身が入ったままの弁当を下げて台所へ運んだ。勝手方では、いつもと同じように朝の支度が進められている。ちょうど今、台所の隣の小座敷へ、加賀さまの朝餉が運ばれてゆくところだ。そこにお毒見役が控えていて、一皿ずつ厳しく検分するのである。あれでは、料理が加賀さまのところに着くころには、飯は冷め、汁はぬるくなり、煮物はふやけ、焼き物は硬くなってしまうだろう。  もともと、加賀さまに供される食事は、けっして贅沢なものではない。一汁一葉、飯も麦混じりの硬いものだ。加賀さまは罪人なのだから、それでいいということなのだろう。だったら、せめて作りたてを差し上げたいものだとほうは思う。話の端を聞きかじっただけだから、確かなことではないが、加賀さまはお食事をあまり召し上がらないそうだ。無理もない。あれでは美味しくないのだろう。つくづく気の毒なことだ。  もちろん、口に出してそんなことを言えるわけはなかった。  御牢番の勝手方は、献立を決め食材を調べ、支度の際には台所で見張っているが、料理をするのは町場から呼ばれた料理人である。何人かいて、ときどき顔ぶれが入れ替わる。余計なロをきかないし、笑うこともない。ほうも、今まで、料理番の誰かと話をしたことはなかった。何か言いつけられて、はいと応じるだけである。  が、今朝は違った。勝手方のお役人が小座敷に下がった隙に、料理人の一人がすっとほうのそばに寄ってきて、こう囁きかけたのだ。 「おいおまえ、逃げた方がいいぞ」  ほうは仰天した。逃げる? あたしが?  この料理人は大柄でいかつい人で、日ごろは声も大きいが、今は呼《い》気《き》と同じくらいにまでその声を低くして、ほとんど喉の奥だけでしゃべっている。 「可哀相になぁ。そもそも、おまえみたいな子供がここで働かされてることがおかしいんだ」 「あの……あたしがどうして……」  大柄な料理人は、ほうがもごもご言っているのをよそに、竈のそばにいる仲間の方をちらりと窺った。そちらの料理人は、この大柄な人の手下のようで、歳も若い。心配そうに顔を曇らせ、首を縮めている。 「俺たちにも、いつも見張りがついているから、おまえを助けてやることなんかできねえ。気の毒だけど、何もしてやれやしねえ。すまないな」 「あたし、お咎めを受けるのですか」  ほうは彼を仰いで訊いた。料理人はまた仲間の顔を振り向くと、 「何も知らねえのか。なら、知らねえままの方がいいかな」と言った。そして、怖いものでも追い払うかのように、ほうを台所から外へと押し出した。  ちんぷんかんぷんのまま、ただ不安ばかりが上乗せされていく。だからといってどうすることもできない。とにかく、詰所の掃除を済ませてしまわなくては。  きりきりと気働きがいいというわけではないが、いつも一生懸命に働いていることが認められてきたのだろう、このごろではほうは、北詰所だけでなく、あとの三つの詰所の掃除も任されるようになってきた。南の詰所は、加賀さまのお部屋にいちばん近い上、御牢番頭の船橋さまがお入りになる座敷なので、念入りな掃除が要る。塵ひとつ落ちていてもいけない。ここを掃除するときは、必ず御牢番の誰かがほうの仕事ぶりを見張っている。石野さまや小寺さまがついてくることもある。掃除する場所が増えれば、それだけ屋敷のなか深くまで入り込むので、お目付け役が要るということもある。  が、今朝はそれも勝手が違った。ほうが西の詰所を掃除していると、御牢番のお役人がやって来て、ひどく怖い顔をして、南の詰所は掃除をしなくていいという。近づいてもいけないという。別のご沙汰があるまで、下がって小屋のなかでおとなしくしておれと命じられて、ほうは素直に引き返したが、不安はふくれる一方だった。  ——— あたし、何か粗相をしたのかな。  だからお咎めを受けるのだろうか。  庭に出て、思わず知らず足音をひそめながら小屋の方へと戻ってゆくと、小寺さまの顔が見えた。ほうを探しておられたようで、 「おお、おった、おった」と駆け寄って来た。「探したぞ。何をしておったのだ」  頭ごなしに怒鳴られて、ほうは身を縮めた。とっさに小寺さまの足元に目をやったが、足袋は目に沁みるほど白い。石野さまとは違う。だが、顔色が悪く、目が血走っていることは同じだった。 「戸崎さま、おりました。これにございます」  小寺さまは、猫の子をつまみあげるようにほうの後ろ襟をつかまえると、ぐいぐいと小屋の方に引っ張っていく。持ち上げられて足が浮き、ほうはほとんど引きずられるような格好になった。じたばたすると、 「何をしておる。しっかり歩かんか!」  また叱られた。泣きたくなってくる。  戸崎さまと呼びかけられたのは、見慣れない顔のお役人だった。ほうの住まっている小屋のなかを、嫌な臭いでもかいだように顔をしかめてのぞきこんでいたが、ほうが小寺さまに引きずられてゆくと、大またで歩み寄ってきた。えらの張り出したいかつい顔で、眉毛が太い。歳は小寺さまよりもさらに上だろう。贅のあたりが真っ白だ。 「こら、おまえ、名前を何という?」  しゃがれたような声で、居丈高に訊いた。ほうはすっかり心が縮んでしまって、うまく口がきけなくなっていた。 「さっさとお答えせんか!」小寺さまがほうの頭をぴしゃりと張った。「まったく鈍い。戸崎さま、この子供は知恵がありませんでな。自分の名前さえよう名乗れんのです」  戸崎さまはぎろりと小寺さまを睨んだ。 「そんなできそこないを、どうしてここへ入れたのだ」 「いや、それは」小寺さまは急にへどもどした。「いっそこういう者の方が安心ではないかと」 「安心?」鼻の穴をふくらませて、戸崎さまは吐き捨てた。「その浅慮が、今回のような失態を呼んだのではないのか?」 「はあ、しかし、ここで働く者を見つけるのはことのほか難しく —— 」 「何とでも手のうちようはあったろう。いったい誰がこのできそこないを選んだのだ!」  と、そのとき、響きのいい声がした。 「私でございます」  ほうも驚いたが、戸崎さまと小寺さまは、ちょっと飛び上がったほどだった。  台所に通じる屋敷の勝手口に、舷洲先生が立っていた。井上家の紋所の入った羽織を着て、袴も着けている。ほうの知る限り、舷洲先生がこういう身なりをなさるのは、お城に登るときぐらいのものだった。 「これは、匙の井上先生」  戸崎さまが目を瞠り、一歩退いた。小寺さまも、ほうの後ろ襟をつかんだままたじろいでいる。 「御牢番の方々には、お役目ご苦労様にございます」  舷洲先生はゆっくりと腰を折り、頭を下げた。そしてほうに向かって笑いかけると、 「この子の名はほうと申します。こちらにあがるまでは、当家で下働きをしておりました。確かに少々頭の働きは鈍いものの、真面目で正直な働き者ゆえ、私が船橋さまに推挙したものにございます」  匙家の身分は高いので、さほどの役職にはついていなさそうな戸崎さま小寺さまを相手に、たぶん、本来ならこんな丁寧な口はきかなくてもいいはずだった。しかし舷洲先生は言葉を選び、口調も静かでやわらかに保っている。それがかえって貫禄を生んでいた。舷洲先生は偉い先生なんだと、あらためてほうは思った。 「い、井上先生のご推挙でありましたか」  戸崎さまはたじたじとして、言葉を噛んでしまっている。 「しかし、それにしてもわざわざお越しになるとは —— 委細をご承知なのでしょうか」  舷洲先生はうなずいた。「砥部家より急を聞きまして、まかりこしました。砥部先生は今、加賀殿のお脈を診ておられます」 「砥部先生が報せたんですか?」  小寺さまはすくうような目つきになっている。しらっ茶けた顔色に、剃り残した髭が貧相に見えることに、ほうは気づいた。 「砥部先生は、このほうが私の推挙でここにあがったことをご存知です。なにぶん子供のことゆえ、急な病などが案じられましたので、私の方からお話をしておきました。ですから、今回の椿事につきましても、いち早くお報せいただくことがかないました」 「椿事?」急に声を固くして、戸崎さまが繰り返した。「井上先生は、今般の不祥事を椿事とおっしゃいますか? いくら匙家の先生といえども、それはあまりに軽率に過ぎるように思いますが」  舷洲先生はにっこり笑う。「いけませぬかな」 「それはだって、し、しかし、ねえ?」小寺さまが舷洲先生と戸崎さまの顔を見比べ、おたおたと足を踏みかえた。まだ後ろ襟をつかまれたままのほうは、小寺さまが右往左往すると、一緒になって身体が揺れる。 「ほうを放してやってはいただけまいか。目を回しかけているようだ」  舷洲先生の言葉に、小寺さまは熱いものをおっぱなすみたいにほうから手を放した。はずみで突き飛ばされ、ほうは地面に手をついた。舷洲先生は袴をしゅっしゅと鳴らしながら近づいてきて、ほうに手を貸し立ち上がらせてくれた。 「久しいな、ほう。元気でおったか」  懐かしい声に、ほうは不意に涙が出てきそうになった。 「はい」と答えるだけで精一杯だ。 「うむ。良い子だ」舷洲先生はほうの頭を撫でた。「私は少し、こちらの方々とお話がある。おまえは小屋に入って、呼ばれるまで待っておいで。何も心配することはない。お屋敷で少し騒動があっただけだ。すぐ終わる。わかったね?」 「はい、わかりました」  ほうは頭を下げたが、混乱する心に急かされるままに、思わず尋ねてしまった。「舷洲先生、もしかして、加賀さまがご病気になったのですか?ご飯をあまり召し上がらないそうなのです。それでお身体を悪くしてしまったのでしょうか」  砥部先生がお脈を診ている。舷洲先生も駆けつけてこられた。匙の先生がお二人も来ているということは、すなわち「騒動」というのは、加賀さまのお身体に何か障りがあったということではないのか ——— ほうはほうなりにそう考えたのであった。  戸崎さまが怒声をあげた。「女中の分際で、めったなことを言うものでは ——— 」  その怒声は中途でぱちりと切れた。舷洲先生が振り向いて、戸崎さまを見たからだ。ほうには舷洲先生のお顔は見えないが、戸崎さまの顔色が変わったのはわかった。 「卑しい女中の身でありながらも、一事あれば、いのいちばんに加賀殿の身を案じる。見上げた心がけではありませんかな」  丁寧な口調のままだったが、舷洲先生の声は少し低くなっていた。  はい、はい、ごもっともと、小寺さまがばね仕掛けの玩具のように首を振って賛成する。ほうはちょっぴり可笑しくなった。 「加賀殿にお変わりはないよ。心静かにお過ごしになっておられよう。この騒ぎは、加賀殿には何のかかわりもないことだ」  かかわりがない、という言葉のところで、戸崎さまの太い眉毛が不穏に上下したことに、ほうは気づいた。 「後でまた会えるだろう。もうすぐ船橋様がお見えになるそうだ。おまえにも、少々お尋ねの向きがあることだろうが、そのときは私が一緒におるからね。怖いことは何もない。お尋ねを受けたら、おまえのわかることを、そのままお答えすればよい。できるな?」 「はい」  舷洲先生はかがみこみ、もう一度ほうの頭を撫でながら、優しく微笑んだ。その肩越しに、戸崎さまと小寺さまの顔が見える。苦い薬を飲まされて、しかもそれを苦いと言ってはいけないと我慢しているような、苦しそうな顔だった。  それにしても、「騒ぎ」というのは何だろう。何か起こったというのだろう。    三  戸口を激しく叩く物音で起こされるなど、誰にとっても心地よい目覚めてはない。そうやって叩き起こされ、戸を開けてみたら、真っ青な泣き顔の女の子が立っていた —— となればなおさらだ。  目覚める直前、宇佐はほうの夢を見ていた。二人で日高山神社に詣でたときの思い出が、眠りのなかで蘇ったものらしかった。しかし、いかにも夢らしく混乱していて、長い石段を登り鳥居をくぐった先には広々とした磯が広がっていて、宇佐はほうと手をつなぎながら岩場を拾い歩き、江戸はこの海を越えたずっとずっと先だ、うんと遠くなんだよ —— などと話をしているのだった。  だから、まだ半目のままで戸を開けたとき、そこにいる女の子が、一瞬だけほうに見えた。あんた帰ってこられたの? と言いかけて、やっとその女の子が嘉介親分の娘のお吉であると気づいたのだった。 「どうしたの、お吉ちゃん」  お吉は目じりに涙を溜め、震えていた。あわてて着替えたのか、帯の結びが歪んでいる。歳は十二、まだまだ子供だが、女の子らしい意地の張り合いや、他人の目を気にするところなどもほの見えてきて、難しい年頃だ。ほうとそりがあわなかったのもそのせいだった。  とはいえ、おかみさんによく似たしっかり者の長女である。こんなふうに、今にも泣き崩れそうになっているなんて、ただ事ではなさそうだ。宇佐はしゃきっと目が覚めた。 「何かあったの?」 「お父ちゃんが、宇佐姉ちゃんを呼んでこいって」下顎をがくがくさせながら、お吉は言った。  嘉介親分の家に来いということか。それなら是非もなく駆けつけるが —— 「いいよ、すぐ行く。どうしたの? 誰か具合でも悪いのかい?」  親分とおかみさんには、お吉の下に倅が二人いる。年子で、太郎と次郎というその兄弟は、宇佐によくなついていて、顔を見れば「うさぎ、うさぎ」と寄ってくる。  三人とも麻疹は無事に済んだ。これまで大きな怪我をしたこともない。だが子供のことだし、とりわけ太郎と次郎は元気が有り余っている子供たちだから、いつ何があるかわからない。 「わ、わかんない」と呻くように呟いて、お吉は泣き出した。 「だけどお父ちゃんが、宇佐姉ちゃんに来てもらえって」  宇佐はあわててお吉を抱きかかえ、袖で涙を拭いてやった。ほっそりとした腰も、まだぺたんこの胸も、瘧《おこり》を病んでいるかのように止めようもなく震えている。 「おかみさんがどうかしたの?」  お吉は激しく首を振った。「た、太郎と次郎が」 「たろ坊とじろ坊が? 具合悪いの?」 「か、帰ってこない、の」  言葉より鳴咽の方が優勢で、宇佐にはそれが「ってこない」のところしか聞こえなかった。さらに、続けてお吉が言ったことに、尋常ではないものをちらりと感じた。 「お父ちゃん、内緒で、宇佐姉ちゃんを連れてこいって。誰にも、言っちゃ駄目、だって。番小屋に、も」 「わかった。ちょっと待っててね」  身支度もそこそこに、何を持っていっていいかもわからないから手ぶらで、泣きじゃくるお吉の手を取った。夜明け前、しかし空は薄暗く、雨が降っている。昨日のお天気は一日限りの興行で、今日はまた梅雨の続きだ。  嘉介親分が女房子供と暮らしている古びた一軒家には、着いてみると、驚いたことに大家が先に来ていた。この借家の家主である。と同時に近隣の世話人でもある。町場では、地主や家持ちはよろずのとりまとめ役なのだ。 「ああ、あんたか」  大家は七郎兵衛という老人で、宇佐とも顔見知りである。狭い家のことだから、お客用の座布団などない。たぷん親分の寝床なのだろう、あわてて飛び起きたままの形になっている夜具をちっと脇に退けて、七郎兵衛はその裾にちんまりと座り、お吉といい勝負の青ざめた顔に、額だけてらてらと光らせていた。この時刻だしこの雨だし、蒸し暑いわけではない。冷汗だ。 「いやはや、大変なことになった」 「あたしには何が何だかわからないんです。親分はどうなすったんでしょう?」  宇佐の問いには答えず、七郎兵衛はお吉に、「大丈夫かい?」と声をかけた。今やお吉は泣きじゃっくりを始めている。 「おっ母さんのそばにいてあげな。奥で横になってるから」  お吉は手で顔を拭きながら、ばたばたと奥の唐紙を開けた。布団が見える。宇佐も後に続いた。 「おかみさん? 宇佐です」  のぞいてみて驚いた。おかみさんは寝ているのではなく、倒れていた。暗がりのなかでも顔が真っ白なのがわかる。怖いものに脅かされたように手足を縮め、歯を食いしばっている。 「いったい —— 」  呆然として立ちすくんでしまった宇佐の袖を、七郎兵衛が引っ張った。宇佐は老人のそばに戻り、やはり夜具を避けて座った。 「太郎と次郎がね」  大家は皺の寄った口元をもそもそと動かし、あたりを憚るように声を落とした。 「夜中に、涸滝のお屋敷に行っちまったんだよ」  行っちまったって —— 「何しに行ったんです?」 「肝試しだよ」  涸滝の屋敷に棲みついている鬼が姿を現した。それを見て寝付いてしまった者がいる。そんな噂が子供たちのあいだで広まっているという。太郎と次郎もそれを聞きつけ、そんならいっぺん、おいらたちも、その鬼とやらを見てやろうじゃねえかということになったらしいというのである。  宇佐はあっと声を出しそうになった。涸滝の屋敷の鬼を見て、その鬼に追われ、寝付いてしまった子供なら知っている。塔屋「離れ屋」の子だ。織り子のお菊の息子で、八太郎という九つの男の子である。 「その話なら知ってます。その子も肝試しに出かけたんですよ。だけどあれは、まだ加賀さまが来る前のことです」 「だからさ、それからも噂が広がってたわけだよ」七郎兵衛は酸っぱそうに口をすぼめた。 「子供だからねえ、見境がないんだよ。加賀さまが丸海に流されてきてるってことの意味も、本当にわかっちゃおらんしさ」  太郎と次郎は、子供同士のあいだで、そんな悪い鬼ならおいらたちが退治してやるぐらいのことを言っていたらしい。おいらたちの父ちゃんは紅半纏の引手だぞ、おいらたちだって、鬼なんか怖くねえや! 宇佐にはその声が聞こえてきそうだ。  またそれを聞いて、いいぞ、やれやれと焚きつける仲間もいたのだそうだ。子供だからさと、七郎兵衛はため息と共に言った。 「あの子らは正直だからね、つい二、三日前に、雨の切れ間に月が出たら、涸滝の屋敷に鬼退治に行くんだなんてことをおかみさんに話してね、それが親分の耳に入って、こっぴどく叱られたそうなんだ。絶対に駄目だ、行っちゃならんとさ」  当然だ。嘉介親分は青くなって怒ったはずである。 「だけどそこがまた子供だから、怒られたら余計にやりたくなるんだねえ。それで昨夜とうとう ———」  皆が寝静まってから、こっそり家を抜け出して出かけて行ったというのである。 「確かなんですか? 本当に涸滝へ行ったんですか? どうしてわかったんです?」  にじり迫る宇佐をそっくり返るようにして遠ざけながら、七郎兵衛は何度もうなずいた。 「ついさっき、涸滝からお役人が来たんだよ。話を聞いて、親分にはすぐあの子らが肝試しに行ったってわかったんだろう。まずあたしのところに寄って、後のことは頼むってさ、それで涸滝へ ——— 」  宇佐は唐紙の奥へ目をやった。「おかみさんは? 」 「話を聞いて、泡を吹いてひっくり返っちまったんだよ」  宇佐は背中がざわざわとするのを感じた。冷たいものが床から這い登ってきて、宇佐の身体を包み込もうとしている。その冷たいものの正体が、宇佐はもうわかるような気がする。涸滝からお役人が来た。親分は引っ立てられて行った。大家に後を頼むと言った。おかみさんは気絶してしまった。お吉は今にも倒れてしまいそうな様子で泣いている。  何が起こったのかわかるような気がする。でも言葉にすることができない。あまりにも恐ろしくて。 「たろ坊とじろ坊は —— 」  そろりそろりと問いかけて舌に乗せてみた。七郎兵衛の顔を見ることができない。怖くてできない。目は夜具の端っこに落としたままだ。それでも、七郎兵衛が辛そうにかぶりを振っているのがわかる。 「あの子らは身が軽いし、頭もいいからな。親分の子さ。度胸もある。御牢番の目を盗んで、あたしらじゃ考えもつかないくらい上手に、涸滝の屋敷に近づいたんだろうよ」  だけど警護の役人に見つかった。  宇佐は空唾を呑み込んだ。ごくりと音がして、自分で飛び上がった。  お吉のすすり泣く声が聞こえてくる。弟たちの身に何が起きたのか、お吉ももう察している。  怒るより嘆くより、ただただ嗄れてかすれた声で、七郎兵衛がこう言った。 「——— 二人とも斬られたそうだ」  宇佐は頭まで冷たいものに呑み込まれた。 「まだ詳しいことはわからないんだよ。涸滝のお役人は、あの子らが首から提げていたお守りを見たんだろう。名前を書いてあったからな」  だからここにやって来たのだ。親の身柄を押さえるために。  水に入ったわけでもないのに —— よく知っている、いつも散らかっているが居心地のいい嘉介親分の家のなかで、いつも太郎と次郎の明るい声がいっぱいに弾けていたこの家のなかで —— 宇佐は溺れてゆくのを感じた。どんどん深みに吸い込まれてゆくのを感じた。  暗い、寒いところに沈んでゆくのを感じた。  ——— うさぎだ、うさぎが来た。  ——— おいらたち、鳥を追ってるんだ。  ——— うさぎ、元気か?  ——— うさぎ、遊んでよ。どうせヒマなんだろ?  ——— うさぎ、うさぎ。  元気な兄弟だった。涙が溢れ出る。 「親分もおかみさんも、いずれただでは済むまいよ。あたしら、これからいったいどうすりゃいいんだろう」  七郎兵衛の呟きに、宇佐は両手で頭を抱えた。       四  早朝の騒ぎから、五日が経った。  引っ張られて行ったきり、嘉介親分は戻らない。  太郎と次郎も戻らない。  涸滝の屋敷に忍び込み、警護の役人に斬り捨てられたという二人の子供の亡骸は、戻ってこない。宇佐は、いっそそれで救われたような気になることがふっとある。あの子たちの死顔など見たくない。見たら、もう二度と立ち上がることもできないだろう。  おかみさんは寝付いたきりだ。拝むようにして頼まないと、食べ物を口に入れてくれない。宇佐は嘉介親分の家に住み込み、おかみさんとお吉の世話をしている。西番小屋のことも気になるが、あの日の昼前、花吉がやってきて、番小屋の方は大丈夫だから、宇佐は親分の家から動かないでくれと頼まれた。だからずっとそうしている。  親分の家の大家の七郎兵衛は、日に何度も顔を出してくれる。ただ、今までのところでは、七郎兵衛のところにも、お城や町役所から何のお沙汰もないという。親分が呼ばれて行ったきり、ぶっつりと消息が絶え、不安だけが日に日に濃くなってゆく。  皮肉なことに、悲報を聞いた日の梅雨寒を境に、空はからりと晴れて暑くなった。梅雨を抜けて夏が来たのだ。夕方になると騒々しい夕立が通り過ぎ、派手に雷が鳴る。  宇佐は雷鳴と稲妻を、この世の終わりのしるしのように聞いた。  六日目の朝、おかみさんはとうとう重湯も要らないと言い出した。このまま死にたい、このまま死ぬんだと、涙も出尽くし乾いた目で、暗い天井を仰いでいる。  おかみさんの布団の裾に座り込み、こちらも泣き疲れてげっそりしているお吉を、慰める言葉も使い果たして、朝っぱらから宇佐は途方に暮れた。  土間の下り口に座って両手を膝に乗せる。手足が妙に震えるようで、力が入らない。  親分の家に降りかかった突然の凶事に、詳しい事情はわからず —— 七郎兵衛が皆を遠ざけているから ——— しかし、察するものがあるのだろう。握り飯だの煮物だの、近所のおかみさんたちが作って頻繁に差し入れてくれるから、食べ物は足りている。ただ、どうしても食べられない。食べなくちゃ駄目だ、ここであたしが倒れるわけにはいかない、食べろ食べろと自分を叱咤するのだけれど、握り飯の半分も口にすると、もう胃袋が喉のあたりまでふくれあがったみたいになって、飲み込めなくなる。無理をすれば、やっと食べた分まで吐き戻しそうになる。  このままじゃいけない —— 窓の格子から、竈の上の煙抜きから、まぶしく差し込んでくる朝日に目を細め、宇佐は懸命に考えた。  お吉を他所に預かってもらおうか。おかみさんから引き離すのは可哀相すぎると、ずっと家に留めていたけれど、こんな様子では、かえって良くないことになりそうだ。それとも、おかみさんの世話を誰かに頼もうか。今ではまったく病人だ。病人なら、お医者さまにお願いするのがいちばんだ。宇佐の手には、もう負えない。  でも、井上家にはもう行かれない。啓一郎先生は、宇佐が頼って行ったなら、けっして退けたりなさらないはずだ。だからこそ行かれない。家守の金居さまや、あのおっかない女中は、宇佐のことを、啓一郎先生にたかる蝿のように思っている。「去ね!」と、怒鳴りつけられたときのことは忘れられない。  実際そのとおりなのかもしれない。宇佐は啓一郎先生のお荷物だ。先生にご迷惑をかけることはできないし、したくない。宇佐にだって、それぐらいの志はあるのである。  ぼんやり座り込んでいると、すぐ奥の座敷で、お吉がまた思い出したように泣き出した。どうしたのだろう。行って宥めてやらなくては。そう思いながらも、宇佐は立ち上がることができなかった。疲れきっている。  嘉介親分はどうしているだろう。今どこにいるのだろう。丸海の町では、罪人は、町役所の地続きに建てられている大番小屋に留め置かれることになっている。  だが今回の不祥事は、内容が内容だ。自分の子供たちがどこで何をしでかし、どうして斬られたのか知っている親分を、お城の人たちが、雑多な罪人どものひしめく大番小屋に連れて行くものだろうか。  そんな手順を踏む必要など、どこにもない。畠山のお殿様に知られなければいい、ご城代に知られなければいい、という種類の不始末ではないのだ。いつか渡部が言っていたではないか。丸海藩が怖いのはお上の目だと。丸海藩の加賀さまに対する処遇に手抜かりがあると知られれば、ひとたまりもないのだぞ、と。そしてお上の目と耳は、すでにしてひそやかに丸海の町に入り込んでいる。そこにも、ここにも、どこで目を光らせ、聞き耳を立てているかわからないのだ。誰がそういう目と耳を持っているのかということさえ、丸海の者には知るすべがない。  今この時にも、江戸表に向かい、密使が駆けているのかもしれない。畠山家の息の根を止めるこの不祥事の報を抱いて。  嘉介親分はたぶん、もうこの世にはいない。宇佐は暗くふさぐ心で考える。お城には、親分を殺してしまうだけの理由が山ほどある。  だが一方で、おかみさんのところに何の沙汰もないまま今日まで来たことに、一《いち》縷《 る》の望みも抱いてしまう。あるいは親分の処遇も、まだ決まってはいないのかもしれない。お城では今、息を潜めて、恐ろしい手抜かりの詳細が、江戸に伝わるか伝わらぬか、様子を窺うだけで精一杯なのかもしれない。必死で江戸からの密使を探し出し、丸海から外へ出すまいと試みているのかもしれない。あるいは、追っ手を放っているということも ——— 「宇佐、こんなところに座り込んでどうしたんだね」  声をかけられて目をあげると、七郎兵衛がのぞきこんでいた。老いた家主の顎も、この数日でこけて尖った。律義に着込んだ羽織にも皺が目立つ。 「ああ、すみません」  宇佐は立ち上がりかけてめまいを感じ、また座ってしまった。七郎兵衛が肩に手を置く。 「ひどい顔色だ。無理もないがね」  七郎兵衛の声も嗄れていた。 「何をどうすることもできなくて、ただここに籠っているだけで、息が詰まりそうなんです。あたし、どうしたらいいんでしょう」  思わず愚痴がこぼれ出た。七郎兵衛は宇佐の肩を軽く叩くと、おかみさんが寝ている座敷の方へ目をやった。 「ずっと変わらずかね」 「おかみさん、死にたいって」  七郎兵衛は何か言いかけたが、思い直したように顎を引くと、宇佐を見おろした。 「香坂先生のところへお預けすることになったよ」  宇佐はぱっと目を瞠った。今度はしっかり立ち上がる。 「匙の香坂先生ですか」 「うん。あの女先生が引き受けてくださるそうだ。今朝、町役所からお沙汰があった。お吉は、私の家に引き取るよ」  膝から力が抜けた。「よかった。泉先生に診ていただけるなら・・・・・ あ!」  七郎兵衛の肩越しに、ひょいと別の顔がのぞいて、宇佐は驚いた。東番小屋の常次親分である嘉介親分よりはいくつか若いはずだが、髪が薄いのと、しゃくれたような顎の仏頂面のせいで、老けて見える。今朝は紅半纏なしの着流しで、着物の裾を尻にたくしこんでいた。 「おまえが宇佐って娘かい」  目方を量るような目つきで、さあっと宇佐を眺め回した。 「留守番ご苦労だったな。後のことは、こっちで引き受ける。おまえはもういいよ」  おっぱなすような口調に、宇佐は戸惑って七郎兵衛の顔を見た。が、痩せた家主が何か言う前に、せわしなくきょろきょろと嘉介親分の住まいを検分しながら、さらに常次親分が続けた。 「町役所の方じゃ、嘉介のかみさんも引っ立てて来いって、えらい怒りようだったんだがな。それをどうにか宥めて説き付けて、匙の先生に預かってもらうところまでこぎつけたのは、この七郎兵衛さんの働きだよ。あんな病人を町役人が引っ張っていったら、かえって騒ぎになって剣呑だってな」  七郎兵衛はしわしわと笑った。 「私の力じゃないんだよ。宇佐、おまえ、飯炊き長屋を知ってるかい。あそこの家主の八郎兵衛さんを」  常次親分が、からかうように口をすぼめて割り込んだ。「七郎兵衛と八郎兵衛だよ。違いがわかるかい」 「飯炊き長屋は束番小屋の差配ですから、よくは知りません。でも、その八郎兵衛さんがどうかなすったんですか」 「あの人は、堀内のお屋敷といろいろつながりを持っててね。そら、お屋敷奉公を下がった連中の面倒をみているからな。だもんで、町役所にも少々の顔がきく。今度のことでも伝《つ》手《て》を頼って奔走してくれたんだよ」  おかげで、おかみさんは大番小屋行きを免れたというのだ。 「なにしろ事が事だから、町役所だって、自分のところだけで差配ができるわけじゃない。公事方のお目付からきつく叱りつけられて、その分の腹立ちもこっちに上乗せしてがんがん怒っていたからね、私一人じゃ、たまったもんじゃなかったよ」  七郎兵衛はくたびれて気の抜けたような吐息をついた。 「それで ——— 嘉介親分は」  宇佐は声を潜めて尋ねた。七郎兵衛は答えず、黙って常次親分をかえりみた。 「まあ、考えねえ方がいい」  常次親分は短く言った。 「それより、じきに香坂の先生のところから迎えが来るから、おかみさんが出られるように支度してやってくれ。七郎兵衛さん、お吉はすぐ連れて行くんだろう。そっちも手荷物をまとめないとな」  宇佐は急いで仕事にかかった。     五  お吉が七郎兵衛に手を引かれて去り、やがて香坂家の奉公人が戸板に乗せておかみさんを連れていってしまうと、宇佐は一人になった。嘉介親分の家を掃除して、近所に挨拶を —— 病気のおかみさんは匙の先生に診てもらえますから大丈夫です、親分もしばらくは忙しくて家には戻れないと思います —— 済ませると、宇佐は西番小屋に向かった。  番小屋の戸口は閉じていた。近づくと、障子の向こうから話し声が聞こえた。  そっと開けると、すぐのところに花吉の背が見えた。宇佐に気づき、両方の眉毛をうんと吊り上げた。 「おまえ、何やってんだよ」  狭い番小屋のなかに、引手たちが集まっている。皆でぞろりと、花吉と宇佐を振り返った。引手たちの前に出て、しゃべっているのは常次親分であった。 「遅くなってすみませんでした」  嘉介親分を欠き、西番小屋はこれからどうするのか、会合をしているのだ。その大切な集まりに、宇佐は遅れた。花吉が「何やってんだ」と咎めたのもそういう意味だ —— と解釈したから、宇佐は大きな声で言って頭をさげた。  引手たちはしんとしている。西番小屋の見慣れた仲間たちの顔が、妙に冷えている。  常次親分は口をつぐみ、宇佐を見ている。花吉がせっかちに宇佐の袖を引っ張った。 「おまえはよう、何やってんだよ」 「だから ——— 」  宇佐が抗弁しかけたとき、ふんと鼻から息を吐いて、常次親分が声をあげた。 「宇佐、おまえはもういいと言ったがな」  花吉がしきりと目配せをして寄越す。宇佐は彼を肘で押しのけ、半歩前に出た。 「おかみさんは無事に香坂先生のところへ行きました。ですからあたし ——— 」  宇佐を遮り、常次親分は言った。「町役所からのお達しで、今日から西番小屋の頭も、この俺が務めることになったんだよ。ただ俺も身体はひとつだからな。一度に二つの番小屋を束ねるのは無理だ。だからこの孝太を名代に立てて頭見習いにする」  常次親分は、すぐ傍らに立っている、西番小屋では古手の引手の方を指した。孝太は女房が塔屋の織り子で、自分も塔屋の仕事を手伝っている。さして機転のきく方ではないが、真面目な働きぶりで、嘉介親分も右腕と頼んでいた。親分が不在の今、留守を預かるなら孝太ということで、誰も異存はない。もちろん宇佐もだ。  が、常次親分のきつい口調には、それだけでは済まないものが感じられた。宇佐は不安を覚えつつ、気丈に声を張り上げた。 「よくわかりました。常次親分、孝太親分、これまでどおりに働きますので、あたしをよろしくお引き回しください」  だからおめえは何言ってんだよと、花吉が宇佐を突っついてせわしない。 「すまねえがな、宇佐」  常次親分は不機嫌そうに言った。 「俺は嘉介親分とはやり方が違う。うちじゃ女の引手は使ってねえ。ましてやおまえはまだ見習い分だっていうじゃねえか。半人前だな」  驚いたことに、引手たちのあいだから笑いが漏れた。 「俺が名代に据えた考太が頭になる以上、東番小屋と同じやり方でいかせてもらうのが筋だ。字佐、おまえはもう西番小屋に用はねえ。だから、もういいと言ったのだ」  花吉が宇佐の袖を引っ張り、小屋から外へ出そうとしている。宇佐は逆らい、足を踏ん張り、真っ直ぐ常次親分を見た。 「あたしはお払い箱ってことですか」 「女には女にふさわしい生業《なりわい》がある」  背中を震えが走り抜けたけれど、宇佐は堪えた。 「嘉介親分は、あたしがあと半年もしっかり働けば、見習いを終えて引手に取り立ててやるって約束してくれてました」 「だが、嘉介はもういねえ。万にひとつ、戻ってこれたとしても」  常次親分はいったん言葉を切った。短い沈黙が、意味ありげに一同の頭の上を漂う。 「もう引手の頭を務めることはできねえ。気の毒だが宇佐、その約束は反故だ」  ちょっと表情を緩めて、常次親分は宇佐に語りかけてきた。 「おまえが働き者だってことは、俺も承知している。仕事はいくらでもあるはずだ。塔屋へ行ってみちゃどうだ?」  また皆が笑った。さっきよりもはっきりした笑い声だった。宇佐は足元が揺れるのを感じた。波に崩れる砂の上に立っているかのような気がした。  みんな、あたしを仲間だと思ってくれていたんじゃないのか。 「だからさ、そういうことだからよ、おまえはもうここにいなくていいんだよ」  花吉が笑いながら宇佐を引っ張る。それでも彼の笑顔には、苦しいごまかしが混じっていた。その分、他のみんなよりはましだ。 「花吉さん」  彼に番小屋の外へと押し出されながら、宇佐は彼を見据えて言った。 「何だよ?」  花吉は鼻の頭に汗をかいている。暑さのせいだけではない。  言いたいことは山ほどあるのに、いや、山のようにあるからこそ、宇佐には何から言ったらいいかわからなかった。言いたい事柄の山に押し潰されてしまった。  結局何も言わず、踵を返した。宇佐が覚悟していたよりもひと呼吸遅れて ——— そこにも花吉の人の好きが、ちょっぴり匂った ——— 背後で番小屋の戸がぴしゃりと閉まった。    陽盛りの堀外を、うろうろと歩き回った。こめかみから汗が流れ落ち、櫛巻きにした髪が湿り、着物の合わせがじっとり重くなった。自分でも汗臭い。それでも足を休めず、日陰を探すことさえせずに歩き回った。  丸海の町は、普段と同じように見えた。去年の夏と変わらなかった。塔屋の干し場には紅貝染めの反物が誇らしげにひるがえり、煙突からは蒸気が立ちのぼる。磯の匂いと染料の匂いが入り混じり、初夏の風に乗って町筋を吹き抜ける。  琴江さまのことも、加賀さまのことも、太郎と次郎のことも、嘉介親分のことも、何にも起こっていないみたいだ。そうなんだ。多くは知られていないことばかりなのだから。  あたしがこうやって、あてもなしにうろつき回っていることだって、誰も気づいてないみたいだ。さっきからこの店の前を何度通った? この塔屋の棟を何度見上げた? 丸海は小さな町だ歩き回っていれば、嫌でも番小屋の前を通りかかりそうになる。それに気づくと、宇佐は怖いものから逃げるようにきゅっと向きを変え、また徘徊《はいかい》を始めた。 「おい宇佐。おい」  誰かが呼んでいる。宇佐は町屋の屋根が道に落とす濃い影を睨んでずんずんと歩き続ける。「おい止まらんか。宇佐、聞こえないのけ」  むんずと肘をつかまれた。宇佐は振り返りもせずにその手を振り払った。  と、前に立ちふさがる人影があった。 「おまえ、気は確かか? 真っ昼間から何に魅入られたんだ」  小柄だががっちりした黒い影が、宇佐の腕をつかみ直して揺さぶっている。 「自分のなりを見てみろ。汗みどろだ。何の用があってどこへ行くのか知らんが、俺に挨拶する暇もないほどの用なのけ」  渡部一馬であった。  宇佐はまばたきをした。一度、二度、三度。何度まばたいても渡部の姿は消えない。目の縁がヒリヒリする。  渡部は町役人の紅羽織姿で、月代に汗を浮かべていた。濃い眉が暑苦しい。小脇に風呂敷包みを抱えていた。 「何だ、俺が誰かわからんのけ?」  笑うような声だったが、渡部の目には懸念の色があった。  宇佐はまわりを見回した。いつの間にか、お城の堀に沿った町筋を歩いていた。片側には青空を映した堀の水面が涼しげに広がり、片側には丸海でも大きな商家が軒を並べる。どの店でも表戸を開け放ち、日よけの簾を下げたり立てかけたりして、少しでも日陰をかせごうとしていた。「おまえを訪ねて、西番小屋に行くところだったのだ」  まるで、誰かに問い詰められて言い訳をするように、渡部は早口に言った。宇佐は、きっとあたしの顔色が剣呑だからだろうと、ぼんやり思った。あたしが尖った目つきをしているからだ。あたしはそんなふうにして、よく渡部さまに噛みついてきたから。 「これだ、これ」  渡部は風呂敷包みを持ち上げた。 「古着だ。単衣《ひとえ》の元禄だ。仕立て直して、ほうにやったらいいと思った。あの子にも夏着が要るだろう。差し入れぐらいは何とかできるだろう。おまえ、針は達者か?」  宇佐は両腕を垂らしたまま、両の拳を握った。何かこみあがってきたものがあり、それを押し返すには、そうせずにはいられなかったのだ。  「何だ、返事もできんのけ。どうしたというんだ」  自分ではそんなつもりはなかった。ありがたいですけど、あたしは針仕事が苦手です、誰かに頼んでみましょう —— そう答えるつもりだった。  だのに、宇佐は泣き出した。拳を握ったまま、夏の真昼の陽の下で、あるかなきかの濃く短い影を踏んづけて、声をあげて泣き出してしまったのだった。       (下巻につづく)   この作品は「歴史読本」二〇〇一年十月号〜二〇〇五年六月号)に、   二十五回掲載されたあと、加筆・推敲したものです。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  孤宿の人(上) 二〇〇五年六月二一日 第一刷発行 著者  宮部みゆき 発行者 菅 春貴 発行所 新人物往来社 テキスト化 二〇〇五年 八月五日 −零一−